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※タグに『大人の恋愛』がついてますので…。
「本日は、誠におめでとうございます……!」
お隣に住む芹沢 喜美子さんが、潤んだ瞳で主役の二人へ祝辞を述べていた。
雲ひとつない晴天。
手入れの行き届いた庭園は、色とりどりの花々とゲストの笑顔に彩られ、まるで絵画のようなガーデンパーティーが繰り広げられている。
「晴れてよかったですね。お天道様にまで、お二人が祝福されているようですなぁ」
「ええ、本当に。お似合いの、素敵な二人ですから」
披露宴には、ショップのスタッフだけでなく、多種多様な招待客が顔を揃えていた。
先ほど私に声を掛けてくれたのは、この屋敷の庭師を長年務めてきた老紳士だ。
歓談の輪の中心で、眩いばかりの光を浴びる晃希さんと咲花さん。
その姿を見ていると、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
(本当によかった……。あんなに心からの笑顔、初めて見た)
初めてショップを訪れた頃の晃希さんは、どこか遠くを見ているような、薄い影をまとった表情をしていた。
調香体験をきっかけに、自らも調香師の道を歩み始めてからは少しずつ笑うようになったけれど、それでも時折、心の奥に鍵をかけているような気配があった。
そんな彼を変えたのが、家政婦としてやってきた咲花さんだった。
『彼女、僕の淹れたハーブティーを「美味しい」って笑って飲んでくれるんですよ』
ショップでそう語る晃希さんの瞳には、今まで見たことのない温かな光が宿っていた。
大切にしたい。 側にいたい。
彼にとって唯一の「運命」に出会えたのだと、隣で見ていた私は確信していた。
「櫻井店長、今日は来てくれてありがとう。彼のピアノも、実に見事だね」
感慨に浸っていると、背後から如月オーナーに声をかけられた。
視線の先では、奏汰くんが優雅に鍵盤を滑らせている。
オーナーに褒められたのが嬉しくて、思わず頬が緩んでしまう。
「ふむ……晃希が言っていた通りだ。櫻井店長の心を射止めるとは、あの青年はなかなかの人物だね」
「……何のことですか?」
「柏木くん、だったかな? 交際しているんだろう?
おっと、これはセクハラに当たるのかな」
いったい晃希さんは、奏汰くんのことをどんなふうに話したのだろう。
(今度、じっくり問い詰めなくては……)
無意識に険しくなった私の顔を見て、オーナーがおどけたように肩をすくめる。
「店長、顔が怖いよ。……ところで、彼はプロなのかな?」
「いえ。事情があって音大を中途退学したそうで。今はカフェで働いています」
「そうか。なら丁度いいかな。先日、あのレストランの支配人から『腕のいいピアニストを紹介してほしい』と頼まれていてね。彼に、その気があるか聞いてみてくれるかい?」
「……わかりました。後で、本人に聞いてみます」
オーナーが去ったあと、
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
遠くのステージでは、奏汰くんが変わらぬ集中で鍵盤に向かっている。
柔らかな陽光を受けた横顔は、どこか凛としていて、
さっきまで私の隣で笑っていた人と同じとは思えないほどだ。
──あの名店で、専属ピアニストとして演奏する奏汰くん。
そんな未来を想像した瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
彼が再び“表舞台”に立つことを望むのかどうか。
それは、私には決められない。
けれど、もし彼が前に進みたいと願うなら──私はその背中を、きちんと押してあげられるだろうか。
風に揺れる花々の向こうで、奏汰くんの指先が軽やかに踊る。
その音色に導かれるように、私はそっと息を吸い込んだ。
「……後で、ちゃんと話さなきゃ」
自分に言い聞かせるように呟き、もう一度、彼の横顔を見つめた。
***
──控室のドアを開けた瞬間、私は自分の呼吸が止まるのを感じた。
「奏汰、くん……?」
そこに立っていたのは、私の知っている「年下の男の子」ではなかった。
如月オーナーが用意したという漆黒のタキシードは、彼のしなやかな長身を完璧に際立たせている。
凛と伸びた背筋、白く清潔なシャツの襟元、そして少し大人っぽくセットされた髪。
(……なんて、綺麗な人)
借り物のスーツ姿も十分に素敵だったけれど、正装した彼は、思わず息を呑むほどだった。
