10. 経緯
意識を失った北村は悠乃が連絡した特殊調査室の人間に引き渡された。彼女も捜査の報告や北村の取り調べのために一旦警察に戻ることになり、二日間の欠席の後である今日、再度高校へ登校することになった。
「悠乃ちゃんおはよー、もう風邪は大丈夫なの?」
「おはよう。うん、ゆっくり休んだから」
欠席の名目を風邪ということにしていたため、教室へ入るやいなや悠乃は友人から心配そうに声を掛けられる。それに返事をしながら自分の席に鞄を置くと、ふと隣の席が空であることを不思議に思った。いつも悠乃が来る頃にはとっくに登校している理緒が今日はまだ来ていない。
「悠乃」
「蒼君、おはよう」
よっ、と片手を上げて蒼が彼女の元へとやって来ると、傍にいた友人は意味深な笑みを浮かべて静かに去っていく。彼女は以前悠乃と蒼の関係を疑っていたので、気を使ったつもりなのだろう。
そんな友人の態度にどうしたものかと考えているうち、蒼は悠乃に顔を近づけると周囲に聞こえないような小さな声で呟く。
「それで、勿論話は聞かせてくれるんだろ?」
「うん……」
「じゃあ昼に屋上で」
最初に屋上を行ってからも今まで何度か蒼に連れられてその場所を訪れている。悠乃が頷いたのを確認した蒼はそのまま彼女から離れようとしたが、ちょうどそのタイミングで教室の扉が開き、理緒が登校してきた。
「理緒ちゃんおはよう」
「……おはよ」
体調が悪いのか機嫌が悪いのか、俯きながら小さな声を出した理緒。しかし彼女は自分の席の傍に蒼が立っているのを見ると、すぐさま顔を上げて酷く鋭い視線で睨み付けた。
いつものような嫌悪感を持ったものなどではない。まるで親の仇でも見つけたかのような表情に悠乃は驚き困惑したが、当の蒼は不思議そうに首を傾げただけですぐに自分の席へと戻っていった。
「理緒、ちゃん……?」
「悠乃……ごめん、なんでもない」
悠乃の声に我に返った理緒は力が抜けたようによろよろと着席する。机に置いた鞄によりかかるように顔を埋めた彼女はどう考えてもいつもの理緒とは様子が異なっていた。
授業が始まっても理緒が気になった悠乃は何度か彼女の方を窺っていたのだが、ノートを取る手が止まっていたりどこか上の空に見える表情を浮かべていたり、はたまた前方に座る蒼を殺気立った目で見ていたりと酷く情緒不安定な状態に見えた。
そんなことをしているうちにも時間は進み、蒼と約束をしていたお昼休みに突入する。不穏な雰囲気を理緒に蒼の名前を出すのは正直躊躇われることだったが、悠乃は一つ深呼吸してから理緒に話しかけた。
「理緒ちゃん、今日は蒼君と食べるから」
「……朝日と?」
「う、うん」
「悠乃、行こうぜー」
教室の前方から蒼が悠乃を呼ぶ。勿論その声に反応するのは悠乃だけではない。悠乃達の関係を疑う友人、蒼に行為を寄せる女子生徒、そして何より彼女の傍にいた理緒だ。
先に教室を出ていく蒼に置いて行かれぬように、理緒に再度一言断ってから教室を後にする。背中にぐさぐさと複数の鋭い視線が突き刺さるのを感じながら、彼女は速足で蒼の隣まで追いついた。
「蒼君、理緒ちゃんに何かしたの……?」
「覚えはないな。というか時雨が俺を嫌ってるのはいつものことだろ?」
「それはそうなんだけど、何ていうかいつもよりも」
嫌っているというよりも、憎んでいるという言葉がしっくり来る。それほど今日の理緒は蒼に対して攻撃的な視線を向けていた。
「ま、気にしない気にしない。どうせそのうち飽きるって」
あれほど殺気が込められた目を向けられていたのにさらりとそう流した彼は、いつも通りものの数秒で鍵を開けて屋上への道を開く。
