幽咽パラノイアIV
思っていたよりも時間がかかってしまった。
祭壇の前に、供物として娘たちが無様に横たわっている。無抵抗な姿を見て、生まれたばかりの娘たちを偲んだ。
しかしなぜかその思い出たちは他人事のように思えてならなかった。一瞬で記憶を忘却して頬を叩く。深く、深く、深呼吸した。
不思議と罪悪感はなかった。それどころか、これまで重くのしかかっていた責務を果たしたような、どこか清々しい気持ちさえする。
あれほど喧しかった祖父の声はもう止んでいた。
それにしても、途端に頭の中で何かが暴れだした時は遂に気が狂ったのかと思わざるをえなかった。
あれは廊下を歩いて娘たちがいる部屋に向かう際に聞こえた会話。もう英梨と奈緒の二人は初潮を迎えて大人の女性になっている。
それを知った途端に、唆す声が頭の中を支配して、瞬く間に計画が組み立てられた。
生贄を捧げなければいけない。
いや、生贄を捧げるのだ。
昔から続いているしきたりがそうさせるのか、血が疼いた。駄目だと頭では分かっていても、本能がそれを邪魔した。
殆ど使命的に紅茶に睡眠薬を混ぜ込んで娘たちに出した。
唯一の邪魔者である佳織が席を外したので、これ幸いと眠った英梨と奈緒を抱きかかえて地下一階に降りた。
左手に広がる自慢のワインセラーを見向きもせずにその奥にある礼拝堂に入る。祭壇の前に寝かせて英梨、奈緒と順に扼殺した。
予期せぬ闖入者に邪魔されはしたが、見てしまったのなら仕方がない。薬が少なかったか、あるいはトイレで吐き出してしまったのだろう。運のない娘だ、と雅文は肩を落とした。
雅文はポケットから容器を取り出して蓋を開ける。中には注射器が入っていた。
「ああ……器がいるな」
一度注射器を置いて、踵を返した。
すぐ隣にワインが整列しているため、グラスも僅かだが置いてあった。その一つを取って、再び礼拝堂に戻る。
注射器を手にとって、どこに刺すべきか迷ってからまず英梨の首元に刺した。当然ながら反応はない。
注射器にみるみるうちに赤い液体が溜まっていきぼたぼたと垂れた。ワイングラスに注ぐと、丁度半分ぐらいの量だった。
英梨の首から滲んでいる血を無視して、次に奈緒の首元にも注射針を刺した。躊躇なく引くと血があっという間に溜まって、思い出したかのように血の匂いが鼻にこべりついていった。
鼻腔を血の香りで充満させながら再びグラスに注ぐと、生々しさを感じる血のグラスが完成した。
祖父のときは奇妙な杯だったが、ワイングラスに注ぐとまた一層気味が悪い。西洋のカトリックなどで行われる黒ミサのような印象を与える。カトリックのミサではワインをキリストの血に聖別して飲むが、サタン崇拝者のサバトは幼児の血を飲み干す。月ヶ瀬で代々行われているのも、そういった奇妙な儀式に近い。
グラスを祭壇に置いて、再び娘たちを恍惚と見やる。
儀式は終わりだ。
この血の儀式は、雅文の知る限りでは江戸後期から続いている。当時は吸血鬼ではなく、怪物あるいは先祖のもののふだと言われていたらしい。
とある代で儀式を怠ったとき、何人も血を抜き取られて死んだということからいつしか吸血鬼と呼ばれた。考えるだけでもおぞましい。
何故吸血鬼が月ヶ瀬の血を継ぐものと関係があるのか全く知らない。だが、血は捧げなければいけない。これがこの家に生を受けた者の遵守すべき使命である。
血とはすなわち生命の根幹であると考えられており、先述した黒ミサなど、古来から人間の臓器や血を捧げる儀式が存在しており、ギリシャ神話では降霊の際に子羊の新鮮な血を用いるくだりがある。それほど、欠かせない代物なのだ。
雅文は心の中で自分を正当化して、止めどなく溢れる汗を拭った。
英梨と奈緒は首から血を垂れ流しながらピクリとも動かない。佳織はというと、口から泡を吹いて白目を剥いていた。不可抗力とはいえ、殺すまではなかったかと、雅文は嘆いた。
ふと、先ほど佳織が暴れていた箇所に目を向けると、腐りかけている壁が一部分ではあったが剥がれていた。
軽く舌を打って雅文は礼拝堂を出る。
真っ直ぐに一階にある倉庫に向かうと、木の板と鋸を持って地下に降りる。もう一往復して、釘とハンマーも持ち運んだ。
なんの変化もない礼拝堂に入り、壊れかけている壁のサイズに合うように木の板を調整した。立てかけて確認していると、何か音が聞こえてきた。
「なんだ……?」
雅文は一旦作業を中止して礼拝堂を出ると一階に向かった。一階に上がると、音はより鮮明になりすぐに何の音か理解した。
自家用クルーザーのエンジン音だ。
そこで今日が何日だったか確認していなかったことを思い出した。
雅文はキッチンに向かって電子時計を確認する。
「しまった、今日は雑誌記者が来るのか。確か、堂島といったか……」
雅文はキッチンを飛び出して地下に向かうと、礼拝堂の南京錠をしっかりとしめてすぐに自室に向かった。
服には返り血と汗が混ざり合ってぐっしょりと濡れている。
服を乱雑に脱ぎ捨ててタオルで拭くと、新しい服に着替えた。
しばらく死体を放置する羽目になってしまうが、いたしがたあるまい、と雅文は苦虫を噛み潰したような顔を堪えて洗顔をしにいった。
真っ青な顔は、何度水ですすいでも変わらなかった。