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夜の境界

掲載日:2026/06/24

「なぁ、夜の境界ってどこだと思う?」

歩きながら、豊樹がそんな事を聞いてきた。

「考えたことなかったけど、六時過ぎたらとかかな」自分はスマホを見ながら空返事をした。

「六時か~」

「うん。適当だよ、適当」

豊樹は天を仰いでまた考え出している。自分はSNSを観るのをやめ、スマホをポケットに仕舞い込んだ。

「豊樹は何時だと思ってるのさ」

「難しいね。それは。夏と冬だと日没時間が変わるでしょ」

自分でも分かってねえのかよ。と言いたくなってしまった。

「夜の境界ねぇ。どうしてまたそんなことを?」

「さっき行ったラーメン屋でさ、曲が流れてたじゃん。あれ。」

そんな曲流れていたか?と三十分前の記憶をフルで巻き戻すも思い出せない。まあそんなことはいい。

確かにこれは難しい問題かもしれない。もちろん、これまでの人生で『夜はいつからなのか』なんて考えたことも無い。夜は毎日やってくるものだ。

「子供の帰りを知らせるチャイムが鳴って、夕日が姿を消し、夜が来る。この不可逆的なサイクルのどこに切れ目があるんだろうな」

「さあな」

なかなかに独特な言い回しだと思いつつ、自分もどん曇りの空を見上げて考えてみた。

梅雨の十七時半はまだ明るくて、そしてじめじめとした暑さが身体に纏わりついてくる。晴れた日なら日没がよく分かるだろうが、今日のような曇りや雨の日はどうなのだろう。考え方を変えて、昼と夜の長さが同じなら…赤道上の国はどうだ。じゃあ北極圏の白夜や極夜はどうなるんだ…そんな事を考えても仕方ない。

どうにも結論が出ず、訳が分からなくなってきた。

遠くのスピーカーから、「ふるさと」が流れ始める。これも夜の始まりなのか?

自分はバッグに入っていたフリスクを三粒出し、奥歯でギュッと噛んだ。



家に帰ったあと、夜の定義について調べてみた。

「夜+いつから」なんて検索すると、AIが要約をすぐに出してくれる。便利な時代になったなと思いつつ、軽くスクロールして読んだ。 

天気予報、法律、日常会話。場面に応じての「夜の境目」がわかりやすく簡易的にまとめられている。だが、どれも的を射ないものだった。

更にスクロールして知恵袋も読んでみたが、これもいつからが夜かなんて書いているわけもなかった。

自分には分からなかったことの証明として、スクリーンショットを撮って、豊樹の入っているいつものグループラインにコメントなしで送りつけた。

寝る前にもう一度ラインを開くと、豊樹ともう一人が目のリアクションをつけていた。


それから一週間は夜の境目の事など忘れ、卒なく仕事をこなしていた。豊樹とはラインで数回話していたが、その話題は一切出てこなかった。彼は美大の浪人生で、家と予備校、そしてアトリエを往復する生活を送っているらしい。時折油絵が送られてきては、自分とそのグループの数人が絵の評価を送り合う。といっても自分含め他の全員は絵の素人で、美術的価値が分かるわけでもない。それでも豊樹の描く絵は繊細で美しく、圧倒される。彼がなぜ浪人しているのか、私はいつも疑問に思っている。


その日の夜も、豊樹から絵が送られてきた。今日は抽象的な絵だ。透明なテーブルに赤いクロスが敷かれ、その上にガラスでできたオブジェクトが鎮座している。

自分は「クラインの壺みたい かっけえ」と打ち、天井を眺める。

仮眠室のベッドは固く、ぐっすり寝られない。浅い睡眠を二時間ではだいぶ堪えるものだ。自分はバキバキと鳴る身体をぐっと起こし、支度を始めた。



二十四時を過ぎた東京は、流石に静まっている。有楽町から上野へ向けて軽自動車を走らせる。レンガ造りの東京駅…大手町…飲み屋街と、過ぎゆく景色が変わっていくのがまた面白い。助手席に座る主任と他愛もない会話をしながら、車は御茶ノ水を過ぎた。いつからか主任との話題は休日になり、そこから普段の過ごし方に発展した。

「この間の連休はなにしたのさ?デートでもしてきたかい?」

「まさか~。中学からの男友達と散歩ですよ。ラーメン食べてから散歩」

「あらそうなの。散歩ねぇ~」主任はちょっと残念そうな顔をして、窓際に肘を掛けた。

主任は若手の恋愛話に敏感だ。ただ敏感なだけでなく、その力は確かなようで、恋愛相談をすれば「的確なアドバイス」を貰える。そんなことを二十六の先輩社員から噂程度に聞いていた。

自分は特に主任から可愛がられ、よく恋愛話を聞かれる。正直"ウザったらしい"が、良くしてもらっている分際では何も言えない。どうやら主任のお子さんが自分の年齢に近いらしく、父親としての思いが混じっているのかもしれない。


