焦がれる
「やめろ!!」
俺は叫んだ。
三田は手すりにもたれかけ、女の首に腕を巻きつけている。
「やめるんだ……そんなことをしたって、どうにもならない!」
俺の言葉に苦渋の顔をさらにしかめ、三田は女の首を絞め直した。
「お前になにがわかる……。俺は、俺はあいつに人生を狂わされたんだ!!」
三田の目は、今もまだ怒りに燃えているように見えた。
三田は、昨日起きた殺人未遂事件の容疑者だった。
彼は借金をしていた。三田は被害者の男にだまされ、多額の金を男に渡した。
そして三田は男を刺した。男は病院で手術中だが、回復の見込みは薄い。今はまだ殺人"未遂"だが、それもいつまでのことだかわからない。
稚拙な事件だ。
その発端となる理由も、事件の内容も。だから簡単に犯人は追い詰められる。
だからおそらくは結末も稚拙なのだろう。
「お前になにがわかる……。あいつのせいで妻とは別れ、子供とも会えなくなった。
残ったのは謝金だけ……俺にはもう他にどうすることもできない……。お前に……お前になにがわかるっていうんだ!!」
虚しい。
こんな事件ばかりだ。俺が警察に入り、人を助けたいと思ったのはとうに昔のことだ。あのころの情熱など、もうない。
『お前になにがわかる』
多くの犯人は追い詰められてから、身を守ろうと自己弁護を図る。
俺たちが犯人のことをわからないんじゃない。ヤツらがわかってほしくて、そして理解されないだけだ。
そばに立つ加賀に耳打ちする。
「気をつけろ。こいつ、飛び降りる気だ」
気がついたように加賀は携帯電話を取り出して通話を始める。
加賀はこのあいだ署に来たばかりの新米だ。教育なんて面倒だが、こういう補佐役ぐらいには利用できる。
三田は案の定、手すり越しに下を覗いている。
高層ビルの並ぶ街に建つチンケな7階建てのビルだが、飛び降りれば負傷はまぬがれない。頭から落ちるとなれば、死ぬことは受け合いだ。
三田も今までの犯人と同じで、自ら引き起こした事件で自ら終わらせようとしている。しかし責任は他人に押しつけて。
死ぬのは解決ではない。逃避だ。
それほどまでに疲弊していると考えられるし、心情もわからなくはない。だが俺は刑事だ。そんなことは理解しようとは思わない。
「やめろ、三田。女性を離すんだ」
容易に近づくことはできそうになくて、なんとかなだめる方向で解決させようと俺は考えていた。
いらだった面立ちの三田の腕のなかで女性は青白い顔を震わせている。
彼女はこのビルの受付にすぎない。それを逃亡の途中で、三田が人質として捕まえた。
この女性の恐怖は計り知れない。死を選ぼうとしている身勝手な男に、突如として命を危険にさらされているのだから。
「準備、整いました」
加賀が小さくつぶやく。長年のカンと犯人の性格から、もともとこうなることは想定できた。飛び降りても大丈夫なように地面に大きな空気を詰めたクッションが敷かれたのだ。さすがに上も犯人が死んでなお道路が汚れる責任を押しつけられるのは嫌だということか。
後は俺が女性を解放させ、三田を飛び降りるのを説得するだけだ。それができないまでも、三田をクッションの上に落ちるように操作すればいい。
「三田。その女性は関係ない、離せ」
「俺のせいじゃない…俺のせいじゃない……あいつを刺したのも、わざとじゃなくて事故だったんだ……」
ここまで来て言い逃れをしようとする三田に、そして決まって偶然のせいにしようとする犯人というものに突然、憤りが溢れた。叫んでいた。
「ちがう! だまされたのも刺したのも、全部お前の責任だ! 他人のせいにして逃げようとする、お前の責任なんだよ!!」
目を見開く三田が手すりに足をかけた。
「黙れ……黙れ……黙れ、黙れ、だまれ、だまれ、だまれだまれ!!!」
加賀が驚いて半歩だけ前に出る。
俺は三田のほうに走りながら、新米の度胸のなさに落胆した。
三田は今や手すりの上に立っていた。女性の顔が絶望を含んだ驚愕のものへと変わる。三田の足が、手すりを蹴る。
俺は必死に走り、その足を空中でつかんだ。バランスを崩した三田の腕に引かれ、女性の体が手すりの外へすべる。
つかみきれずに、三田の足は俺の手から離れた。
三田は屋上のへりに体を一瞬こすり、落ちていった。女性はなんの抵抗も受けず、表情を固めたまま無音に落ちていった。
後悔を感じさせるような空白の後、コンクリートを叩く音が響いた。
その場でうずくまりながら、目の前が暗くなるのを感じていた。
視界はあまりに明瞭なのに、目の前が暗くなるのを感じていた。
三田の事件の被害者である男は、一命をとりとめた。
急所を外しており、おそらく犯人が躊躇したのだろうということだ。
男は目を覚ますと、涙をこぼした。三田に悪いことをした、といった。
刺される瞬間の三田の表情が哀しく、脳裏に焼きついて離れないとわめき、医師や警官の前にもかかわらずひたすら頭を下げて泣き伏していたという。
報道では、三田は感情なき殺人未遂犯として扱われた。ニュースでは凶悪な人間が悲惨な目に会ったと聞き、出演者たちはほくそ笑んでいるように思えた。
俺はテレビから手元に視線を移す。加賀からの手紙は、小学生かと見まがうほど字が汚かった。
加賀は、離職した。その旨を、そしてあいつの感じた諦観をつらつらと書き連ねてあった。
上からは、休暇を与えられた。いつまで、とは宣告されていない。
また古くからの馴染みである鑑識は、こういった。
三田は隣のビルに飛び移ろうとしたんじゃないか、そもそも女性は解放するつもりだったんじゃないか、と。
合点がいく。
俺が手を出すまでは、彼女は手すりの内側にいた。三田が落ちる拍子に、必死になにかにつかもうとして彼女にしがみついてしまったようにも考えられる。
だが俺は考えていた。
ならば、俺がしたことはなんなんだ?
三田が女性を屋上に解放したまま隣のビルに飛び移ろうとしたのなら、俺がヤツの足をつかんだのはどういう意味を持つ?
自分の握りこぶしを見つめる。
俺はヤツの手をつかんだのに、なぜ離した。一瞬でも躊躇はなかったのだろうか。自分も一緒に落ちはしないか。自分の命と犯人の命を天秤にかけなかったか。
結果はどうだ?
三田はどんな扱いを受けてどうなった。女性があんなことになる必要がどこにあった。
ひとつ明確なのは、俺が受けたのはただの謹慎処分だということだ。
ため息をついた。
すべては推論でしかなく、俺のしたことが不運をまねいたと絶対的に言えるわけではないことに安心していた。
考えて考えた。自分を責めたりもした。
だが、最後に残ったのは安心だった。
そしてそれに気づいた上で、俺は自分に絶望できなかった。
窓から映る空は燃えるような赤で染まり、でも俺には朝焼けか夕焼けかすらわからない。