柔らかな光を受けた横顔は凛としていて、まるで舞台に立つ人のような静かな気迫が漂っている。
「……莉緒、さん」
振り返った彼の瞳が、私を捉える。
その熱を帯びた眼差しに、私の心臓が大きく跳ねた。
「俺、莉緒さんが綺麗すぎて……演奏する前に、心臓が止まるかと思いました」
そう言って、彼は照れたように笑った。
その笑みの奥に、ふと大人びた影が差す。
その低い声が、いつもより深く耳に残る。
彼はそのまま一歩近づき、
大きな右手をそっと差し出した。
演奏で鍛えられた指先は、節が美しく浮かび上がり、
触れたら温度まで伝わってきそうだ。
「行きましょうか。
莉緒さんの大切な場所を、俺のピアノで祝福しに」
誘われるように、その手に自分の手を重ねる。
掌から伝わる確かな熱に、
心臓がトクン、と跳ねた。
──ああ、ずるいな。
こんな風にエスコートされたら、どこまでもついて行きたくなってしまう。
暴れ出しそうな鼓動をドレスの下に隠して、私は彼と共に、光の渦巻くガーデンへと踏み出した。
(私は……彼に落とされたのか。それとも、彼が私に落ちてくれたのかな……)
答えは出ない。
けれど、彼からもらったメッセージカードを日に何度も見返し、その度に胸がじわりと熱くなる。
認めざるを得ない。
私の方が、とうに「落ちて」いるのだということを。
ふと、共通の知人から届いた連絡を思い出す。
先日、元カレが結婚した。
お相手は楽団員だという。
「ああ……よかった」
その言葉が、自然と口から溢れた。
──その途端に。
かつての私も、彼と共にいることに疲弊していたのだと気づいた。
彼は純粋に音楽を愛していたが、その愛は独善的で、崇高すぎた。
彼と同じ景色を見たいと願った私は、独学で音楽を学ぼうとしたけれど。
『専門の師につかず、参考書で得ただけの知識は、曲を正しく理解しているとは言えないよ』
静かに、けれど明確に拒絶されたあの日の氷のような声。
以来、私は彼に音楽の感想を伝えることを止めた。
彼の聖域を汚してはいけないと、自分を律して交際を続けた。
けれど、彼は結局、同じ「専門職」である楽団員の女性を選んだ。
それで、いいのだと思う。
彼は、望まない教員の職ではなく、ただ純粋に音楽だけに身を捧げたかったのだ。
別れ際、申し訳なさそうに謝罪した彼の瞳の奥には、やっと「在るべき場所」へ戻れるという解放感が見えた。
人生は、限りある時間の奪い合いだ。
誰と、どう分かち合うか。それを間違えてはいけない。
「莉緒さん、見つけた! 探しましたよ!」
私の名を呼ぶ、弾んだ声。
演奏を終えた奏汰さんが、私を探して駆け寄ってくる。
今日の彼の演奏は、披露宴に相応しく、祝福に満ちた明るい調べだった。
もし、彼が音大を卒業していたら。
彼もまた、あちら側の世界で楽団員として生きていたのかもしれない。
「俺は今休憩中なんです。一緒に料理、食べませんか?」
屈託のない笑顔で、彼は私の手を取った。
熱を帯びた、大きな手。
(この手が離れていく日が来たら、私は耐えられるのかな……)
繋がれたその強さに、私は震えるような愛おしさを感じていた。
***
── 一ヶ月後。
俺は友人のアパートに転がり込み、盛大な溜息をついていた。
「奏汰、その辛気臭い顔をやめろ!」
「……莉緒さんが、足りないんだ」
あの日以来、俺はレストランでの演奏を引き受けた。
カフェの仕事と「二足のわらじ」は多忙を極めたが、充実感はあった。
ただ、計算違いだったのは、ピアノに触れる機会が増えたことで、駅のピアノを弾きに行く必要がなくなってしまったことだ。
つまり、莉緒さんが仕事帰りに俺の演奏を聴きに来てくれる、あの至福の時間が消えてしまったのだ。
「莉緒さんだって、店を任されて忙しいんだろ?」
「……お前が、彼女の名前を呼ぶのを許した覚えはないぞ!」
友人のもっともな指摘に、俺は苦い顔で言い返した。
実際、今の彼女は目が回るほど忙しいはずだ。
晃希さんと咲花さんが新婚旅行へ旅立ち、さらには結婚式に参加できなかった晃希さんの母親に会うため、二人はフランスへと向かった。
それに如月オーナーまで付き添いで同行してしまったから、ショップの全権は莉緒さんの細い肩に預けられている。
応援したい…。
邪魔はしたくない。
けれど、会えない時間が、俺の中の『莉緒さん成分』を枯渇させていく──。
「お前ら、本当に付き合ってるのか? 妄想じゃないよな?」
「失礼なこと言うな! ちゃんと返事もらったよ!」
(……妄想なわけがない。あの夜の、莉緒さんの肌の熱さは、今もこの指先に残っているんだから!)
