迷走フラクタルI
家政婦の水沼夕実が操舵するクルーザーが静かに停泊して、荷物を抱えた冴木賢が大きな桟橋に降り立った。
既に他の面々は降りており、思ったよりも小ぢんまりとした盈月島の風景を堪能しているようだった。フリーカメラマンの天野蛍は、自慢の一眼レフを覗いてフラッシュを焚いている。
クルーザーから最後の一人である家政婦の水沼がエンジンキーを右手に、左手ではメイド服の長い丈のスカートを持ち上げながら桟橋に降りると、冴木に一礼した。
「どうですか、盈月島は」
「思っていたよりも、立派な島ですね。個人の所有する島なんて訪れたことがないので断言はできませんが、よく手入れがされているように思えます」
「まぁ、ありがとうございます」
「他に家政婦はいらっしゃらないんですか?」
「昔は居たそうですが、今は私一人です。何と言っても、ご主人の雅文様と、その奥さんである久美子様の二人しかここには居ませんからね」
冴木は少々驚いて水沼の全身を見た。クラシカルメイド服というような気品のある容貌で、富豪に雇われるレベルの能力を有しているだけのこともあり、着こなしも上品に思えた。
「ということは、館だけでなく島の手入れもお一人でされているのですか?」
「はい、もちろんです。この桟橋から幻霧館にかけての道は綺麗に掃除して草木の剪定もしました。あの、あちらに灯台があるんですが分かりますか?」
水沼の指差すほうへ視線を向けると、確かに古びた灯台が見えた。
「ありますね」
「あの灯台は数年ほど前から調子が悪くて灯りが点かないんです。ですから、あちらに続く小径だけは手入れをしていません。少しだけですけれど、私の仕事が減って楽になったんですよ」
だからと言って膨大な量の仕事なのではないか、と冴木は思ったが深く詮索はせずに頷くことにした。
「普段からそのメイド服を着てお仕事を?」
「ええ、もうこれを着ていないと落ち着かなくなりました」
「へぇ、ここで勤めるようになって長いんですか?」
「かれこれ十年になりますね」
そう言って水沼はスカートを持ち上げて微笑んだ。とても三十代には思えない若々しさを兼ね揃えている。
冴木が黙って見ていると、水沼が首を傾げた。
「仕事着としては着苦しいと思います?」
「あ、そうですね。何枚も重ね着しているようなイメージで」
「そんなことありませんよ。昔のはよく分かりませんが、今の時代のは通気性も良くて重宝します。数十着あるんですけれど、良かったら着てみますか?」
「冗談はやめて下さいよ」
冴木が苦笑すると、水沼はクスクスと笑って桟橋を渡って近くの納屋に向かっていった。
冴木も荷物を抱え直して集合している人だかりに加わった。すると、みれいが眉間に皺を寄せて近付いてきた。
「冴木先輩、鼻の下伸ばして水沼さんと仲良くしていらっしゃいましたわね。何を話していたんですの?」
「何をムキになっているんだい、有栖川君」
「もう……冴木先輩って、メイド服が好みなんですの?」
「メイド服が好きなのは萩原だ。週に一、二回はメイド喫茶に足を運んでいるのを知っていたかい?」
「えっ……!」
みれいが口元に手を添えて萩原の方を向いた。冴木も盛大にくしゃみをする萩原を横目で見ながら心の中で詫びた。なぜなら、萩原は別にメイド喫茶に行ってなどいない。単に話の矛先を変えるために思いついた冗談である。単純なみれいは間に受けて萩原への好感度ゲージを下げてしまったかもしれないが、後で訂正しておけばいいだろう。覚えていたらの話だが。
そうこうしているうちに、いつの間にか納屋から戻ってきていた水沼と、ツアー企画者である堂島と折江名の計三人が先頭に立って島の奥にそびえ立つ館へと出発していた。
冴木とみれいもはぐれることはないにしろ、企画者に迷惑をかけるのも憚れるので素直に後を追った。
盈月島の小径は石一つ転がっていない綺麗な道だった。塗装はされていないが、へこんでいる箇所もなければ盛り上がっている場所もない。
緩やかなカーブを描いている小径を三分ほど歩くと、目の前に乳白色で清潔感も兼ね揃えた大きな館が出迎えた。帽子を被った堂島が声を張り上げている。
「えー、ここが今日からお世話になる月ヶ瀬さんの所有する幻霧館です」
幻霧館は二階建てになっており、左手側には煙突があった。右側はサンルームになっており、いくつかの植木鉢が並べられている。これ以上ない豪華さだ、と冴木は感心した。
