虫の知らせ
人間は万物の霊長——。
年端もいかぬ子供の頃、親の本をこっそりと読んではそんな言葉に触れ、根拠のない優越感にひたる。一方では、彼のような年齢向けの教材で動物や昆虫を擬人化した本にも触れ、皮肉るようにつぶやく。
「ふん。虫なんかにそんな風にものを考える脳みそがあるわけないじゃん」
保育園から帰れば幼馴染みたちと一緒に、旺盛な好奇心を剥き出しにしては雑木林や田んぼでバッタやイナゴ、蛙などをたくさん捕まえた。
そして、意味もなくその体を引き裂いては溝に捨てた。
年齢相応の残酷さ。多忙な大人たちは子供の遊びに対して不干渉であり、健一に限らず近所の男の子たちは似たような遊びを延々と続けていた。
娯楽の少ない田舎町、幼少時の健一はそんな過ごし方をしていた。
親たちの育児方針は基本的に放任主義。健一たちは保育園が休みの日には近所の大人たちの仕事を交替で手伝い、牛の世話や畑仕事に精を出した。そんな子供たちに対し、あまり厳しいことを言う大人はいなかったのである。
「健一。一寸の虫にも五分の魂。むやみに殺生してはならんぞ」
ただひとり、健一の祖父を除いては。
「はーい」
健一は保育園児にしてすでに、大人の話を適当に聞き流す術を身に付けていた。
大人たちが牛や農作物を守るため、農薬を散布していることを知っている。また、蚊やゴキブリ、ネズミを殺すために家のあちこちに仕掛けをしていることも知っている。
理由があるのなら殺してもいい、というのは大人の方便に過ぎない。幼い健一がどこまで理解していたかは不明だが、子供に対する説教の多くはある種の理想論、都合の良い理屈に過ぎないことを漠然と嗅ぎ取っていたのだろう。
里に下りてきた熊と出くわした以上、撃たなければこちらの命が危ないという話ならわかる。そういった緊急事態とは違い、害虫駆除は明らかに人間側の都合でしかないのではないか。試しに、健一はそれを祖父に告げてみた。
「害虫を駆除しなければわしらが食っていけん。命に関わるという点では熊に襲われるのと変わらんのだ。うちで飼っている牛も、乳牛としての役目を終えたら殺して食うことになる。人間はどうしても、生きるために必要最小限の殺生をせねばならんのだ。そうやって生をつなぐために他の生き物から生を提供してもらう。そのためにわしら人間は感謝の気持ちを持って毎日毎日家畜の世話をしている。怒りにまかせて命を奪うなど、ましてや何の理由もなく慰みに殺すなどもってのほかだ」
まだまだ元気に牛の世話をしている祖父は中年と呼ぶべき若さであり、怒鳴る声も雷のごとしである。およそ幼児に語りかける口調とはほど遠いが、こっそりと親の本を読みあさっている健一にとって、それらの言葉を理解するのは難しくなかった。また、その言葉が間違いだとも思わなかった。
しかしその直後、「ええい、うるさい吸血鬼め」と言って蚊を叩き落とす祖父に対し、健一はこっそりと醒めた目を向けていたものだ。
「お前だろ、かおり。じいちゃんに告げ口したの」
祖父に怒られると、その翌日、健一はいつもかおりに食ってかかった。
「健一が悪いんだよ。生き物をむやみに殺しちゃいけないっていつも言われてるのに」
お下げ髪を揺らし、腰に手を当てて応じるかおりは、その頃の健一にとって鼻持ちならない幼馴染みに過ぎなかった。同い年のくせに、まるで健一の姉か母親気取りで説教してくるのだ。会えば毎回言い合いになる。
イナゴは畑にとって害虫じゃんか、と言いそうになってやめる。なぜなら健一たちが殺す生き物はイナゴだけではなかったのだから。
「ふうん。じゃ、かおりは蚊に刺されても殺さないんだな。蛾が肩に止まっても平気なんだな。今度かおりが昼寝してるとき、蜘蛛が腹の上に乗っかってても放っておいていいんだな。悪かったな、勝手に追っ払ったりして」
その言葉にかおりは眉を吊り上げ、頰を大きく膨らませる。
「それとこれとは違うもん! 健一のいじわる」
こんな風に、たまには健一がかおりを言い負かしてしまう日もあった。しかしそのときばかりは子供に甘い親たちでさえ、必ず彼に雷を落とすのだ。かわいい女の子を男の子が泣かせた。大人たちにとっては、この一点の他に斟酌すべき事情はないのだった。おかげで健一は保育園児のうちに「矛盾」や「理不尽」といった言葉を実感と共に覚えたが、特に自慢する気にはならなかった。
そんな健一も、小学校に上がる頃にはむやみに生き物を殺さなくなっていた。戯れに殺すことの残酷さに気付いたこともあるが、探すまでもなくいくらでも大きな虫がいる環境なのだ。慣れもするし、飽きもする。
かおりはと言えば、いまだに蛾や蜘蛛、ムカデやヘビなど苦手なものだらけだった。
しばらくそれをネタにからかってみた健一だったが、長くは続かなかった。
「ふん。男の子と女の子は違うのよ」
健一がからかうのに飽きたのが先か、かおりが相手にしなくなったのが先か。次第に会話がなくなっていったのは自然な流れだった。
中学生になったある秋の日、下校途中のかおりが道端にうずくまっていた。
健一は彼女の様子を遠慮がちに覗き込む。