──あの披露宴の翌日。
俺は莉緒さんの部屋で、緊張しながらメッセージカードの返事を受け取った。
『奏汰くんの気持ち……とても嬉しいです。その、私でよかったら』
その後の記憶は、熱に浮かされたように断片的だ。
再び踏み入れた、莉緒さんのプライベートな空間。
俺の指先が、莉緒さんの熱を帯びた白い肌を、慈しむようにゆっくりとたどっていく。
鍵盤を叩く時とは違う、繊細で、けれどひどく執着に満ちた動き。
鎖骨のラインから、シーツの海に溺れそうな細い肩へ。
指先が触れるたび、莉緒さんの身体が小さく跳ねて、甘い吐息が零れる。
(……全部、俺だけのものにしたい)
香水よりもずっと濃密な、彼女自身の体温と混ざり合った無垢な残り香。
俺の腕の中で、凛とした歳上の顔を失くし、ただの「一人の女性」として熱を上げる彼女。
彼女が、俺の腕の中で香水よりもずっと甘い、彼女自身の香りを漂わせながら、熱い吐息を漏らしていた。
(あの香り、あれは反則だろ……)
『莉緒さん……お願い、全部、俺に刻ませて……』
『奏汰、くん……っ。そんな、ところまで……』
拒絶ではなく、溺れるような甘い声。
潤んだ瞳に映っているのは、余裕なんて一ミリもない、彼女に執着しきった俺の姿だ。
その瞬間、俺の中で何かが決壊した。
かつての恋人のことなんて、一秒だって介在させたくない。
香水よりもずっと濃密な、肌と肌が触れ合う熱。
俺たちは、ただ剥き出しの感情のまま、互いの熱を確かめ合った。
震える声で俺の名を呼ぶ、その響きは、俺が奏でるどんな旋律よりも美しく、情熱的で。
俺は、ただ夢中で彼女という「音楽」を何度も耳に刻みつけたのだ。
(……それなのに、今はその『音楽』が足りなすぎて、死にそうだ!)
「……なあ。やっぱり、アレで怒らせたのかな」
「アレって、アレか? お前、外面のわりには中身が淡白だもんなぁ」
友人の冷やかすような声に、俺は思わず身を乗り出した。
「待て! なんでお前がそんなこと知ってるんだよ!?」
恐ろしいことに、こいつは俺以上に俺の過去の恋愛事情を把握していた。
歴代の彼女たちは、揃いも揃ってこいつに俺の愚痴をこぼしていたということか。
「まあ、相談役ってやつ? お前、本人はその気でも、相手には全然愛情が伝わってないタイプだしな」
「……そんなにか? 俺はいつだって本気で好きだったし、示してるつもりだったぞ」
「わかってるよ。単純にお互いの熱量が違ってただけだろ。……でもさ」
友人はそこでニヤリと口角を上げた。
「莉緒さんに関しては、お前の熱量、今までの比じゃないだろ。……引かれてなきゃいいけどな、頑張れよ」
「……わかってるよ! 俺の方が夢中になりすぎてんだよ」
熱量なんて、パラメーターで見えるわけじゃない。
けれど、自分でも抑えられないほどの独占欲が、今の俺を突き動かしているのは事実だった。
「奏汰がわざわざ俺に相談してくるとか……その莉緒さんって、一体何者なんだよ」
「──ずっと側にいて、大切にしたい女性だよ!」
迷わずにそう答えると、友人は呆れたように「ごちそうさま」と手を振った。
「その台詞、本人に言ってダメなら諦めろ! じゃあな!」
追い出されるようにアパートを後にした俺は、夜の冷気の中で深く白い息を吐いた。
今日のメッセージも『残業で会えそうにない』という短いもの。
俺の熱量が、彼女を怖がらせてしまったのだろうか。
……けれど。
俺はもう、彼女なしの世界には戻れない。
俺を「ピアニスト」として再生させ、俺の告白を「嬉しい」と言ってくれた人。
俺は、上着のポケットに忍ばせた新しいメッセージカードを握り締め、夜の街を、彼女のマンションへと向かって走る。
伝えたいことは、まだ山ほどある。
俺の心に、一番深く響いているのは、いつだって彼女が奏でる鼓動なのだから。




