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いつもの駅前で、俺は櫻井さんを待っていた。


今夜のディナーはドレスコードのない隠れ家ビストロだ。

スーツではなく、清潔感を意識した綺麗めのジャケットスタイルで装いを整えてきた。


「……これ、喜んでもらえるかな」


手に持っている紙袋には、デパ地下で購入した紅茶のギフトセットが入っている。


あの日、元カレと香水の女の姿に吐き気を覚えながらも、なんとか見つけ出した限定フレーバーの詰め合わせだ。

季節をイメージした茶葉が個包装になっていて、パッケージも可愛らしい。


──そして、その中には一枚のメッセージカードを忍ばせている。


『櫻井さんをもっと知りたいので、俺と交際してもらえませんか?』


我ながら、直球すぎて恥ずかしい。

これまで付き合った相手にも、こんな風に文字にしてハッキリ伝えたことなどなかった。


……性急すぎるだろうか。

でも、俺はもう彼女から目を逸らせないくらい、深く惹かれている。


友人のアパートで、あの男が「教頭のコネ」で結婚しようとしていると知った時、部外者であるはずの俺は勝手に憤っていた。


もちろん、二人の間に何があったのかは知らない。

あの男が打算なく相手の女性に惹かれた結果、櫻井さんと別れたのかもしれない。


だとしても──。


「あんな風に、彼女を一人で泣かせるなよ!って思うけど……」


「こんばんは! お待たせしてすみません、少し残業してしまって」


不意に背後から声をかけられ、ビクッと肩が跳ねた。

振り向くと、そこには少し息を切らした櫻井さんが立っていた。


やっぱり綺麗で、一瞬呆けたように見つめてしまう。


「柏木くん? 大丈夫ですか? 驚かせてすみません!」


「い、いえ、大丈夫です! 残業、お疲れ様でした!」


彼女からは、事前に「少し遅れる」と丁寧なメールが来ていた。


だから俺は近くの書店で時間を潰し、そのついでにあのメッセージカードを書いて袋に入れたのだ。


「何か……悩み事ですか? 難しい顔をされていたので」


いつもなら、彼女のあの雨上がりの庭園に咲く花のような香りで気づくはずなのに、よほど考え込んでいたらしい。


「いや、悩み事じゃなくて……これ! 櫻井さんに喜んでもらえるかなって、心配してました」


「……えっ? こちら、私が受け取っていいんですか?」


俺は照れ隠しに、メッセージカード入りの紅茶ギフトを突き出した。


「よかったら、受け取ってください。たいした物ではないので……あ、必ず帰宅後に見てくださいね!」


「……? お気遣いいただいて、ありがとうございます。では、遠慮なく頂戴しますね」


渡してからハッと気づく。食事の前に渡したら、ただの荷物になってしまうじゃないか!


