迷走フラクタルⅤ
有栖川みれいは、冴木と共に玄関ホールから外に出た。
まだまだ太陽は高く、昼時だというのに都会と比べて島の外には誰もいないため、波の音と土を踏みしめる音しか聞こえない。新鮮な空気はいつまでも吸っていたいとさえ思わせた。
「冴木先輩、こういう静かで穏やかなところってお好きじゃありません?」
「うん、嫌いじゃない」
「やっぱり。でも私は……ちょっぴり怖くなりますわ」
みれいは立ち止まって小径とは離れた岩場に向かった。海原のどこを見渡しても、船は見つからなかった。
「怖いって?」
冴木も近付いてきて、二人で岩場に腰掛けた。
「昔、まだ小さい頃に珍しく家族でキャンプに行ったことがあるんですの。その時にどうしても探検したくなって、夜中に妹のあおいと一緒に夜の山に飛び込んだんですわ」
「もうその時から、君は好奇心の塊だったわけだ」
「ええ。やらずに後悔するより、やって後悔するほうがよっぽどいいと今でも思っていますわ。そして、今考えれば当然ですけれど、私とあおいは夜の山で迷子になったんですの」
海風を浴びながら、みれいは滔々と語った。
「夜の山はどこも同じ景色に見えて、風光明媚だった昼の山とは全く別に思えましたわ。あおいも途中から迷子になったのだと勘付いてしまって、泣きじゃくりはじめて……お姉ちゃんがついているんだから大丈夫、と何度も励ましていましたわ」
「それで、どうなったの?」
冴木がポケットから棒付きキャンディーを取り出して紙包みを取っていた。
「大体三時間ぐらい迷っていたかしら、数人の家政婦に見つけてもらってキャンプ場まで戻ることが出来ましたわ。きっとこっぴどく叱られると思っていたんですけれど、両親は泣いて頭を撫でてくれて……思い返せば、あの時が優しさのピークですわね。ともかく、その時の暗闇と静寂がトラウマなんですの」
みれいが中学生になると、両親はみれいの言動に口うるさくなり、やれマナーを身につけなさい、と言ったり着こなしがなっていない、などと散々に言われたものである。
父の経営する会社、AGCが波に乗ってからは、更に言動に気をつけるよう釘を刺され、辟易した結果が大学に入ると同時に家を出るという決断だった。
結局はすぐに仲の良かった数人の家政婦と密かにコンタクトを取り、みれい名義のカードを作ってやりくりしている。家を出たとはいえ、まだ親の脛を齧らなければ生きていけないとは、何とも情けない話である。妹のあおいは、トラブルメーカーが居なくなってつまらない生活になったとぼやいているようだが、時折連絡を取り合っている。向こうは向こうで高校入試に向けて奮闘しているようだったが、その後どうなったのかは知らない。
「我が子可愛さゆえに。はたまた単に無鉄砲な性格に苦悩していたか、だね」
冴木が僅かに口元を緩めた。
「そんなの、分かりませんわ」
「親の心子知らずっていうぐらいだからね。さぁ、灯台を見に行くんじゃなかったの?」
「あ、忘れていましたわ」
本当は灯台などはどうでも良く、今回のミステリーツアーを機に冴木ともっと親密になれないかという計画の一端だったのだが、言い出した反面仕方なく灯台に向かうことにした。
クルーザーが停まっている桟橋の近くまで進み、右側に続いている整備のされていない道に進路を変える。小石を蹴り飛ばして黙々と歩くと、すぐに灯台についた。
「結構高いですわね」
「そりゃ、灯台なんだから。壊れているらしいけれどね」
みれいは灯台の根元にある木製の扉に近付いた。中はどうなっているのか、と興味が湧いたが、酷く風化した南京錠がほとんど取れかかっており、入ろうと思えば入れたが止めておくことにした。
「冴木先輩、もう帰りましょう。何にもないですわ」
「逆になにかあると思ったの? どうせなら、館を散策したほうが何かありそうに思えるけれどね」
「じゃあ、それは後ほど……そういえば、桟橋の納屋には何があるんですの?」
「さぁ、クルーザーの鍵を置いているんじゃないかな」
みれいは軽い足取りで来た道を戻り、桟橋の納屋を覗いてみた。
そこには燃料と思しき大きなドラム缶と、ロープや鍬、箒、スコップなど様々な小物が置かれていた。これも、家政婦の水沼が使用するのだろう。納屋の壁には釘が打ち付けられていて鍵がぶら下がっていた。恐らくクルーザーの鍵だ、とみれいは推測した。
「何かあった?」
後ろから冴木に声を掛けられた。
「色々、ですわね」
「あ、そう」
冴木は全く無関心で棒付きキャンディーを頬張りながら幻霧館に引き返していった。慌ててみれいも小走りで後に続いた。
冴木を追い抜いて先に玄関に辿り着いたみれいは、扉を開けて振り返った。
冴木が海の方を見て立ち止まっている。
「冴木先輩、どうかしたんですの?」
「……何だか、嫌な予感がするな」
「嫌な予感?」
また変なジョークでも始めるんだろうか、とみれいが訝しんでいると、冴木が真剣な表情で歩き出した。
「前にも感じたんだけれど、第六感というか野生の勘というか……何だかこの館に行くなと言われている気がしてね」