「妻恋坂」の交差点を通過すると、雲の隙間から霞んだ月が見えた。そしてふと、夜の境目について思い出した。沈黙にはちょうどいい話題だと思った。

「主任、夜の境界ってどこだと思いますか?」

「へ?夜の境界ってなんのことだい」

「夕方から夜になる時、どこで夜に変わるのかなあって」

「やけに急な質問だな…」主任は流れる景色を見ながら、左手に頬を預けた。二つ先の交差点まで、カーラジオの音楽が車に鳴り響いた。

「境目なんてないんじゃないか?」

「ない…」

「太陽が沈むとさ、空は夕焼けでグラデーションになるでしょ。そこに境は無い気がするな」

「やっぱりそうですよね」

まあ、普通の回答だった。ここで変な回答を貰っても困る。

少しだけ安心して、夜の外神田を法定速度ギリギリで走り抜けた。


ふと、主任がカーラジオの音量を上げた。

「あ、これポンキッキーズの曲だ。懐かしいな~」

カーラジオからは、夏休みに関する歌が流れている。なかなかに小学生に直球な歌詞で面白い。

「いや~久しぶりに聞いたな。ポンキッキーズって知ってる?」

「自分は知らないですね…」

「そうか~九五年くらいの時だからな~」

「じゃあ尚更分からないですねー」懐かしむ主任に愛想笑いを浮かべ、不忍池を右に曲がった。

上野の街が見えて来て、窓を開けて都会の風を入れる。昼間より少し乾いた梅雨の風が、肩を掠めて心地よい。

「もうすぐ夏が来るな」主任がそう言った。

「そうですね」と自分が言うと、「夏の境界は梅雨明けだな」と笑う。

「最近は暑くてそうでもないですけどね」

「それは温暖化のせいだな。節電しないとな~」

よく考えればどこかで季節も区切られている筈で、グラデーションの境界があるんだ。そう気がついた。


明け方に東の空を見上げると、空が段々と青みがかっていた。逆に西を見ると、それはまだ暗闇だ。この天球のどこかに、『朝の境界』がある事に気がつくと、ちょっと面白いと思った。

自分は車にキーを差し込み、エンジンをかける。遅れて車に乗り込んできた汗だくの主任が、冷房のつまみを最大値まで回した。段々と冷えていく車内で、自分は東の空を眺めた。

カーラジオからは、ミセスの青と夏のイントロが流れている。




次の金曜日、豊樹とまたラーメンを食べにいく約束をした。

どうやら彼の通うアトリエの近くに、美味しい豚骨ラーメン屋が出来たらしい。

その日は仕事を定時で切り上げて、東長崎の改札前で落ち合った。豊樹はオレンジのTシャツにエプロン、そして手には鮮やかな絵具が少々。エプロンには大量のワッペンが貼ってある。こうして見ると、やはり絵描きの雰囲気がある。

「だいぶ鮮やかな手だな」

「右甲のこれはキナクリドンオペラで、そんでこっちがセルリアンブルーね」

「何を言ってるのかが全く分からない。取りあえず絵具の名前ってことは分かった」

「中学校の時も似たようなやつがあった。パーマネントイエローディープとか」

「覚えてねぇなあ。もう五年も前か」

「まあいい。行こう。南口の方にある」


二人並んで西日が照らす長崎銀座を歩く。ちょうど昨日に梅雨が明けたばかりで、袖を捲っても蒸し暑い。すれ違う小学生は漏れなく半袖短パンで、とても羨ましく感じる。

「南長崎のアトリエ、来てくれた事あったよな」

「三年くらい前だったかな」

「そのくらい前だな」

長崎銀座を歩いたのは、実に高校生以来だ。その時は学校帰りで、何処かで偶然会った豊樹に無理やり連れて来られた覚えがある。その日は秋の終わりで、夕闇に包まれていたことを思い出す。

ふと顔を上げると、アーケードの先に真っ赤な夕焼けが見えた。


件のラーメン屋には、十人ほどの行列が出来ていた。食券を片手に列の最後尾に並ぶ。

「豊樹はこのお店来た事あるの?」

「いや、つい三日前に見つけたばっかりだな」

「あらそう」

列は三分に一人のペースで人を消化していき、ついに先頭まで来た。スープの匂いと有線ラジオの音楽が、ますます胃を刺激する。

「なあ、これ見てくれるか」豊樹がスマホをこちらに見せてきた。映っているのは地球の画像だ。日本が中心になり、右半分が陰、左半分が陽なたになっている。

「急に地球なんてみせてどうしたさ」

「前、夜の境界について話したじゃん。あれから色々探してみたけど、それらしい文献は見つかんなかったのよ」

「まだ探してたんだ。すごい熱量だ」

「俺諦めきれなくてさ、ネットサーフィンしてたらリアルタイムで地球を表示するサイトがあって、それがこれ」

「それで?」

「ここ、濃淡はっきりしてるでしょ。これが夜の境界」

「おー確かに。これはわかるな」私は感心して頷いた。境界がどこかというよりかは、よくそこまでの熱量をもって、調べ切ったことに関心がいった。


「ちなみに夜の境界って何が基準だったの?」

「それは俺基準だな。どこにも書いてなかったから、さっきの境界は俺が定めた」

待合の椅子から転げ落ちそうになった。「お前が定めたんかい!」と豊樹を軽く小突くと、「だって書いてないんだもん」と嬉しそうに笑った。

それと同時に、こいつには敵わないなと思った。


「今、空を見上げるとどこが境目なんて分からないけど、それは近いから分からないんだろうな」

豊樹が茜色の空に手をかざして呟く。

「曖昧かも知れないけどさ、夏の境界なら昨日だな」そう自分も言ってみた。

「違いない。梅雨明けで一気に暑くなったもの」

やはり豊樹は面白い。自分には到底感じえない感性がある。

店の中から先頭の二名を呼ぶ声がして、シャツポケットの食券を取り出した。


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