もう一度俺が預かって、帰りに渡した方が良かったか……と焦っていると、櫻井さんは袋の持ち手をきゅっと握り直した。


「ふふっ……可愛いデザインの袋を持ち歩くのって、気分があがりますね」


──重くないし、大丈夫ですよ。

そう示すように楽しげに袋を揺らす彼女を見て、俺の考えていることなんて、すべてお見通しなんじゃないかと思った。


***


シェフに紹介してもらった店は、やはり間違いなかった。


隠れ家のような入り口からは想像できないほど奥行きのある店内で、程よい明度の照明が料理を美味しそうに照らしている。


「素敵なお店ですね! お料理も美味しくて、お酒が進んでしまいます」


「気に入ってもらえてよかったです!」


彼女の笑顔が嬉しくて、ついつい俺もお酒のペースが速くなる。


だが、先ほどから櫻井さんの手元が気になって仕方なかった。

ジャケットを脱いで腕を動かすたび、ブラウスの袖の隙間からサポーターのようなものがチラチラと見え隠れしているのだ。


「……すみません、無臭の湿布の筈ですが、匂いますか?」


俺の視線に気づいたのだろう。

櫻井さんが申し訳なさそうに袖を伸ばして手首を隠した。


「匂いは全くしませんが……怪我、されたんですか?」


「少し、仕事で粗相をしてしまって。粗忽者で困りますね」


眉を下げて悲しそうに微笑む彼女に、胸が痛む。

深く踏み込んで聞いてもいいのだろうか。

でも、仕事のことなら守秘義務もあるだろうし……。


「……お酒、もう少し飲みませんか?」


「そうですね。もう少しだけ頂きます」


嫌なことがあったなら、お酒の力を借りてでも、少しだけ忘れさせたい。


そして…本当は、元カレのこともそれとなく聞いてみようとタイミングを見計らっていた。


だが、そのことに気を取られるあまり、俺自身が完全にペース配分を間違えていたらしい。


『酒は飲んでも飲まれるな!』――後に、俺は激しく後悔することになる。


***


「……ん〜〜っ!? 頭、いてぇ……」


目覚めと共に伸びをして、ズキリと痛む頭を押さえた。


──昨夜、完全に飲みすぎた。

ゆっくりと目線を下げて、視界に入ってきた『見たこともないシーツ』に、ピタリと思考が停止する。


「ん……もう……少し、寝かせて……」


「……っ!?」


隣から聞こえてきた甘い声に、一気に覚醒した。

サッと自分の身体を確認する。

服は……着ている。 よかった。


そろりと隣を盗み見ると…櫻井さんが、キャミソールワンピースというなかなかに扇情的な格好で、気持ちよさそうにスヤスヤと眠っていた。


「コレ……どういう状況!? 一線、越えてないよな!? 覚えてないとか、もったいなくて絶対嫌なんだけど!!」


「……ふっ……ふふっ、可笑しっ」


パニックに陥る俺の横で、櫻井さんが掛け布団を被りながら肩を震わせて笑っていた。


(……え、可愛い!…じゃなくて!)


「……とにかく! 酔ってご迷惑をお掛けしたみたいで……すみませんでした!!」


土下座の勢いで謝罪する俺に、彼女はむくっと起き上がり(だからその格好は目に毒なんだが!?)、「おはようございます」と微笑んだ。


聞けば…自覚していた以上に酔っ払った俺は、彼女に介抱されながらこのマンションに辿り着き、勧められるがままベッドに倒れ込んだらしい。

仕事の疲れとアルコールで警戒心が緩んでいた櫻井さんも、そのまま一緒に寝てしまったのだという。


「……お恥ずかしいところを、お見せしちゃいましたね。昨夜、どうしてもお酒を抜きたくて、深夜にシャワーだけは済ませたんです。でも、髪を乾かす気力もなくて……そのままお隣で、眠ってしまったみたいで。……良かったら、柏木くんもシャワー、使ってくださいね?」


