幽咽パラノイアI
ビジネスマンの三種の神器と言っても過言ではない高級なボールペンを惜しげも無く走らせ、月ヶ瀬雅文は原稿用紙に晦渋な文章を書き殴っていた。
スイスの会社に特注で作らせたボールペンは、鉛筆の軸を模した六角形のデザインであり、昔から鉛筆を好んでいた彼にとって馴染みやすく、疲れにくい最高のパートナーとして活躍している。
自身の頭の中に展開された最終のプロットまで一気に書き終えた雅文は、パートナーから手を離して椅子に深くもたれた。フレームのない眼鏡を外して日に日に悪化していく眼精疲労を少しでも緩和するために力強く目元を抑え、大きく息を吐いた。
どれほどの時間、執筆作業を進めていただろうか。
雅文の仕事場である幻霧館一階に位置する書斎は、まるで世界から隔離されているように静寂が支配している。壁に掛けられている時計の針は、しきりに動いているが独特なチクタク、という音は発していない。耳を澄ましても聞こえるのは自分の心音、あるいは呼吸音しかない。それほどここは、雅文にとって理想の無音空間である。
雅文は引き出しを開けて葉巻を取り出すと、マッチを擦って火を付けた。
煙に目を細めながら机上に目を落とす。今しがた執筆していた小説の原稿が、積み重なっている。軽く片手で整理して溜め息を零した。
「やれやれ、次は添削しなければいけないな」
独りごちてから大きく煙を吐いて、音のしない時計を見やる。短針が八、長針が二を示していたが、果たして今が午前なのか午後なのか、壁掛け時計も体内時計も明確に示してはくれず、仕方なく重たい腰を上げて分厚いカーテンを開け放った。
一瞬目に痛みが走るほど眩しい陽光が、瞬く間に書斎の闇を払いのけ、午前八時二十分なのだと理解することが出来た。
だが、果たして何月何日の午前八時二十分なのか、それまでは把握することが出来なかった。しかし時間を忘れて執筆するためにここにいるのだから、至極当然である。
書斎から見える外は海と空、青と水色のコントラストで輝いている。
「やはり、盈月島は良いところだ……」
訳あって殆ど住み込んでいる盈月島の甘美をまるで生活の一部のように感じながら、また葉巻を咥えた。
自然に囲まれ、都会の嫌な雑踏の埒外にあるこの島で、誰憚ることなく静かな書斎で作業に没頭できるというのは、本当に理想郷そのものである。倦み疲れることなく作業し続けるのは若干懸念すべきことでもあったが、この際仕方がないと割り切っていた。とはいえ、かれこれ丸一日以上は食事をとっていない。
そう考えた途端に腹が鳴った。
これから添削作業があるというのに腹が減っては戦が出来ぬ、雅文は葉巻を揉み消した。
僅かに飛翔した灰が原稿にかかってしまったので、軽く指で払う。丁度タイトルが記載されている箇所だった。
その血は、誰がため。
タイトルを反芻して雅文は脳内にあるプロットを再び読み返した。
雅文はミステリー作家である。中でも、SFのようでもあり、ファンタジックでもあり、はたまた恋愛小説でもあるような、何とも摑みどころのないシリーズを執筆している。
元は助教授として大学に勤めていたのだが、当時読んでいたミステリー小説に感化されて自分でも書けるだろうか思い立ったのが始まりだった。
それがあろうことか、有名な雑誌に掲載されることになり、出版した本が飛ぶように売れた。助教授としての収入を軽く上回ったせいで、雅文は悩んだ末に助教授を辞職して専門作家になった。たまたまベストセラーになっただけで、生涯作家としての収入だけで飯を喰っていくなんて、雲をつかむような話だ、と雅文の旧友は頻りに止めたが、一度蜜を覚えた雅文は止まることを知らなかった。
宇宙探偵である主人公が数多の惑星に渡り、その星々で起こる奇々怪界な出来事にまさに神の頭脳ともいえる才覚を遺憾なく発揮して謎を解き明かしていく、そんな得体の知れない小説が何故売れたのか、今でも雅文は首を傾げている。
二作目、三作目ともに読者から待っていましたと言わんばかりの反響を受けて、雅文は天狗になっていた。
ところが四作目に執筆した内容がいけなかった。自然災害が関与する内容だったのだが、出版後すぐに大規模な地震が起こり、小説に書かれた内容の表現が被害者を馬鹿にしているのでは、というクレームが入ったのだ。もちろんそんなつもりは毛頭なかったのだが、被害を被った人々からすれば仕方のない事のようにも思えた。
予期せぬ事態のせいで売り上げは滞ったが、復興が進んで次第に明るい希望が芽生えると、人々は小説のことなどまるでなかったかのように忘れ去っていた。
間をおいて出版した五作目は逃げの一冊だった。反感が恐ろしかったのだ。売り上げこそ伸び悩んだが、まだ蓄えた貯金は山のようにあった。そのおかげで、この島も館も手放すことはなく悠々自適な今の生活がある。
六作目、これは妥協したくない。そんな感情が心を覆い尽くしていた。そして題材になったのが月ヶ瀬家に代々伝わる古の悪鬼、吸血鬼をモチーフとした作品だった。
その六作目こそが、その血は、誰がため、である。
吸血鬼は雅文にとって忌まわしいものである。奇妙な伝承が今もなお、続いているのだ。
思い返そうとするだけで、虫唾が走る。
ーー生贄を捧げよ。
不意に懐かしい祖父の声が蘇った。
ーーどうしてこんなことをするの?
