蕭条フィアーIV
冴木賢は、食堂の椅子に腰掛けてオレンジジュースを飲んだ。
つい今しがた、堂島と折江名が金庫にしまった全員の携帯電話を取りに行くため席を立ち、萩原と茜の二人もついて行った。自称探偵の茜は、ツアー企画者である二人にどこか怪しさを感じ取ったのかもしれない。
その疑問も確かに、冴木の中に浮上していた。
現状としては、月ヶ瀬夫妻を殺害可能な人間は鍵を持っていた家政婦の水沼である。だが、わざわざツアーが開かれた日に殺害を犯すとは思えなかった。それすらも水沼の思惑通りだとすると、思考回路を読み取るのはほぼ不可能だろう。この現状を楽しむためにやった、などという解答はサイコパスに近い。
盤上をひっくり返せば、ミステリーツアーが起こったからこそ殺人が起きたと仮定できる。
そのツアーを考案したのが雑誌記者の堂島と折江名、そしてこの盈月島と幻霧館の持ち主である月ヶ瀬雅文である。雅文が亡くなった今、捜査線上にあがるのは必然的に堂島と折江名の二人である。
考えを整理していると、カメラマンの天野が話しかけてきた。
「あの……冴木さん」
「なんですか?」
「雅文さんも、亡くなってしまったんですよね?」
「はい、残念ながら」
「それはあの奥さんと同じように、吸血鬼に血を吸われていたんですか?」
「吸われているように見える、が正しいですね。首に傷跡はありますよ」
「でも、鍵は掛かっていたんですよね?」
「みたいですね。僕は直接確認していませんが、有栖川君は見ていたよね」
「ええ、見ていましたわ。雅文さんの寝室も書斎も、鍵が掛かっていましたわ」
「だったら密室じゃないですか。鍵は水沼さんが持っていたんですよね? 本当に他に鍵はないんですか?」
矢継ぎ早に問いただす天野の声に水沼が肩を震わせてスカートの部分をぎゅっと握った。
「私の知る限り、他に鍵はありません! 私はかれこれ十年以上もここでお世話をしていたんです。どうして私が疑われなければいけないんですか!」
「あ……その、ごめんなさい」天野が弱々しく謝罪した。「何だか気が動転してしまって」
「無理もないです」冴木が見兼ねて助け舟を出した。「警察に来てもらえれば、すぐに捜査して犯人を捕まえてくれます。互いに詮索するようなことは止めにしましょう」
「そうですわね。冴木先輩の言う通りですわ」
みれいが冴木の隣に腰掛けて、コーヒーを飲んだ。
「あ、このコーヒーもう冷たいですわ」
近くにいた水沼が聞き逃すはずもなく、彼女は気を取り直して立ち上がると「新しいコーヒーをお淹れ致します」とキッチンへ歩いていった。
天野も立ち上がり、キッチンへ水沼を手伝いにいく。先ほど取り乱してしまった分を返上するつもりなのだろう。取り残された落合は水晶玉を睨みつけながら何かもごもごと語りかけていたが、言葉を読み取ろうとは思わなかった。
「それにしても、本当に密室殺人が起こるなんて想像してもいませんでしたわ。これがクイズの一環ならまだ良かったですのに」
「何事も思い通りにはならない。現実は非情なんだよ、有栖川君。それより、本当に雅文さんの書斎は密室だったの?」
「気になるんですの?」
「雅文さんの書斎が密室でないとなれば、久美子夫人の部屋は簡単に施錠できるからね。雅文さんの持っていた鍵で久美子夫人の部屋の鍵を掛けてから、雅文さんの部屋を密室に見せかければいいわけだから」
「確かにそうですけれど、茜ちゃんが書斎の鍵を開けるときに確かにかちゃり、と音がしましたわ」
「ちょっと待って、瀬戸先輩が開けたの? 水沼さんが鍵を持っていたんじゃ?」
「そうなんですけれど、何でも書斎への立ち入りが禁止されているとかで、一度も入ったことがないっていう口ぶりでしたわ。それで茜ちゃんが鍵を代わりに開けたんですの」
「そういうことね」
冴木はオレンジジュースをもう一口飲んで喉を潤わせた。心なしか薄味に感じる。少なからず動揺している証だろうか、と冴木は分析した。
「まだ何か気になることがありますの?」
「まず、一つ。本当に鍵は掛かっていたのか、というのは開錠音が聞こえたのだからそうなんだろう」
「ええ、それに茜ちゃんが開けたのも偶然ですわ。家政婦が書斎への入室を禁じられているというのは、その場で初めて知ったんですもの」