最初にこの場所に来た時よりも随分と強くなった日差しに目を細めながら足を進めた悠乃は、日陰になる場所を選んで腰かける。さすがに熱いのか蒼もフェンスの上には上がらず彼女の隣に座った。
早速焼きそばパンを食べ始めた蒼に、悠乃は弁当を横に置いてまず彼に向かって居住まいを正した後に頭を下げた。
「蒼君。改めて今回の捜査協力ありがとう。それに危ない目に合わせてごめんなさい」
「おいおい、そんなに改まってどうしたんだ?」
「蒼君がいなかったら、今回の事件はそんなに上手く解決しなかったと思うから」
「……それは嫌味か? 何せ俺と一緒に居たから逆恨みされて魔獣を嗾けられたんだからなあ」
「ち、違うよ!」
「冗談だ。んで、結局あれからどうなったんだよ」
慌てて否定する悠乃をさらりと流した蒼は急かすように本題を口にする。
「あ、うん。それなんだけどね……」
促されて、悠乃は落ち着きを取り戻しながら話し始める。この二日間で得た情報とは言っても蒼が知っていることも少なくはない。何から話すかと頭の中を整理した後、悠乃は時系列順に一つずつ説明することにした。
「まず発端は、北村さんが去年蒼君のことを好きになったところから始まるんだけど……」
「それで?」
「その時蒼君はちょうど被害者の白鳥さんと付き合ってた頃だったらしくて、それで白鳥さんに嫉妬した北村さんが白鳥さんを害そうとして魔獣を……本当は悪魔を召喚するつもりだったらしいけど、とにかく呼び出して悪魔憑きになった」
「その時の生贄を白鳥にした。それで、あの女はその後も魔獣を使って俺に近づく女をどうこうしようと思ってたわけだ」
本来贄は悪魔や魔獣と契約を行う時に必要とするものだ。贄を差し出す時点で目的を達していたものの、北村はずっと蒼の周囲を監視し続けていた。そして、新学期に悠乃が現れたのだ。
しかし悠乃は蒼や他の人間と一緒にいることが多かった。中々魔獣を嗾けられなかった北村は苛立ち、そして例の手紙を出したのだ。
「しっかし、そんなあからさまな手で呼び出されるとか。しかもほいほい一人で行くなんてホントに馬鹿正直だよな。相手の思うつぼだろ」
「そうだよね……」
呆れ顔で悠乃を眺める蒼に、彼女も反省するように少し俯いた。秘密を知られたと思って気が動転していたのは確かだが、本当にもっと慎重になるべきだった。
「もっと危機感とか持った方がいいんじゃねーの?」
「うん、気を付けるよ。蒼君、心配してくれてありがとう」
「……」
悠乃がそう言うと、蒼は何故か急に黙り込んで何とも言い難い表情を見せた。何を言われたのか分からないといった様子のその顔は普段の彼からかけ離れた、妙に隙を見せたような表情だった。
「俺が、心配……? そんな訳」
ぶつぶつと無意識に呟かれた言葉が零れ落ちる。それは悠乃には聞こえないほど極小さなものだった。
「どうしたの?」
「……何でもない。それで、あいつの取り調べで分かったことはあるのか?」
「それが、あるにはあるんだけど」
北村が所持していたものの中に、一枚の紙きれがあった。ノートを破ったものらしいそれに書かれていたのは、魔法陣と悪魔の召喚方法だったのだ。
「それは正しいやり方だったのか?」
「うん。ちょっと古めかしいけど正式な形式のものだった。だけど、北村さんがどうしてそれを持っていたのか曖昧で」
彼女は警察の問いかけに、その紙は拾ったものだと答えたのだ。しかしそれはあからさまに嘘を吐いているように見受けられた。悠乃だったらそのまま納得したかもしれないが、ベテランの警察官に付け焼刃のごまかしなど通用しない。
しかしそこに書かれた文章が彼女の筆跡とも違ったため、誰かしらから譲渡されたものではないかという見方が濃厚だった。その人物は果たして誰なのか。