――そのまま歩き去るべきだろうか。
女の子に『月の日』があることを知ったばかりの健一は迷った。もしかしたら、男が声をかけるべきではないのかもしれない。少なくない時間幼馴染みを見つめた挙句、いったん歩き去ろうとした。
「……!」
目の前を横切るように飛んでいったトンボが急降下した。つられるように視線を下げた健一は、再び幼馴染みを見つめる。
「どした、かおり。腹痛かぁ」
軽い口調とは裏腹に、半ば駆け寄るようにして傍らにしゃがむ。
「痛い。すっごく痛い」
近寄ってみると、かおりは腹ではなく右肘のあたりを左手で押さえている。
かおりが押さえているのは患部ではなかったので、ぽっこりと膨らんだ虫刺されの跡がはっきりと視認できた。
「この刺し跡、スズメバチか!」
「うん。騒いだら何度も刺されると思ったから……。一度刺された後、痛いのを我慢して静かにしゃがんでたの」
正しい選択だ。敵を一度刺せば身体から針が抜けてしまうミツバチとは違い、スズメバチの針はそう簡単には抜けない。下手に追い払おうとすれば、彼女が言う通り何度も刺されていたに違いない。もっとも、スズメバチが興奮状態だった場合はその場に留まるよりも逃げるべきなのだが。
スズメバチに刺された場合、怖いのはアレルギー症状だ。刺されてから数分で症状が出る場合もあるが、ここからかおりの自宅までは十分以上かかる。その間中何の処置もせず放置したらどうなるか――。
「小さい頃さんざん虫をいじめた俺じゃなく、かおりを刺すとはけしからんスズメバチだな」
「…………あっ」
健一は迷うことなくかおりの虫刺され跡に吸い付くと、毒を吸い出した。実は、これはあまり正しい選択とは言えない。もし健一の口腔内に怪我があれば、そこから彼の体内に毒が回ってしまうからだ。
「かおりんち、抗ヒスタミン軟膏ある?」
「わかんない」
「虫刺されの薬がなかったらアロエでもいい、ハチの毒に効くのを塗って医者に行かなきゃ。とにかく帰るぞ」
健一はそう言うとかおりの正面で背を向けてしゃがむ。
かおりは吹き出してしまった。
「あたし、刺されたの腕だよ。……歩けるから」
立ち上がると健一を追い越して早足で歩き去って行く。
「あ、おい! 刺されたとこ、水でよく洗うんだぞ」
「言われなくても! 健一に舐められちゃったからねっ」
健一の舌打ちが聞こえたのかどうか、かおりは一瞬だけ振り向いた。その目は柔らかく微笑んでいるようだった。
時は流れ、健一は大学生になった。地元の大学とは言え彼の住む田舎町から通うには遠すぎるため、親元を離れることに決めていた。
一方、かおりは就職を決め、やはり親元を離れるとのことだ。割と遠い町へ出て行くと聞いた。
次はいつ会えるかわからない。幼馴染みに別れの挨拶くらいはしておきたかった。しかし、中学以降はほぼ会話さえも途絶えたまま。いまさら改まった挨拶など気恥ずかしい。
そんな心残りを胸に、旅立ちの朝、健一は雑木林を見つめていた。
自然に目を閉じ、手を合わせる。瞼の裏にはバッタやイナゴ、蛙の姿が浮かぶ。
「小さい頃、たくさん酷いことしてごめんな……ってところかしら」
風にのり、背後からかおりの声とともにシャンプーの香りが漂ってきた。
振り向いた健一は、ゆるふわのセミロングを風になびかせる幼馴染みの姿を認めた。反射的に憎まれ口を返そうとしたのだが、不覚にも息を呑んでしまう。
「ふふ。健一なら、出かける前にここに立ち寄ると思った。やっぱり挨拶くらいしておきたいじゃない。……こういうのも、虫の知らせって言うのかな」
「かおり」
小さい頃からかわいかったが、髪型を整えメイクをした彼女は人形さながらに整っている。我知らず、胸が高鳴る健一であった。
「虫の知らせって、あんまりいいことを教えてくれるってイメージがないけどな。俺と違って虫に酷いことしなかったかおりになら、いろんなことを教えてくれるのかも」
気の利いた言葉を思いつかず、それきり黙ってしまった健一に、かおりは小さく「ありがとう」と告げた。
「おう。……って、何が?」
笑顔で手を振り、駅に続く道へと歩き去るかおり。
しばらく見送った健一は、逆方向へと歩いていった。
自分の車に乗り込んだ健一は、フロントガラスにとまっていたスズメバチが飛び立つのを見て妙に胸騒ぎを覚えた。
「まさか。いや、俺なんかに何かを知らせてくれる虫がいるわけない」
エンジンをかけたが、すぐにはアクセルを踏まなかった。
「駅まで歩いたら三十分はかかるぞ。俺はそれほど急いでいないんだから、かおりを駅まで送っていくぐらいのことは」
ようやくアクセルを踏んだ健一は、かおりの後姿を探した。ほどなく追いつく。
「か――」
窓を開けた健一だったが、わずか一音だけ発音すると黙り込んだ。
かおりの後姿は、若い男の運転する車の助手席へと吸い込まれていったのだ。
車の中、楽しげに談笑するかおりと、見知らぬ男性。
健一が車を停めると、またしてもフロントガラスにスズメバチが現れた。
スズメバチはいびつな半円を描くように上方へと飛び上がり――、ジグザグの軌道を描いて真下へと飛び降りたのだった。




