迷走フラクタルII
次から次へとテーブルに並べられるオードブルに、瀬戸茜は恥ずかしげもなくお腹を鳴らしてフォークとナイフを構えていた。
家政婦の水沼がグラスに飲み物を注ぎながら茜を一瞥して、もう少々お待ち下さい、と告げた。
これ以上何を待つことがあるのだろうか、と茜が餌の前で待て、と命令されている犬を想像していると扉が開いてずんぐりとした男性が食堂に現れた。
肉付きのいい体にスーツを着ており、頭には白いものが混じっている。男は軽く手を上げて会釈すると大きなテーブルの上座の前で全員に笑顔を振りまいた。
「どうも、皆さんはじめまして。この幻霧館の主人、月ヶ瀬雅文です。二泊三日のミステリーツアー、どうぞ寛いでお過ごし下さい」
堂島が我先にと拍手をして、他のものも真似た。茜も慌ててフォークとナイフを置いて拍手した。
茜の右側、上座に腰掛けた雅文を見ていると左隣にいるみれいがふぅん、と呟いた。
「思っていたよりも、優しそうな雰囲気ですわね。彼の書いた小説は何冊か読んだことありますけれど、もっと厳格そうなイメージを抱いていましたわ」
「読者のイメージなんてのは、いともたやすく壊されるものよ。小説家に限ったことではないけれど……そうね、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアって小説家知っている?」
「いいえ、知りませんわ。どんな方ですの?」
「名前の印象というか作品の文体から男性SF作家としては滅多にないほどのフェミニストだと言われていたんだけれど、この人ね、実は女性だったわけ。それが知られるようになったのは彼女が六十歳を超えてからよ? つまり、それぐらい読者が持つ作家のイメージというのはいい加減なものなのよ」
茜が薀蓄を語っている間に、食事が始まっていた。各々が待っていたと言わんばかりに次々と食べ物を口に運んでおり、フリーカメラマンの天野は料理の写真を撮っていた。
「げっ、先を越されたじゃない! 美味いものは食べれる時にいっぱい食べなきゃ!」
茜が急いで料理を口に頬張ると、右側にいた雅文がにこにこしながら声を掛けてきた。
「小説、お好きなんですか?」
茜はまさか話しかけられるとは思っていなかったので存分に咀嚼もせずに嚥下するとグラスに注がれた飲み物を飲み干して何度も頷いた。
「ああ、急かしてすみません。ゆっくり食べてください」
「い、いえ。あたし推理小説なんかが好きで、雅文さんの作品も読んでいますよ。ほら、えーっと、”隔離された多重密室”とか、”異星の連続怪奇殺人”とか」
「ははは、お恥ずかしい。そんなデビュー当時のをよく覚えていますね。ところで、お名前は?」
「瀬戸茜、もとい探偵グレィです」
気品のある笑みを浮かべてみようと思ったが失敗に終わったらしい。雅文はきょとんとした顔で首を傾げた。
「探偵グレィ?」
「ええ、その……趣味で探偵もやっていまして。と言っても、相談されるのは飼い猫を探して欲しいだとか、彼が浮気しているかもしれないから調査さしてくれ、っていう……いわゆる殺人事件を解決するような探偵とは程遠いんですけれどね」
「へぇ、それはまた面白そうなことをしていらっしゃいますね」
実のところは仲の良い友人の悩みを解決しているうちに便利屋のように扱われるようになり、姉御なんて揶揄されながら相談に乗っているだけなのだが、探偵に憧れているのは本当のことである。
「ところで、なぜグレィという渾名なんですか?」
雅文は白ワインを味わいながら陽気に尋ねてくる。
「推理小説が好きだということは言いましたよね。それで、色んな探偵の長所を真似て取り入れれば非の打ち所がない探偵になるんじゃないかと子供の時に思いましてね。でも色を何色も混ぜると灰色になってしまうから、グレィなんです。まぁ、小さい時に冗談で言っていた名残りみたいなものです」
「なるほどなるほど、探偵ですか」
茜の左側にいるみれいが「私も探偵が好きですわ」と声を荒げた。
「ほら、江戸川乱歩の明智小五郎とか、横溝正史の金田一耕助とかいますわよね」
うっとりした表情のみれいに、雅文も頷いた。
「海野十三の帆村壮六や、甲賀三郎の獅子内俊次、小栗虫太郎の法水麟太郎、木々高太郎の大心池博士、高木彬光の神津恭介。挙げればきりがありませんな」
「まぁ、よくそらで言えますわね」
「これでも専門の作家ですからね」
雅文が満足げに顎を撫でた。茜も負けじと頭の中にある探偵を思い浮かべる。
「そもそもはポーのデュパン探偵以来、ドイルのシャーロック・ホームズや、クリスティのポワロ、クィーンのエラリイクイーン、ヴァン・ダインのファイロ・ヴァンス、ガボリオーのルコック探偵なんかが続々と名を馳せたわね」
探偵というか探偵役に回る人物も多いが、茜にとっては瑣末なことである。
「茜ちゃんも博識ですわね」