「でも、このツアーは二泊三日ですわ。まだまだ帰れませんわよ」
「……そうだね。きっと何もないだろう」
静かな外に繋がる扉を閉めて、みれいは嵐の前の静けさ、という言葉を思い出した。
とりあえず部屋に戻ろうという話になり、みれいと冴木が歩き出すと、丁度台車に料理を乗せて運んでいる家政婦の水沼に遭遇した。
「水沼さん、その料理……お一人で食べられるんですの?」
「あ、ええと、有栖川さんと、冴木さんですね。いえ、この料理は久美子様の分です。ご昼食がまだでございますから」
「ああ、雅文さんの奥さんですよね」
隣の冴木が一人納得していてみれいは首を傾げた。それを見かねてか、冴木が耳打ちしてきた。
「この館には僕たち以外に、主人の雅文さんと、妻の久美子さんが住んでいるそうだよ」
みれいは成る程、と手を打って微笑を浮かべている水沼に提案した。
「あの、ご挨拶をしようかと思うのですが、よろしいです? 約三日間、お世話になるわけですし……」
「あ……構いませんけれども、その、久美子様はご病気で……それでも良ければ、奥様も喜ぶと思われます」
「ええ、構いませんわ。冴木先輩も、行きますわよ」
冴木が素直に頷いたので、みれいと冴木は台車に乗った料理を運ぶ水沼についていった。
一階の食堂とは反対方向の通路に、目的地があった。水沼がポケットから鍵束を出してその一つを手際よく選ぶと、十字架が垂れ下がっているドアノブに手を添えて鍵を開けた。
「失礼いたします」
水沼の開けた扉をみれいが押さえて、水沼が台車ごと室内に入った。
部屋は花柄のカーテンや観葉植物が置かれており、爽やかで優しい印象を与えた。本棚には絵本が所狭しと並んでおり、ベッドの横にある木製のテーブルには琺瑯のティーカップが置かれていた。
そのベッドに、月ヶ瀬久美子と説明された雅文の妻がいた。
長い白髪を耳にかけて、分厚い眼鏡を持ち上げると、水沼を見て優しい笑みを浮かべた。
「ありがとうね、昼食かい?」
「はい。少し冷ましましたが、スープがまだ熱いかもしれませんので、お気をつけ下さい」
「ありがとうね……おや、お客さんかい?」
「はい、ミステリーツアーという企画でいらっしゃった方たちです」
みれいと冴木は一歩だけベッドに近付いて自己紹介した。
「有栖川みれいと申します。二泊三日のツアー中、お世話になりますわ」
「冴木賢です。よろしくお願いします」
「えぇ、よろしく。ゆっくりしていって下さい。何にもない所ですけれど」
久美子夫人はゆったりとした動作でスープに息を吹きかけてから一口飲んだ。
「まぁ、美味しい。娘たちの好きなコーンスープね」
「……はい。お代わりもありますので、ご必要でしたらお申し付け下さい」
「お兄様は大学に行かれました?」
水沼は戸惑いを隠せない様子で、小さく頷いた。
「そうかいそうかい、あら。お客様かね?」
みれいはきょとんとして振り返る。誰も居なかった。冴木が小声で「有栖川君、もう一度挨拶をしよう」と言った。
再び挨拶をすると、久美子夫人はまた微笑んでスープを飲んだ。
「またすぐ来ますので、ゆっくり召し上がっていて下さいね」
水沼がそう言い残して、もう出ましょう、とアイコンタクトをしてきた。
みれいと冴木は言われるがままに退室した。
「あの……水沼さん。久美子さんの病気って……」
「はい、アルツハイマー型認知症という認知障害を患っています。先に言っておくべきでした、申し訳ございません」
「それで、寝たきりなんですの?」
「昔から足が悪かったようで、それもあるみたいです。詳しくは私も聞かされていませんので」
「そうでしたの……大勢で押し掛けてきたりして大丈夫だったんですの?」
「大丈夫ですよ。ご主人様……雅文様も、たまにですが容態を見にいらっしゃいますからね」
「ちょっと訊きたいんですけれど……」冴木が声を掛けた。「お兄様、というのは?」
「あれは雅文様のことをそう呼んでいるみたいです。お兄様と呼ぶ理由は分からないんですが、雅文様は昔大学の助教授だったそうです」
「なるほど、でたらめな事を言っているわけではないんですね。娘たちとも言っていましたけれど、月ヶ瀬夫妻には娘が少なくとも二人、いるんですか?」
「あ、いえそれは空想というか……久美子様の絵本の話みたいでして」
「絵本?」今度はみれいが質問した。「絵本を作られているんですの?」
「はい、久美子さんは絵本作家として活動していました。部屋にあった絵本はほとんど久美子様が書かれたものですよ」
「わぁ、作家夫婦なんですわね。なんだか素敵ですわ」
「はい、最初は分からなかったものですから、雅文様の娘さんがいるんですかと訊いたら凄い剣幕で怒られてしまって……あ、久美子様の絵本には、英梨ちゃんと奈緒ちゃんという双子の姉と、二つ下の佳織ちゃんが登場するようです」
冴木が新しい棒付きキャンディーを取り出しながら「ふぅん」と呟いた。
「細かい設定ですね。まるで、本当に実在しているみたいだ」
水沼がゆっくりと笑みを作った。
「そうですね」




