苦い珈琲
「思い出すよ。こんな雨の日だった。君が初めてこの店にきたのは」
ガラスを激しく打ちつける水滴を横目で見ながら、男は口を開いた。
鼻孔をくすぐる珈琲の香り。それを静かに鼻から吸い込み、また肺から押し戻しながら、その男は続ける。
「ずぶ濡れだったね」
喫茶店の中。カウンターの向こうで、男はカップを磨きながら独り言のように言う。
話しかけられているのは女。今は雨の喫茶店。この女の他には誰も客がいない。
女は応えない。
「うんと苦い珈琲を」
男は気にせず続ける。
「それが君の注文だった」
男は磨きかけのカップを脇に置き、温め置いた別のカップに珈琲を淹れた。
更なる珈琲の香りが、カウンターから店内に広がっていく。
「そしてあの日以来、黙っていてもそれが君の注文になった」
男は女の前に淹れたての珈琲を置いた。
カップの中の琥珀色の液体が揺れ、更にその香りを振りまく。
「口の中ぐらい甘やかせばといつも思ってるんだけど」
黙って口をつける女に、男はそれでも一人で口を開く。
「……」
男はその女の口元を見つめ、嚥下される喉元を眺めた。
「昨日またあの人がきたよ」
女の喉を珈琲が一口潤したと見るや、男はそう切り出す。
「いい人だね」
女は応えない。黙ってカップを見つめる。
「心の底から反省してるみたいだよ」
珈琲を出し終えた男は、磨きかけのカップをまた手にとり直す。
「自分が悪かった。帰ってきて欲しい。やり直させて欲しい。だってさ」
女はカップの底を覗くだけだ。やはり応えない。
「恥も外聞もなく、君がいつここにくるのか、僕に訊いてきたよ」
男はカップを磨く。それは先程より、随分と力強い。
「もちろん、教えなかったけどね」
女はもう一度カップに口をつけた。そして一口だけ喉を潤すと、そっとカップソーサーに珈琲を戻してしまう。
「君。本当は、苦いコーヒーは苦手なんだろ?」
女は応えない。カップの底では飲み残しが揺れていた。
「返すよ……」
男はそう言うと、カップの横にそっと鈍く光る何かを置いた。
女は動かない。
「……」
男は黙って間を置く。
女はそれを取って立ち上がった。そのままその鈍く光る何かを黙ってポケットに入れる。
鍵だ。摩耗もなければ、手あかのくすみもない。作り立てらしき部屋鍵。
「……」
男は出口に向かうその女の背中を、黙って見つめた。
女は店の出しなに、軽く振り返って何か呟いた。
「だろ? ひどい顔して飲んでたものね。苦いのは本当は苦手だったんだ」
僕もだけどね――
男が小さくなっていく女の背中に、最後の言葉を呑み込む。
男が自分の為に珈琲を入れ始めると、外の雨はいつの間にか上がっていた。