みれいが感心したように言ったので茜は満足した。何ともまぁ、医学部四年の茜には五年に進級するためのCBTなどで覚えることが山ほどあるというのに、こういったものばかり先立って勉強が捗らないのが日常茶飯事である。
「ははは、そこまで暗誦出来るとは、さぞ聡明なお方なのでしょうな。瀬戸さんはいいモデルになりそうだ。私の作品に出したいぐらいですよ」
「え、構いませんよ?」
雅文は相変わらずにこにこしている。空いたグラスに水沼が慣れた手つきで赤ワインを注ぎ足した。
「うん……? 疲れているのかい、水沼君」
雅文が赤ワインの満たされたグラスを持ち上げた。
「あ、すみません。ついうっかり……すぐにお取り返します」
水沼が新しいグラスに白ワインを注いで雅文に手渡した。
「宴ということで赤ワインも用意したが、気をつけたまえ。忙しくなるだろうから、適度に休みなさい。堂島くんにも手伝わせて構わないよ、そういう取り決めだからね」
「かしこまりました。失礼致します」
ぺこりと頭を下げて水沼はキッチンへと姿を消した。
「そういえば、雅文さん。ちょっと知りたいことがあるんですが……」
茜はおしぼりで口元を拭いてから訊いた。
「何かね?」
「さっき小耳に挟んだんですけれど、吸血鬼が出るとかなんとか」
「え、あ、ああ。吸血鬼ね。その通りですよ。まだ堂島くんが話していないのかな」
雅文は目に見えて狼狽した。そういえば先ほど、堂島と冴木が話しているときに堂島が、後で話すつもりだと言っていたのを聞いた気がする。
吸血鬼という単語に反応したのか、堂島が雅文と何やらアイコンタクトを交わしていた。やがて、堂島が立ち上がってごほん、と咳払いした。
「実はここをミステリーツアーの場所として選んだのは二つの理由があります。一つは、この孤島という舞台ですが、もう一つがこの島……というより月ヶ瀬さんの家系に代々伝わる吸血鬼伝説です」
「吸血鬼ねぇ……」
文字通り、血を吸う鬼。
茜が色々と吸血鬼に関することを思い出していると、みれいがちょいちょい、と袖を引っ張ってきた。
「吸血鬼って、狼男とかフランケンシュタインみたいな怪物ですわよね? ああいうのって海外のものじゃないんですの?」
先ほど海外の作家の話などをしていたからか、茜の知識を頼っているようだ。茜は腕組みして目を閉じる。
「そうねぇ、民話や伝説で語り継げられているけれど世界的なものだと思う。もう三百年ほど前から、ヴァンパイアって書かれた英語の文献があったようなないような」
茜が目を開けると、みれいの向かい側にいる萩原が頷いているのが見えた。
「茜さんよく知ってるね、そういう記述がある稀覯本はあるよ。吸血鬼ってのは生前に犯罪を犯したり、神や信仰を冒瀆した人がなるだとか、諸説あるけれど、俺が驚いたのは東ヨーロッパで言われた死体の上を猫がまたぐと吸血鬼になるってやつかな」
「へぇ、流石萩原。オカルトチックなのはお手の物ね」
「まぁね」
得意顔の萩原に、その隣でカメラを持った天野が質問した。
「でも吸血鬼って、結構古い怪談みたいなものでしょう? 今時吸血鬼なんてそう聞かないよ」
萩原が何か言おうとすると、水晶玉を撫でていた落合が小さく手を挙げた。
「二◯◯四年に、ルーマニアのとある村で七十六歳で亡くなった男性が、親族の男性六人に掘り起こされて心臓を切り取られる事件があるわ……」
ぼそぼそとした声だったが、嫌にはっきりと聞き取れた。
「約十年前か……確かに心臓に杭を打ったりすると吸血鬼は絶命すると言われているわね。あとは、首を切って足元に添えるとか、銀の弾丸を撃ち込むとか、でもその事件が何か吸血鬼と関連があるの?」
「そ、その亡くなった男性は……村人と仲が良くて誰からも愛される人だったの。でも親族が夢でその男性に血を吸われた、と言い出したり、数人が病気に罹ったりしたわ。それで親族はその男性が吸血鬼になったと思い、凶行に及んだのよ」
「そんな……死体を掘り起こして心臓を切り取るなんて警察に立件されるわよ」
「でも、彼らにはそれをする必要があったの……親族は男性の心臓を焼いて灰にすると、それを悪夢や病気に苛まれていた者たちに飲ませたの。すると、たちまち悪夢は見なくなり、病も治ったと供述したのよ」
それを聞いた萩原が眉をひそめて頷いた。
「俺もそれは聞いたことがある。ヨーロッパからの移民が多いアメリカでも、十九世紀頃までこういった行為があったそうだ」
「なるほどね。そんなような吸血鬼の伝説が、月ヶ瀬さんの先祖から語り継げられている謎ってことね」
茜が横目で雅文を見ると、重苦しい表情でグラスをテーブルに置いていた。
「まぁ、吸血鬼の謎なんてこの探偵グレィに任せなさい」
茜が胸に手を添えていうと、みれいが素直すぎる意見を述べた。
「グレィって、何だか宇宙人みたいですわね」