蕭条フィアーI
冴木賢は寝苦しさを覚えて目を覚ました。
腕につけたままの腕時計を見ると、一月三日午前七時を過ぎたところだった。記憶が正しければ、仏滅である。
絶え間なく同室の友人、萩原のいびきが喧しく耳に飛び込んできていた。とてもじゃないが、二度寝など不可能な騒音である。
低血圧の冴木は死にものぐるいで掛け布団から身を起こすと、こっそり部屋を出て洗面所に向かった。冷水で顔を洗っても、鏡には死にかけの顔がより瀕死に近付いているようにしか見えなかった。朝はつくづく憂鬱だ、と冴木は溜め息を吐いた。
手櫛で癖っ毛を目立たないよう適当にいじくってから部屋に戻り、荷物を置いてあるテーブルの椅子に座ると、机に置きっ放しだったガラケーが点滅しているのに気付いた。隣に置いてある萩原のガラケーも同じ間隔で光を発している。
冴木は自分に支給された携帯を開いて、画面を見た。メールが一件届いていた。
不明
レベル三
我ヲ射抜クハ銀ノ弾丸ノミ
冴木は眉をひそめた。
疑問を抱いたのはメール本文ではなく、送り主である。
(不明?)
このガラケーはミステリーツアー企画者が用意したもので全員分のアドレスが明記されている。つまり、渡されたメンバーの誰かが送ったのなら、必ず名前が表示される筈だ。
不明、の部分にカーソルを合わせて決定キーを押すと、アドレスが表示された。アルファベットと数字が乱雑に組まれた捨てアドレスだと、冴木はすぐに気付いた。
さてそうなると、誰かがアドレスを変更したのかもしれない。これもクイズの一環なのだろうか。真意はわからないが、とりあえず携帯を閉じてポケットにねじ込んだ。
「ん……あれ、賢。もう朝か?」
気がつくといびきの根源が起床していた。だらしなく大きな欠伸をして、眦に溜まった涙を袖で拭っている。
「もう七時過ぎだよ。食堂に行って、何か飲み物を貰ってこようか?」
「いや、そのまんま飯にしようぜ。俺、腹減ってさ」
「よく起きてすぐに食欲が湧くね……」
冴木は萩原の着替えと洗顔を待ってから、食堂に向かった。萩原にも同じレベル三のメールが届いていたようで、廊下を歩きながらメールを確認して唸っていた。
食堂に着くと、既にカメラマンの天野と占い師の落合が仲良くコーヒーを飲んでいた。
「あ、おはようございます」
「お、おはよう……です」
天野と落合に挨拶をされて冴木と萩原も返すと、どこからともなく家政婦の水沼がやってきた。
「おはようございます。冴木さん、萩原さん。もう間もなく朝食の支度が整いますので、もう少々お待ちください。それまで何かお飲み物をご用意致しますが、コーヒーはお好きですか?」
「いえ、僕はオレンジジュースで」
「なんだ賢、まだコーヒー飲めないのか? あ、水沼さん、俺はコーヒーで!」
「かしこまりました」
水沼がキッチンに消えていき、冴木と萩原は食堂の椅子に腰掛けた。
「よくコーヒーなんて苦いものを飲めるね」
「賢は分かっていないなぁ、その苦さがまたいいんだよ。ねぇ、蛍ちゃん」
萩原が陽気に話題を振ると、天野は思いの外動じずに頷いた。いつの間に下の名前で呼び合うほど親しくなったのか甚だ疑問である。
「フランスのタレーランという方は、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘い、と称したぐらいですよ」
「おっ、詳しいね蛍ちゃん。日本初のカフェと自認している銀座のお店もね、鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱きコーヒー、っていうキャッチフレーズを用いていたんだよ」
萩原がいつの間にか仕入れた雑学をひけらかしていると、水沼がコーヒーとオレンジジュースを持ってやってきた。
時を同じくして、みれいと茜も食堂に顔を出した。水沼がレストランの従業員のようにオーダーを聞きにいき、またキッチンへと戻っていった。
冴木が相変わらず白衣を着てウェストポーチを巻きつけている茜を見ると、視線が交差した。茜がにやりと笑みを浮かべて小走りで近付いてくる。
「ねぇ、冴木。あんた、みれいのブラジャー見たことある?」
「どうしたの、急に」
「はぁー、面白くない反応ねぇ。 萩原ならもっと顔を真っ赤にしそうなのに……あの子ね、良い材質の使ってるわよ。ほら、何だっけ、形状記憶合金とか使っているみたい」
「形状記憶合金って、変形した合金に変態点を超える熱を与えると元の形状に戻るっていうものだよね。下着に応用されているの?」
「そうそう、水栓とか眼鏡のフレームなんかにもなっているんだけれど、カップのワイヤーにもなっているんだって。もうほんと、よくそんなの見つけてくるわよね」
「何でそれを僕に言うわけ?」
朝の挨拶の前にするものではないだろう、と冴木は呆れ果てた。
「冴木がどんな反応するかと思ったんだけれどねー……そうそう、アリスちゃんが何カップか知っている?」
「ちょっと! 茜ちゃん!」
気付くと背後にみれいが仁王立ちしていた。茜は脱兎の如く身を翻して何事もなかったかのように着席した。
「冴木先輩、何を聞いたんですの?」
