幽咽パラノイアIII
「ねぇ、奈緒。大きくなったら、何になりたい?」
双子の姉、英梨が無邪気な笑みを浮かべて訊いた。
「うーん、お医者さんかな」
「どうして?」
「お母さんの病気、どんどん悪くなっていくでしょう? 何だか、何も出来ないのがもどかしくて、私だって治してあげたいっていう気持ちは同じなのに、どうして何も出来ないんだろうってね……英梨姉さんは?」
「意外ね。私もお医者さんに憧れていたの。お母さんみたいに病気で苦しんでいる人が他にもいるのかもしれないってある日思ってね。つまり、私たちみたいな境遇の子もいるかも知れないってこと」
「それをなくしたいから、お医者さんに?」
「うん、そうだよ」
「私たち、やっぱり双子だね」
思わず笑みが零れた。
「そうね、でも奈緒。佳織の事も忘れちゃだめよ。あの子、自分だけ後から産まれたからって少し身を引いてる部分があるから」
英梨が困った顔で腕組みした。とても私と同じ十二歳とは思えない卓見な姉である。
「佳織にも、将来の夢をきいてみようか。あの子もお医者さんなんていったら笑っちゃいそう」
奈緒は悪戯っぽい笑顔を浮かべる。
「うん、でも私はもう行かなきゃ」
「英梨姉さん、どこに行くの?」
「じゃあね」
急速に意識が戻って酸素を幾度となく取り入れた。どうやら夢を見ていたようだ。床に横になっているのか、地面がひんやりとしていて気持ちが良い。
瞼を開けても、暗かった。
夜?
いや、違う。
目隠しをされている。
すぐ隣で、何か蠢いた。力強くもがくように何かが暴れている。床を叩く音に混じって、荒い呼吸が聞こえた。誰かいる。それも二人。
声を出そうと思ったら思わず咳き込んでしまった。
恐る恐る手を動かして目隠しをずらす。少し右側をみたら、顔が見えた。
誰の顔だろう。
逡巡して、気付いた。父だ。鬼の様な形相で、額には汗を流している。その瞳は一点を凝視して、心なしか潤んでみえた。
ばたばたと床を叩いていた音が止み、荒い息遣いだけが残された。
首を横に倒すと、同じように寝そべっている人と目があった。
「ひっ……!」
思わず息を飲む。急に酸素が足りなく感じて、急いで呼吸を再開した。
横に寝そべっているのは、長女の英梨だった。
普段の温厚な表情からは一切垣間見ることの出来ない血走った瞳に涙が溜まっている。口元からは舌が投げ出され、涎が垂れていた。生の灯火を宿しているとは思えなかった。
何が起きているのか頭が理解するより前に、頭を押し付けられた。
「大人しくしていろ」
父の声が冷たく耳に届いた。いつもの声色ではない。父が父ではないように感じる。
「な、に……するの」
歯を食いしばって声を出すと、父が手の力を一瞬緩めた。その隙に躰を起こそうと力を込める。
願い叶わず、父の大きな手が飛んできて後頭部を床に勢いよく強打した。
「痛っ……!」
「大人しくしろ!」
苦痛に苛まれて目を細める。天井が見えて、初めてここが地下にある礼拝堂だと気付いた。
すぐに視界いっぱいに父の顔が映った。その顔は、虚ろである。
「何もしない、何もしない」
父が機械的に繰り返して、奈緒の二倍以上はありそうな腕を動かし、熱いぐらいに感じる手が奈緒の首を掴んだ。
甘い匂いがする。
そういえば、ケーキを食べたんだ。
ケーキを食べて紅茶を飲んだら急に頭がクラクラして、少し横になった。そう、少しだけ横になっただけ。
どうして、私と英梨姉さんは礼拝堂にいるの、お父さん。
声にならない声を出す。父の手は力を帯びて、あっという間に呼吸する術を失った。
「や、めて……おと、さん……」
声はすぐに出せなくなった。息が吸えなければ、吐けもしない。間断なく絞められる首が、無呼吸の苦しみを忘れさせてくれるような激しい痛みを発した。
奈緒の華奢な腕では父の腕を払いのけることが出来なかった。腕に力が入らなくなり、右手が落ちる。ひやり、と何かを触れた。
(英梨姉さん……)
姉のことは好きだった。同じ時期に同じ胎内にいて同じ瞬間に産まれて同じ感動を味わって泣いた。
ああ、そして同じ瞬間に死ぬのか、と奈緒は悟った。
続けて左手も力が抜けてだらしなく落ちる。今度は何も触れなかった。
(佳織は居ない……?)