櫻井さんは、普段の凛とした姿からは想像もつかないほど顔を赤らめている。


乱れた髪を気にしながら、逃げるようにカーディガンに腕を通すと、そのままバスルームへ案内された。


「はいっ! 酒臭くてすみません!! お借りします!!」


シャワーを浴びてさっぱりすると、昨夜の記憶が少しずつ蘇ってきた。


俺は彼女に酒を勧めながら、自分でもかなりの量をあおっていた。

結局、ワインのボトルを一人で一本空けていた気がする。


「……本当に、ご迷惑をお掛けして」


「大丈夫ですよ! 私も楽しかったですし……また、柏木くんに救われました」


淹れてくれたコーヒーを飲みながら、櫻井さんは昨日の仕事でのトラブルを話してくれた。


厄介なクレーマーに手を払われ、瓶を落とすまいと庇ったせいで手首を捻ってしまったらしい。


「だから、また嫌な思い出だけに囚われずに済んだので、柏木くんに救われたんです」


「いや……それは、どうなんでしょう……」


彼女はそう言ってくれるが、どう考えても俺の失態の方が情けなくて泣けてくる。


「あっ、私は今日お休みなんですけど、柏木くんはお仕事大丈夫ですか?」


「午後からの出勤なので時間はあります。洗濯までしてもらって……本当にすみません」


酒臭い服を洗濯してもらっている間、俺が着ているのは、おそらく『元カレ用の部屋着』だ。


『まだ処分してなくてよかった! 未使用なので遠慮なく着てくださいね』と渡されたそれは、まだ彼女が元カレを忘れられていない証拠のようで、胸がチクチクと痛んだ。


「朝食、食べませんか? 簡単な物しか出せませんけど……」


「よかったら俺が作りますよ! お礼も込めて!」


元カレの痕跡から意識を逸らすように、俺はシェフ直伝の《手抜きフレンチトースト》を振る舞った。


二人でテーブルを囲んでいると、ふいに櫻井さんがハッとしたように居住まいを正した。


「……あの、折り入って柏木くんに、ご相談があるんですが」


「はい、何でしょう?」


「……断っていただいても、構いません。……その、実は」


言いにくそうに目を伏せる彼女を見て、俺の頭の中に昨夜の『メッセージカード』がフラッシュバックした。


(俺にお願いはあるけど、交際は無理だから断ってもいい……そういう事か!?)


昨夜の醜態といい、俺は彼女に相応しくない。

でも、もう少しだけ好きでいることを許してほしい。


焦燥感に駆られた俺は、彼女の言葉を遮って叫んだ。


「俺は櫻井さんが好きなので、役に立てるなら何でもします! だから、メッセージカードの事は気にしないでください!!」


「……ショップの調香師の披露宴で、演奏を……え? ……好き? メッセージカードって、何ですか?」


……沈黙が降りた。

どうやら俺は、先走って盛大な墓穴を掘ったらしい。


「人の話は最後まで聞きなさい」という、幼少期のピアノ教室の先生の言葉が脳内を駆け巡る。


結局、俺は真っ赤になりながら、自分で書いた告白のメッセージカードを彼女の目の前で『音読』する羽目になった。

つくづく、様にならない自分が嫌になる。


「……年上の好きな女性って、私ですか!?」


目を丸くする櫻井さんに、俺はため息をつきながら向き直った。


「俺は、何とも思ってない女性とこんな風に関わろうとはしませんよ」


「……泣いていたから、同情したとかでは?」


「キスしても良いですか? それ以上も許してくれるなら……」


俺がにじり寄ると、櫻井さんの顔が一瞬で林檎のように赤く染まった。

 

大人の女性の余裕はどこへ行ったのか。

このギャップは狡すぎる。さらに距離を詰めようとした俺の顔の前に、彼女は両手を突き出してガードした。


「わ、わかりました! ちゃんと考えさせてください!!」


俺は、その壁になった彼女の手──痛めたという手首のサポーターの隙間に、そっと唇を落とした。


「……っ!? 柏木くん!? 何してるんですか!」


「早く治るように、おまじない、ですかね」


悪びれずに微笑む。

だって、目の前に好きな人がこんな無防備な格好でいるのに、手が出せないなんて拷問に等しい。


「もう……! 手慣れてませんか? 本当に年下ですか!?」


「奏汰、って呼んでほしい。……ダメですか?」


「……話が噛み合ってないと思うんです。名前は、良いですけど……奏汰、くん?」


……ヤバい。

名前を呼ばれるだけでこんなに嬉しいとか。

照れくささを誤魔化すように、俺も呼ぼうと試みる。


「莉緒さん……好きです。もっと色んな顔が見たい」


「……ええ!? 名前で呼ばれるのが、こんなに恥ずかしいなんて……」


(……確信犯か? いや、本人は本気で照れてるんだな。この人のこういう無防備なところ、本当に心臓に悪い……)


