蕭条フィアーⅡ
有栖川みれいは、項垂れる水沼の背中をさすった。過呼吸のように呼吸が安定していない。
その一方で、医学部の茜が迅速に久美子夫人の容態を診たが、時既に遅く帰らぬ人となっていた。
茜が何か不審な点はないか死体を確認していると、冴木が部屋を見渡しながら独り言のように呟いた。
「部屋の鍵は?」
水沼がびくっと躰を震わせた。みれいはその背中を懸命にさする。
「か、鍵は掛かっていました」
「鍵を開けて中に入ったら、すでに亡くなっていたんですね?」
「は、はい……」
冴木は部屋の窓に移動して、鍵の部分に手を添えた。
「窓は施錠されている……水沼さん、この部屋の鍵は貴女が持っている鍵以外にもありますか?」
「あとはご主人の雅文様が持っています。その二つだけです」
「なら、雅文さんの所に行ったほうがいいね」
冴木が言うと、茜が頷いた。
同時に、背後でいくつもの足音がした。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
堂島が息を荒げながら扉に近付いてきた。神妙な面持ちで室内を覗き込み、うっ、と息を止めた。
「事件ですわ。なるべく、この部屋に近付かないようにしてください……」
みれいが駆け寄ってきた他の面々に告げると、茜が部屋の入り口まで戻ってきて息を吐いた。
「ふぅ……さて、水沼さん。辛いかもしれませんが、雅文さんのところに行きましょう。萩原、この部屋に誰も立ち入らないように見張っておいてくれる?」
「わ、分かった」
「アリスちゃんも、良かったら一緒に。水沼さんを支えてあげて」
「ええ、わかりましたわ」
みれいはふらつく水沼を支えて雅文の寝室を目指すことにした。冴木も部屋を出たが、萩原が縋るように「冴木もいてくれ」と懇願したので冴木は居残ることになった。
みれい、水沼、そして茜の三人で、雅文の寝室に向かう。廊下を真っ直ぐ進んで突き当たりを右折すると、水沼がポケットに手を入れて立ち止まった。
「ここです。ノックしてもらえますか?」
水沼が鍵を探している間に茜がドアノブをノックした。
返事はない。
「なぜ、ノックをする前から鍵を探しているんですの?」
「あ、ええ。あの雅文さんは寝室よりも書斎にいらっしゃることが多いので不在かもしれないと思いまして……。それにここの鍵は普段使うことがありませんから、これであっているかどうか」
水沼が鍵を差し込むと、いとも容易く寝室の扉が開いた。
中は誰もいないひっそりとした空間だった。
ベッドメイキングされているベッドは皺一つなく、机上なども綺麗に片付いていた。
「じゃあ、書斎にいるってことかしら?」
茜が腰に手を当てて訊くと、水沼は頷いて扉を閉め、しっかりと施錠した。
再び廊下を進んで、書斎に行き着く。
茜が扉をノックした。
「雅文さん! いらっしゃいますか!」
反応はなく、沈黙が続いた。
みれいは腕時計を確認する。午前八時を過ぎている。書斎で寝ているとしても、既に起床していてもおかしくないのだが、雅文は書斎で何をしているのだろう。
「あの、水沼さん。書斎の鍵はありませんの?」
「一応ありますが、その、書斎への立ち入りは禁じられていて、十年間一度も入ったことがないんです」
「でも奥様がお亡くなりになられたんですから、一刻も早く知らせないといけませんわ」
「で、でも……」
「あー、もう!」茜が鍵束を奪い取った。「もういいわ。あたしが開けるから、何か言われたらあたしのせいにして。それで、鍵はどれ?」
「こ、これです」
水沼が今にも泣きそうな声で鍵を指差した。茜がその鍵を差し込んで回すと、かちっと開錠音が聞こえた。
重厚な扉が静かに開くと、暖かい暖房の風が流れてきた。書斎の真正面には大きな机がある。その椅子に腰掛けている雅文が見えた。
「雅文さん、大変です!」
みれいと水沼を尻目に茜は声を掛けながらずんずんと書斎の奥に座り、巨大な机に向かって座っている雅文の元に近付いた。
雅文は頭を下げていて顔が見えない。
入り口近くで水沼が立ち止まってしまったので、みれいも止まった。
茜が座っている雅文の肩に触れる。