「何も」
普段より荒々しい語気のみれいは諦めたように息を吐いて空いている席に座った。
水沼がコーヒーを二つ持ってきてみれいと茜の前に置いた。冴木の前にはオレンジジュースが入っているタンブラーグラス、他の人の前にはコーヒーの入った琺瑯のカップが置かれている。
茜がコーヒーを一口飲むと、口火を切った。
「さて、レベル三のクイズが解けた人は誰かいるの?」
一同が首を振って否定を示した。冴木も同様である。
「じゃあ、誰かアドレスが変わっている人は?」
「私は変わっていませんわ。でも、何でアドレスを気になさるんですの?」
みれいが不思議そうな顔をして訊いた。
「いや、誰が送信したのか分からない設定になっていたからよ。何かツールみたいなもので別のアドレスにされたか、あるいは誰かに書き換えられたか……このガラケーには自動送信予約もあるから」
「でもこのメール……」萩原が授業のように手を上げた。「今朝の五時二十三分に一斉送信で届いてるぜ。こんな中途半端に予約できないよ」
「まぁ、そうね」
結局誰もアドレスが変更されている人はいなかった。残る可能性は企画者である堂島と折江名が実行したというパターンである。
「堂島さんか折江名さんがやったのだとすると、何の意味があるのか分からないな」
萩原がもっともらしい意見を述べて肩を竦めると、食堂の扉が開いた。
「あ、皆さんもうお揃いでしたか」
センスのない帽子を被った堂島と、影のようにぴったり後ろにいる折江名だった。
「あ、ちょうど良かった」茜が携帯を指差した。「レベル三のメール。どっちが送ったの? それとも、不明なのがクイズに関係するわけ?」
「あ、いやそれが……」
堂島が帽子を取って頭を掻くと、折江名に助けを求めるように目線を送った。
折江名が携帯を取り出して短い動作をすると、着信音がなった。
どうやら茜にメールが届いたようで、茜は画面を注視しながら眉を寄せた。
「私たちも送っていない、か……」
一瞬の静けさは、水沼が堂島と折江名にコーヒーでいいですか、と尋ねる声で破られた。
しばらくしてコーヒーと共に朝食が運ばれてきた。一通り並べ終えると、水沼は台車にも朝食とコーヒーを乗せた。
「雅文さんは食堂には顔を出さないんですか?」
堂島が水沼に訊くと、家政婦は困ったように頷いた。
「恐らくまた熱心にお仕事をしておられるのだと思います。これは、奥様の朝食です。少しのあいだ、この場はお任せしますね、堂島さん」
「ええ、分かりました」
水沼が一礼してから台車と共に廊下に出て行った。
冴木の隣にいる萩原が水沼を見届けてから小声で話し出した。
「誰が送ったか分からないなんて、絶対嘘だよな。多分堂島さんのアドレスが変わっているんだろうよ。折江名さんからは茜さんにメールがきてアドレスが分かったけれど、あの人だけアドレスが変わっているか確認できてないからな」
「もう一台携帯がある可能性の方が高そうだけれどね」
「あ、そうか」
「だとしても、全く解けない。銀の弾丸ってなんだろう」
「お前そりゃ、吸血鬼と関係あるんだろうよ」
「どうして?」
「吸血鬼は弱点があるんだよ。ほら、魔除けとしてドアノブに掛かっている十字架とか、銀の弾丸もそうだ」
「ふぅん……」
吸血鬼のことに詳しければ、案外すぐ解けるものなのか、と考えていると、今まで黙っていた落合が、水晶玉を睨みながら呟いた。
「き、今日は……災いが起きそうね」
「災い?」落合の隣にいる天野が首を傾げた。「カイちゃん、予知とかまで出来るようになったの?」
「いや……私の今日の運勢が悲惨なの」
落合が長い髪の中で微笑を浮かべた。
同時に、女の金切り声が廊下から響いた。
すぐに席を立ったのは茜だった。
「水沼さんの声よ!」
茜が走り出すと、みれいも素早く席を立った。呆気に取られている一同をよそに、萩原も立ち上がると「賢も来い!」と無理やり腕を掴まれた。
既に見えない位置まで走っていった茜とみれいを追うように、冴木と萩原は廊下を突っ切って食堂とは反対側の部屋の前まできた。ここは、雅文の妻で元絵本作家の久美子の部屋である。
開け放たれた扉の下に、水沼が座り込んで小刻みに震えていた。部屋の入り口には茜とみれいが立ち竦んでいる。
「どうしたんですか、水沼さん!」
萩原がすぐに屈みこんで水沼の肩を揺すった。水沼は青ざめた表情で室内に指を向けた。
冴木は茜とみれいの間から、部屋の中を見た。
ベッドの上で横たわる久美子夫人が、真っ白な顔をしている。
口元からは血が垂れていた。
茜が久美子夫人の元に歩み寄った。すぐに首元に手を添えて脈を測ろうとして、一瞬手が止まった。しかしすぐに手を添えて、舌打ちした。更に腰に巻いたままのポーチを開けてマグライトを取り出すと久美子夫人の眼球に光を当てた。
茜が、沈痛な面持ちで黙って見ていることしか出来なかった冴木たちに顔を向けて、首を横に振った。
「見て、この首元……」
一歩前に進むと、首元が見えた。
茜が逡巡した意味が分かった。
久美子夫人の首元には、二つの赤黒い穴が開いている。
それはまるで、吸血鬼に噛まれたような傷跡だった。