まだ幼い雅文が涙声で反駁する。
ーーこれも全て、月ヶ瀬に流れる血の運命なのだ。受け入れよ、そして解き放て。いつか来るべきとき、決して自分を見失い、迷うでない。災いが己が身を討ち滅ぼすだけでは済まぬのだ。よいな、雅文。
厳格な祖父が、見たこともない形相で幼い雅文を見据える。
ただただ恐怖が募り、目を背けたいのに背けられない。気分が悪い。吐き気がする。
震える雅文の目の前で、祖父は二人の妹のうち一人、まだ幼い美紀子を磔にして、巨大な斧を振るって首をはねた。
血が吹き出して驟雨のように降り注いだ。祖父は口を開かずに胴体と離れ離れになった美紀子の首を取り上げ、杯に血を絞った。
あっという間に満たされた杯を、祖父は礼拝堂の床に描かれた魔法陣のような紋様の上に置いた。切り取られた頭部は束縛から解放された美紀子の足元に添えられた。
ーー吸血鬼を目覚めさせては成らぬのだ、雅文。
はっ、と目を開くと、雅文は書斎に横たわっていた。
「また、この夢か……」
殆ど無意識のうちに意識が剥離して眠ってしまうことがここ最近多々あった。いくら仕事で執筆しているとはいえ、集中し過ぎるのも毒かもしれない。
雅文は額に滲んだ汗を拭って、引きずるような足取りで書斎を出た。
静まり返った廊下に出ると幾分が心がリセットされ、足取り軽く妻である月ヶ瀬久美子の部屋を訪れた。
鍵を開けて中に入ると、久美子はベッドに横たわって淡々と絵本のページを捲っているところだった。長い白髪のせいで横顔は窺えない。
「久美子、腹は空いていないか?」
「いいえ、お兄様」
目は本を見つめたまま、抑揚のない声で久美子が答えた。
「久美子、今は家政婦がいないからとはいえ、その呼び方はやめろと言っているだろう」
「申し訳御座いません。ところで、いつ大学に行かれるのですか?」
「私はもう辞めたと何度も言っただろう」
「そうですか」
雅文は会話を止めて久美子の部屋を出た。ちりん、と手元で音がする。
魔除けと称してどの部屋のドアノブにも括り付けてある十字架だった。ボールペン同様に特注した品であり、ウロボロスの輪を象った蛇が十字架に絡みついているのが特徴である。
これも全て、悪しき吸血鬼から身を守るためなのだ。
「お兄様」
部屋の中から妻の声がした。施錠しかけていた手を止めて、再び入室する。
「どうした?」
「あの、お兄様はいつ大学に行かれるのです?」
久美子は屈託のない笑みを浮かべた。絵本はすでに閉じられている。
「久美子、私はもう大学は辞めたのだよ」
「そうですか」
久美子は血の繋がった妹であり、重度の認知症だった。僅かな時間で、記憶が抜け落ちたかのような状態に陥る。
久美子は二人の妹のうちの一人であり、書類上では未婚である。
だが、月ヶ瀬の家で女性は婿を取れない。そして男性は嫁を迎え入れることはしない。いや、出来ない。
全ては、伝承されている吸血鬼の呪いのせいである。久美子は妹であり、妻でもあるのだ。
ーー生贄を捧げよ。
亡くなった祖父の声が、何処からか聞こえた気がした。