戸惑う彼女の隙を突いて、俺はチュッと、その唇に軽いキスを落とした。

驚きながらも拒絶しない莉緒さんが可愛くて…つい何度も、甘いキスを重ねてしまう。


──遠くの洗面所から、洗濯機の終了を告げる電子音が響いた。

規則正しい、けれど今の俺たちにはあまりに無粋なリズム。


よりによって、このタイミングで終止符を打つなんて。

俺の耳には、その正確すぎるテンポが今は恨めしい…。


「……っ、洗濯物!」


案の定、熱に浮かされていた莉緒さんが、ハッとして俺の腕からすり抜けて行ってしまった。


「じゃあ、また連絡します。色々と……ありがとうございました」


「……はい、こちらこそ。演奏を引き受けてくださって助かります。よろしくお願いします」


帰りたくねぇ〜!! と心の中で叫びながらも、出勤時間が迫っているため玄関に向かう。


「気をつけて、行ってらっしゃい」


「……行ってきます!」


まるで新婚のような響きに堪らなくなり、俺はもう一度、莉緒さんの頬にキスをしてから、後ろ髪を引かれる思いで外へと出た。


***


──それから、披露宴までの数日間。


俺は仕事の合間を縫って、如月さんの屋敷へ練習に通うことになった。


閑静な住宅街に佇むその洋館は、一歩足を踏み入れると外の喧騒が嘘のように消える。


『この広間は、窓を閉めれば完璧な防音になるよう設計されているんです。近所を気にせず、存分に弾いてください』


如月さんの言葉通り、ドーム型の天井を持つ広間は、ピアニストにとって理想的な聖域だった。


夜の帳が下りる頃。重厚なカーテンを引き、外の世界から切り離された密閉空間で、俺は独りピアノに向かう。


傍らには、仕事終わりの莉緒さんが静かに座って、俺の指先を見つめていた。


「……奏汰くん、今のフレーズ、すごく綺麗でした」


呼び慣れない様子で、けれど大切そうに俺の名前を呼ぶ彼女。


その声を聞くたび、心臓が跳ねる。

あの朝、彼女のマンションで「一線を越えた」……わけではないけれど、俺たちの境界線はあの日から確実に溶け始めていた。


譜面台の向こう、柔らかな照明に照らされた莉緒さんの横顔を見る。


如月さんの披露宴が、きっと温かな祝福に満ちた時間になることを、彼女は心から願っているのだろう。


その願いを守るために、俺にできるのは──最高の音を響かせることだけだ。


あの元カレが選んだ結婚は、莉緒さんを泣かせた過去とともに、もう遠い場所にある。


だからこそ俺は、莉緒さんが心から笑える「本物の祝福」を、このリストの旋律に乗せて届けたい。


(……莉緒さん、俺に任せて!)


数年ぶりにこれほどの長時間、ピアノに向かっている。

それなのに、俺の指は迷うことなく鍵盤の上で踊り続けていた。

まるで、溜め込んでいた想いをすべて吐き出す場所を、ようやく見つけたと言わんばかりに。


「奏汰くん。少し、休憩しませんか?」


ふと、彼女が淹れてくれた紅茶の香りが広間に満ちる。

その温かな香りに包まれてようやく、俺の指は鍵盤から離れた。


カップを受け取る時、指先がわずかに莉緒さんに触れる。

一瞬だけ通い合った体温の甘い余韻を、俺は大切に胸の奥へと飲み込んだ。


──けれど、本番まであと少しだ。

一口の紅茶で熱を帯びた喉を震わせ、俺はもう一度、深く息を吸う。


甘い空気はそこまでだ。

気持ちを切り替えるように鍵盤へ向き直ると、自然と表情が引き締まっていくのを感じた。


莉緒さんの期待、そして自分自身の誇りに応えるために。

俺は覚悟を込めて、一音一音を深く、鍵盤の奥へと沈めていった。


広間に反響する《愛の夢》が、二人だけの夜を優しく、濃密に包み込んでいった。




※長いので、少し微調整をして削りました。

(ポテンシャルの高い屋敷だな…と感じています)

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