ぐらり、と躰が動いて雅文は人形のように床に倒れた。
机のせいで躰は見えないが、生気のない顔が見えた。
仰向けになった雅文は、妻の久美子と同様に血を吐いて死んでいた。
思わずみれいが呼吸を止めると、またしても水沼が悲痛な叫び声を上げて倒れ込んだ。
「あ、水沼さん!」
水沼はショックのせいか、気絶していた。
受け入れられない現状に、みれいは困惑した。
「茜ちゃん、水沼さんが気絶してしまいましたわ……その、雅文さんはどうなんですの?」
「待って……今すぐ診るわ」
茜が消え入りそうな声で告げて、深呼吸してから要領良く雅文の状態を調べ始める。
「ダメね……死後硬直が始まっている。久美子さんと同じ死に方よ。首にある傷跡も同じ。なんでこんなことが……」
茜が立ち上がって書斎にあるカーテンを開けた。日光が書斎を覆っていた薄暗さを駆逐して明るさが戻った。
「茜ちゃん、窓の鍵は?」
「閉まっているわね。ああ、もう……どうするのよこれ」
「書斎の鍵は、雅文さんが持っていますの?」
みれいは気絶した水沼を一旦ソファーになんとか横にさせた。茜が雅文の死体に近付き、内ポケットから鍵を取り出した。
「三つ、鍵がある」
「一つは久美子夫人の部屋。もう一つが寝室で、最後がこの書斎の部屋ですの?」
「断定は出来ないけれど、多分そうね。後で水沼さんに確認をしないと。でも、そう仮定すると……」
みれいと茜の視線が交わってたっぷり五秒はかかった。
「密室、ですわね」
すると突然、開いているままの扉に人影が見えた。
「凄い悲鳴が聞こえたけれど、何かあった?」
走って来たのか、冴木が肩を上下させて立っていた。みれいと茜を交互に見る途中で雅文の死体に気付いたのか、僅かに表情を曇らせた。
「雅文さんもか。一晩で二人も亡くなるなんて……悲鳴は水沼さんの?」
「ええ、そうですわ。ショックのせいか気絶してしまって、呼吸はちゃんとしていますわ」
「そうか。雅文さんの死体の様子は?」
「久美子さんの時と全く同じよ。さっきは言わなかったけれど、二つの死体……恐らく血が抜かれているわね」
「血が抜かれている?」
「目立った外傷がないのと、死斑が顕著じゃないのよ」
「死斑って……」みれいは腕組みした。「皮膚に見える、模様みたいなものですわよね」
「そうよ。自然死だと暗紫色、凍死なんかだと鮮紅色ね。でも、今回は全く死斑が著明でない……」茜は雅文の足元に触れて皮膚を確認しながら足首を動かした。「死斑っていうのは被害者が亡くなって血のめぐりがなくなるせいで、地球の引力にひかれて死体の姿勢の下方に血が集まるから分かるのよ。雅文さんは座った状態だったけれど、足元には赤紅色と判別できそうな微々たる死斑しかないわ。死後硬直はある……といっても、素人の見解だから鵜呑みにしないでね」
「そんな……じゃあ首の傷跡は吸血鬼が血を吸うときについたんですの?」
みれいがそういうと、茜も冴木も黙ってしまった。
すると今度は、書斎に萩原がやってきた。
「賢、何かあったのか? 遅いからみてこいって堂島さんに言われて……うわっ!」
「雅文さんも殺されていたよ」
「そんな……」
絶句する萩原に、茜が舌鋒鋭く指摘した。
「馬鹿! 何で現場を見ず知らずの人間に任せるのよ! 殺人なんだから、私たち以外の人間が怪しいって分かるでしょう、だからあんたに立哨させたのに!」
「え、あ、そうか」
「もう……一回戻るわ。アリスちゃん、水沼さんをお願いね。冴木はここの鍵を閉めて現場保存」
茜がてきぱきと指示を出して萩原と共に久美子夫人の部屋まで走っていった。何とも頼り甲斐のある先輩である。流石はミステリー研究会で最年長の医学部だ、とみれいは脱帽した。
冴木が水沼をおぶって部屋を出たので、みれいは鍵束を一旦預かり書斎の鍵を閉めた。
とりあえず隣の部屋を開けてみると、室内にベッドが置いてあったので冴木が水沼を寝かせた。
ようやく一息つくと、どっと疲れが溢れてくる。不意に、頭の中に今朝のメールの文面が浮かんだ。
ーー我ヲ射抜クハ銀ノ弾丸ノミ。
あれは吸血鬼からのメールだったのかもしれない、とみれいは思った。