水沼がポケットから取り出した鍵束の一つを鍵穴に差し込んで、玄関扉が開いた。全員が巧緻な玄関の造りに心を奪われながら館に入った。
「島によそ者なんて来ないと思うんですけれど、玄関にも鍵を取り付けるなんて殊勝な心がけですわね」
みれいだけがこういった豪華絢爛な館に見慣れているのか、特に驚きを露にすることはなく平然と口にした。
「そりゃあ、玄関に鍵を取り付けるのは潜在意識というか、常識の範疇だろう」
「それにしても、慣れない船の移動は疲れますわね」
みれいの言葉を聞いていたのか、自称占い師の落合櫂座がゆらりと陽炎のように近付いてきた。
「わ、わたしも船酔いして……」
「まぁ、大丈夫ですの? 冴木先輩、酔い止め持っていらっしゃる?」
「持っているよ」
冴木は鞄の外ポケットに手を入れて酔い止めを取り出した。落合が長い髪を耳にかけながら「あ、ありがとう」と薬を受け取った。
企画者の堂島が室内だというのに帽子を被ったまま、一度部屋に荷物を置いてから食堂で昼食にするとの旨を説明したので、一同はそれに従うことになった。カーペットの敷かれた階段を上って二階に行き、西側の部屋に案内された。
二階西側の通路の左手前から、有栖川みれい、瀬戸茜の二人。一つ奥に企画者でありディストピアの記者の堂島博武、折江名莉丘。右手前には冴木賢、萩原大樹。残る一部屋にフリーカメラマンの天野蛍と冴木が酔い止めを渡した落合櫂座の二人が案内された。
そして、どの部屋にもドアノブに十字架が括り付けてあった。
「ドアノブの十字架、何だと思う?」
冴木が入室してから萩原に訊くと、さぁ、という萩原の素っ気ない返事が帰ってきた。
冴木は質問の相手を間違えたなと荷物を降ろして廊下に出た。萩原は埠頭まで自分の車を運転していたというのに元気が有り余っている様子で、部屋の内装を細かくチェックしていたが、冴木が廊下に行くと素早く後についてきた。
既に廊下には帽子を被った堂島と、家政婦の水沼がいて何か会話をしていた。堂島が冴木と萩原に気付いて、目尻にある皺をより深くして笑顔を作った。その隣にいる水沼が「では用意をして参ります」と言って、一階に続く階段へと降りていった。恐らく、用意してある昼食を食堂に運ぶのだろう。
「早いですね、二人とも」
「いやぁ、もう腹ペコですからね」
萩原が堂島にお腹が空いた、というジェスチャーを披露した。
「存分に召し上がって下さい。全員が揃ったら、一階の食堂に行きましょう。今、水沼さんが支度をしてくださっているので」
「昼食も水沼さんが作ったんですか?」
冴木が訊くと、堂島は当たり前だという様子で頷いた。
「料理はいつも彼女が作るそうですよ」
「あの、いつもって、堂島さんはここに何度か来たことがあるんですか?」
「ええ、何回も取材のお願いはしていたんですが……そうですね、初めて来たのは十年ほど前です。初めてこの盈月島にある館を知らされて何度もお願いしたら容認されまして。かれこれ四回ほど取材では訪れています」
「ミステリーツアーとしては?」
「それは、初の試みですよ。雅文さんが執筆もひと段落したということで、たまには普段とは違うことを楽しもうと思ったようでね。何でも、些細なことから小説のきっかけになるものが生まれるとかなんとか」
「小説、ですか。雅文さんは小説家なんですね」
「あ、ご存知ありませんでしたか?」
堂島が意外そうな顔をした。冴木の横にいた萩原が肘で小突いてくる。
「バカ、お前月ヶ瀬さんの作品は割と有名だぞ? このツアーの用紙にも月ヶ瀬さんの代表作だとか、偉業が書かれていただろう」
「見ていないよ」
萩原が肩を落としていると、次々に扉が開いて荷物を置いて身軽になったツアー参加者の面々が姿を現した。
「あ、全員来たようですね。では、一階の食堂までご案内致します」
冴木は後に続きながらもう一度内装を確認する。小説家とはいえ、随分と凝った造りである。それにーー。
「あの、堂島さん」
「何ですか?」
「どの部屋のドアノブにも十字架が掛けられているみたいですね。何か知っていますか?」
「ああ、なるべく触らないで下さいね。あれは……魔除けですから」
「魔除け?」
「ええ、後でお話するつもりだったんですがね。この島には……出るんですよ」
「出るって……何がです?」
堂島がわざとおどろおどろしい低い声色で囁いた。
「吸血鬼ですよ」