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「必ず、クリーニングに出してから返すんだぞ!!」
「わかってるよ。汚さないように気を付けるから……で、その結婚式っていつだっけ?」
「来週末だよ! 間に合うように持って来いよ!」
そんな友人とのやり取りを思い出しながら、俺はクリーニング店の自動ドアを抜けた。
腕には、綺麗にプレスされ、ビニールのかかったスーツ。
朝一番にお願いして特急料金はかかったけれど、夕方には仕上がって助かった。
借り物はさっさと返すに限る。
俺はそのまま駅前の百貨店へと向かい、地下の食品売り場――いわゆるデパ地下に足を踏み入れた。
ただスーツを返すだけじゃ悪い。
何か菓子折りでも買っていこうと思ったのと……どうせなら、櫻井さんにも喜んでもらえそうなスイーツを探したかったからだ。
(……櫻井さん、何が好きかな。季節のフルーツとかが定番か?)
ショーケースに並ぶ色とりどりのケーキを眺めながら、俺の頭の中は、昨夜の彼女のことでいっぱいになっていた。
『私は、柏木さんを尊敬します。身体に気を付けて、頑張ってくださいね』
昨夜、レストランを出た後の公園。
音大を辞めた経緯を話した俺に、彼女は変に同情するでもなく、真っ直ぐな瞳でそう言ってくれた。
その言葉が、どれほど俺を救ってくれたか。
自分の選んだ道を「誇らしい」と思えたのは、退学してから初めてのことだった。
もう、これ以上ウジウジするのはやめだ。
「年下だから」なんて逃げ道を用意して及び腰になるのもやめる。
俺は、櫻井さんともっと深く関わりたい。
そんな俺の決意を後押しするように、さっき彼女からメッセージが届いたばかりだった。
『昨夜はありがとうございました。とても楽しかったです。もし柏木さんのご都合が良ければ、お会いしてお話ししたい事があります』
もちろん、即座に了承の返信をした。
このチャンスを逃すほど、俺は馬鹿じゃない。
……次はどこへエスコートしようか。
カフェの凄腕シェフが絶賛していた、あの隠れ家的なビストロなら間違いないはずだ。
彼女は、あの高級レストランの食事券を「譲ってもらった」と言っていた。
そんなコネクションを持つ年上の女性。
少し前までの俺なら、「釣り合わない」と端から諦めていただろう。
でも、実際の彼女は年上ぶることもなく、少し天然で、誰よりも優しい人だった。
待ち合わせ場所に現れた時の彼女の姿を思い出すだけで、今でも胸が早鐘を打つ。
ハイブランドの服でガチガチに固めてきたらどうしよう……なんて心配は杞憂だった。
ふんわりとしたワンピースに、ノーカラーのジャケット。
かっちりしすぎない絶妙な装いは、隣を歩く俺を萎縮させないための、彼女なりの気遣いだったのだと思う。
そして何より──彼女からふわりと漂う、雨上がりの花園のような、あの透明な香り。
「……ん?」
ふいに、鼻を突く強烈な匂いに現実に引き戻された。
隣の焼き菓子売り場から漂ってくる、むせ返るようなキツい香水。
食品を扱うフロアには不釣り合いすぎる人工的な匂いに、思わず顔をしかめて視線を向ける。
「……これで、良いんじゃない?」
「でもぉ、私の食べられないナッツが入ってるじゃない! やだぁ~!」
香水の出処は、男性の腕にべったりと絡みつく派手な女性客だった。
そして、その横で困ったように笑う長身の男を見て──俺は、息を呑んだ。
「んー、じゃあこっちで良いかな?」
「それなら、大丈夫そうね!」
男の顔も、その声も、見間違えるはずがない。
一年前、コンコースでピアノを弾く俺の視界の端に、いつも櫻井さんと寄り添って歩いていたあの男。
彼女をあんなに酷く泣かせた、元カレだ。
俺はショーケースの陰から、去っていく二人の後ろ姿を凝視した。
女の腰に回された男の手。その薬指には、はっきりと指輪が光っていた。
(……不倫、してたのか?)
櫻井さんが、相手が既婚者だと知って付き合っていたとは思えない。
あの時、酔っ払いから俺を庇おうとしたようなお人好しな彼女が、そんなドロドロした関係を望むはずがない。
だとしたら、彼女はずっと……この男に騙されていたのか?
脳裏をよぎった最悪の想像と、女が残していった強烈な香水の匂いが混ざり合い、俺は吐き気すら覚えていた。
***
「おう! 奏汰か。ディナーはどうだったんだよ? スーツのおかげで上手くいったんだろ?」
「……ああ、うん。貸してくれて助かった。これ、お礼の菓子」
「ん? なんだよ、なんか失敗でもしたのか? 暗い顔して…」
「いや、大丈夫だったと思うけど……」
友人のアパートに辿り着いた俺は、無理やり笑って見せた。
頭の中は、デパ地下で見たあの光景と、櫻井さんへの心配でぐちゃぐちゃだった。
「おっ! ちょうど甘いものが欲しかったんだよ。一緒に食おうぜ、上がれよ!」
招き入れられた部屋の中心にある机の上には、開かれたノートパソコンが鎮座していた。
「何か作業してたのか?」
「ああ、これな。コンクールの時の画像だよ。廊下のの掲示板へ貼るために、顔出しNGな子供に星型とか貼る加工をしてたんだ」
机の上に菓子折りを置きながら、何気なくディスプレイに目をやった俺の視線が、一枚の画像に釘付けになった。
「──おい。この男……誰だか知ってるか?」
「え? ああ、前に話した同じ音大出身の学年主任だよ。今は吹奏楽部の顧問やってる」
俺が指差した画像の中央。そこで指揮棒を振っているのは、間違いなく先ほどの『櫻井さんの元カレ』だった。
「……来週、教頭の娘と結婚するっていう、教員か?」
「そうだよ! なんだ、知ってたのか。なんでも、その娘さんが楽団でヴァイオリンを弾いていて、教頭のコネで見合い結婚らしいぜ!」
「……それで? 結婚したら、学年主任は嫁と一緒に、その楽団で活動するのか?」
「んー、そこまでは聞いてないけど……後々そうなるかもな。コネも大切な業界だし」
──経験者は語る、というやつか。
すべてが一本の線で繋がった瞬間、俺の腹の底でドス黒い怒りが沸き立った。
もしそれが本当なら、あの男は──櫻井さんとの未来ではなく、保身のための『コネと地位』を選んだことになる。
彼女を裏切り、音楽を金と人脈で買おうとした最低のクズだ。
「……俺からしたら、馬鹿なヤツにしか見えないな」
「辛辣だなー! まあ、俺もコネはないけど……実力で入団したいタイプだから、言いたい事はわかる」
「お前は、まだ諦めてないんだろ?」
「……飽きるまで、足掻くつもりではいるな!」
親友のあっけらかんとした言葉に、俺は小さく息を吐いた。
俺もこいつも、年齢的に考えが青いのかもしれない。
──でも、そうして元カレが手に入れた『立場の価値』とは一体何なのだろうか。
少なくとも、俺が心から大切にしたい女性の涙と引き換えにする価値はない。
(櫻井さんは……全て知ってるのか…?)
俺は、彼女からのメッセージを見返し、この事を話すべきかどうか悩んでいた。
そこまで、踏み込むほどの関係性には、まだ発展していないのが悔しくて堪らない。
──今夜の食事の席で、どんな顔をして会えば良いのか…分からなかった。
※楽団のコネとか…全て私の脚色です。
不快な思いを感じる方には、大変に申し訳ありません。
柏木くんの友人は臨時教員の設定です。