遠ざかっていく意識の中でまだ幼い佳織の顔を思い出す。もしここにいないのなら、逃げてーー。
一筋の涙が溢れて、意識が途絶えた。
礼拝堂の入り口、僅かに隙間の空いている扉の前に、佳織はいた。
扉には魔除けとして飾られている蛇が巻き付いた十字架と、古びた南京錠がある。今は施錠されていなかった。ドアノブには手を掛けずに、そっと扉を押してみる。
扉は軋まずにゆっくりと開いた。隙間から礼拝堂の中を覗き見る。
礼拝堂の奥にある祭壇の手前に父の背中が見えた。膝をついて、まるで土下座をして懺悔しているような格好に見える。気分が悪いのかも知れない。
途端に不安と寂しさが募って、父の温もりが欲しくなった。扉を開けて中に一歩踏み出す。
物音に気付いてか、父が頭を上げた。そして、足元にあるものに佳織はようやく気付いた。
「……英梨お姉ちゃん? な、奈緒お姉ちゃん?」
どうしたの、という言葉を発することが出来なかった。
父のあの冷ややかな視線が佳織を射抜いたからだ。
目に見えないナイフが刺さってしまったかのように、胸の奥が痛んで、足が棒になる。父が立ち上がってこちらに歩いてくるのが分かった。
その後ろに寝そべっているのは、二人の姉で間違いはない。どうして、横になっているのか、皆目見当もつかなかった。
「お、お父さん、どうして礼拝堂に?」
恐る恐る声を掛けると、父が佳織の目の前で立ち止まって額の汗を拭った。
「私たちのためだ」
「私たちって……?」
「月ヶ瀬の血を引く者だ」
「あの……お姉ちゃん達は何をしているの?」
父の背後になって見えない二人の姉を見ようと歩を進めたが、今度は物理的に止められた。
父の拳が、鳩尾を強打した。みるみるうちに何かが込み上げて吐き出した。
何が起こったか理解するのに十秒近くを有した。喀血して、口内に嫌な味が満ちた。
「薬が足りなかったか……。佳織、吸血鬼への生贄はもう足りているというのに、なぜ来た。眠っていれば良かったものを……」
薬?
吸血鬼?
生贄?
足りている?
佳織の頭の中で母の絵本が思い浮かんだ。それは、私たちだけにしか見せないといって描かれた小さな絵本。
吸血鬼が蘇らないように、供物を捧げる話だった。大人になった女性の血を抜いて、封印されている吸血鬼に捧げる。それによって怪異が起こることなく、順風満帆に過ごせる。その時は、全く理解出来なかったし面白いとも思わなかった。そもそも吸血鬼というのは、空想上の存在だと幼心に理解しているつもりだ。
だが、今は違う。そうか、生贄なのか。私たち三姉妹はーー。
立ち竦んでいる父を振り切り、余力を振り絞って姉たちの元に走った。ほとんどヘッドスライディングに近い形で転びながら二人に辿り着いた。
どちらも四肢をだらしなく投げ出してピクリとも動かなかった。そっと手を握ってみたが、すでに冷たい。首に青い痣があった。
後ろから床を踏む音が聞こえる。
逃げなければ、私も殺される、と佳織は悟った。
震える足を叱咤して無理やり動かし、さらに奥の祭壇を通り過ぎ、左手の壁を見た。前に一度こっそりと遊んだ時に見つけていた、腐りかけた壁がある。ここを壊すことが出来たら、隣にあるのは地下一階の通路でワインなどが貯蔵されている広い空間に出れるはずだ。
佳織はありったけの力で壁を蹴り飛ばして、躰をぶつけたりして壁を壊そうとした。
僅かに穴が開き始めたときには、髪を鷲掴みにされ放り出されていた。
背中を打ち付けて、再び血を吐いて気管に入り込んだ。
「すまない」
遠退く意識のなかで、父の暖かい声が聞こえた気がした。