「悠乃はこのまままだ高校で捜査するのか?」
「北村さんがオカルト部だったから、部員の誰かから貰った可能性が高いと思うの。……あの、魔法陣とかあったし」
「ああ、あの部長のやつな。だけどあれは間違いだったんだろ?」
「そうなんだよね」
あれが正式なものだったら、星崎を真っ先に疑うだろう。しかし実際はよく出来てはいたものの、あの魔法陣で悪魔や魔獣は召喚できない。北村も間違えたように、魔法陣はとても繊細で少しでも間違っていると望む結果は得られないのだ。
しかしながら、北村のことを含めて星崎に一度話を聞いてみる必要があるだろう。
「あー、よかった」
「何が?」
「悠乃がまだここに残ってくれるってこと」
含むような表情で口の端を釣り上げた蒼は、食べ終えたパンの粉を払ってコンクリートの上に寝そべった。
「お前がいなくなったら面白い事件に関われなくなるからな。まだ悪魔も見てないし」
「……だから、多分見えないって」
蒼の言葉に一瞬どきりとした彼女は、しかし続けられた言葉に嘆息して肩を落とした。実に彼らしい理由だった。
「何だ、悠乃。疲れてるのか?」
「ちょっと……」
「まだ時間あるし、お前もちょっと寝とけば? ほら」
「わっ」
いきなり腕を引かれて彼女は蒼の隣に倒れ込む。起き上がろうとしたが腕は掴まれたままで、悠乃は諦めてそのまま仰向けになって視界一面に広がる綺麗な青空を眺めた。
「そういえばもうすぐテストだなー。悠乃は初めてか?」
「……小学校の頃は受けたことあるけど、殆ど初めてかな」
「ふーん」
日陰なので少々背中が冷たいが、空気が暖かいので心地いい。その気持ちよさに思わず眠気が襲ってきた悠乃はゆっくりと瞼を下ろしかけたのだが、不意に隣から発せられた大きな声に驚いて意識を浮上させた。
「悠乃、ほら見てみろよ!」
「え、何」
「あそこ、飛行機雲!」
一瞬蒼の言葉を受け取り損ねた悠乃は、再度彼の言ったことをよくよく反芻して首を傾げた。彼がそこまで珍しくもない飛行機雲に歓声を上げているということがいまいち飲み込み辛かったのだ。
飛行機が好きなのかも、とぼんやりと考えた悠乃は彼に促されて空を見つめる。指差す方向には確かに薄っすらと飛行機雲があって、彼女はそれを再度重たくなってきた瞼を押し上げながら見ていた。
しかし、その目が大きく見開かれたのはその直後のことだった。
「え!?」
思わず声が出た。飛行機雲を横切るように、悠乃の視界に何か黒い影が映り込んだのだ。はっきりとその全貌を目にできた訳ではなかったが、決して鳥などではない大きく広がっていた翼は、悠乃が今までに何度か目にしたことがあるそれだった。
不意に、最初に魔獣に襲われかけた時のことを思い出す。魔獣に意識を持っていかれたため今まで忘れていたが、彼女はその直前に薄闇の空に今と同じものを見ていたのだ。
あれは――
「悪魔……!」
それは確かに、悪魔そのものだった。
しかし悠乃が勢いよく起き上がるも遅く、空を飛んでいた悪魔はすぐにどこかへ消えて行ってしまった。悠乃の視界を遮るように傍の校舎の隙間を縫ってその姿は隠れてしまい、今から追いかけてもとても間に合うとは思えない。
魔獣を討伐しただけでは終わっていない。この学校には、別の悪魔憑きがいるのかもしれない。二度も校内で姿を見たということはその可能性が高いのだ。悠乃は慌てて携帯を取り出して速水へと連絡を急いだ。
「……」
完全に悠乃の意識の外に追いやられた蒼は、しかしそれに文句をつけることなく相変わらず寝そべって悠乃を見つめている。
その表情は、相変わらず何かを企むように薄っすらと笑みを湛えていた。