「うん。二つ目は、部屋に抜け穴はないか。この館は随分お金がかかっているだろうから、秘密の通路なんかがあるかもしれない」
すると、背後から声が掛かった。
「それはないですよ」
冴木が振り向くと、コーヒーカップをトレーに乗せた水沼と、天野がいた。水沼はコーヒーカップをテーブルに置くと、話を続けた。
「幻霧館の見取り図を見たことがあるんですが、とても抜け穴があるような造りではないです。かなり昔から建っていたのを多少改築はしていますが、ほとんど古びた場所の補修工事がメインです。それに、あの書斎は防音に優れた構造になっているんです。抜け道などはありません」
「ああ、それで扉も他のところより分厚かったんですわね」みれいが両手を合わせて頷いた。
「なら、抜け穴はなしだね。三つ目は、被害者ーー雅文さんが鍵を掛けて自殺したのではないか」
「それもないと思いますわ」みれいが腕組みする。「茜ちゃんが死斑が著明じゃないと仰っていましたわ。つまり失血死。先輩は医学部ですから信憑性はあると思いますし、そうだとすると血を自分で抜いて書斎以外の何処かに運ぶなんて不可能ですわ」
「なら、四つ目。部屋の中に、犯人が隠れていなかったか」
「それもあり得ませんわ。書斎はほとんど本棚がありましたし、隠れられそうな場所はソファーの後ろ側か机の下ですけれど、私と茜ちゃんがそこに近付いているんですもの。誰かいたら必ず気付くと思いますわ」
「それにこの食堂に一度全員集まったよね」天野が今朝の状況を説明する。「水沼さんが飲み物をどうするか、聞いて回ってたよ」
「うん。じゃあ五つ目。遅効性の毒のせいで、鍵を掛けて椅子に座ったときに亡くなった。あるいは、遠距離操作が可能な機械的な仕掛けで殺害された。もしくは、血を吸われてからあの場所まで這々の体で移動してから息絶えたか、という被害者が施錠したあとに亡くなったというパターン」
「仮に毒や機械的な仕掛けだとすれば、血を抜くことができませんわ。血を吸われてからだとすると、移動中に血が床に垂れそうですし、指なんかにも付着しそうですけれど、私の見た限りではそんなことはありませんでしたわ」
冴木は何も言い返さずにポケットから新しい棒付きキャンディーを取り出した。ナポリタン味と書かれている赤い包みを剥がす。
「じゃあ、六つ目。本当は三人が書斎に入ったときにはまだ雅文さんは生きていたーーと、いうのも今回は当てはまらないね」
「ええ、医学部の茜ちゃんが脈や瞳孔をみていましたから……あぁ、本当に分からないことだらけですわね。それにしても冴木先輩、適当にありそうなことを羅列しているだけではありませんの?」
「いつになく聡明だね、有栖川君」冴木はキャンディを口に放り込む。惰性で何故か誇らしげなみれいを盗み見た。「何はともあれ、警察任せだね」
冴木は密室という思考を遮断して、目を閉じた。
昨日、みれいと島を散策してから館に戻るときに感じた違和感が、今朝の事件だったのだろう。何だか嫌な予感がして引き返したくなる、という感覚は初めてではなかった。もしあのときに冴木が帰っていたら事件は発生しなかっただろうか。
答えは恐らくノーだろう。
大抵冴木の第六感というのは、覚醒が遅い。
恐らくこのツアーが決行された時点で歯車が回りだし、当然の帰結へ物語が収束したのだ。
本当にもう、エンディングなのか。
もう殺人は起きないと決めつけることができるのは、犯人だけだろう。
仮に犯行が終わっていないとすると、誰が狙われるのだろうか。全員を殺すまで終わらないとなると、本当に昨日みれいが言っていた小説のようだ。名前は確かーー。
「そして誰もいなくなった、って話を昨日しましたわよね。冴木先輩」
冴木は虚を衝かれて言い淀んだが、すぐに動揺を飲み込んだ。
「言っていたね」
「もう殺人は起きないとお考えですの?」
「警察に連絡をしてから駆けつけるのに一時間以上はかかるだろうね。その間に警戒状態の僕たちを再び殺すなんて、リスキーだよ」
「そうですわね」
みれいが顔を伏せてぽつりと言った。
その横に座っている水沼が、お腹をさすりながら涙を流していた。
「ご主人様……」




