表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/12



「必ず、クリーニングに出してから返すんだぞ!!」


「わかってるよ。汚さないように気を付けるから……で、その結婚式っていつだっけ?」


「来週末だよ! 間に合うように持って来いよ!」

 

そんな友人とのやり取りを思い出しながら、俺はクリーニング店の自動ドアを抜けた。


腕には、綺麗にプレスされ、ビニールのかかったスーツ。

朝一番にお願いして特急料金はかかったけれど、夕方には仕上がって助かった。

借り物はさっさと返すに限る。


俺はそのまま駅前の百貨店へと向かい、地下の食品売り場――いわゆるデパ地下に足を踏み入れた。


ただスーツを返すだけじゃ悪い。

何か菓子折りでも買っていこうと思ったのと……どうせなら、櫻井さんにも喜んでもらえそうなスイーツを探したかったからだ。


(……櫻井さん、何が好きかな。季節のフルーツとかが定番か?)


ショーケースに並ぶ色とりどりのケーキを眺めながら、俺の頭の中は、昨夜の彼女のことでいっぱいになっていた。


『私は、柏木さんを尊敬します。身体に気を付けて、頑張ってくださいね』


昨夜、レストランを出た後の公園。

音大を辞めた経緯を話した俺に、彼女は変に同情するでもなく、真っ直ぐな瞳でそう言ってくれた。


その言葉が、どれほど俺を救ってくれたか。

自分の選んだ道を「誇らしい」と思えたのは、退学してから初めてのことだった。


もう、これ以上ウジウジするのはやめだ。

「年下だから」なんて逃げ道を用意して及び腰になるのもやめる。


俺は、櫻井さんともっと深く関わりたい。


そんな俺の決意を後押しするように、さっき彼女からメッセージが届いたばかりだった。


『昨夜はありがとうございました。とても楽しかったです。もし柏木さんのご都合が良ければ、お会いしてお話ししたい事があります』


もちろん、即座に了承の返信をした。

このチャンスを逃すほど、俺は馬鹿じゃない。


……次はどこへエスコートしようか。

カフェの凄腕シェフが絶賛していた、あの隠れ家的なビストロなら間違いないはずだ。


彼女は、あの高級レストランの食事券を「譲ってもらった」と言っていた。

そんなコネクションを持つ年上の女性。

少し前までの俺なら、「釣り合わない」と端から諦めていただろう。


でも、実際の彼女は年上ぶることもなく、少し天然で、誰よりも優しい人だった。


待ち合わせ場所に現れた時の彼女の姿を思い出すだけで、今でも胸が早鐘を打つ。


ハイブランドの服でガチガチに固めてきたらどうしよう……なんて心配は杞憂だった。

ふんわりとしたワンピースに、ノーカラーのジャケット。

かっちりしすぎない絶妙な装いは、隣を歩く俺を萎縮させないための、彼女なりの気遣いだったのだと思う。


そして何より──彼女からふわりと漂う、雨上がりの花園のような、あの透明な香り。


「……ん?」


ふいに、鼻を突く強烈な匂いに現実に引き戻された。


隣の焼き菓子売り場から漂ってくる、むせ返るようなキツい香水。

食品を扱うフロアには不釣り合いすぎる人工的な匂いに、思わず顔をしかめて視線を向ける。


「……これで、良いんじゃない?」


「でもぉ、私の食べられないナッツが入ってるじゃない! やだぁ~!」


香水の出処は、男性の腕にべったりと絡みつく派手な女性客だった。


そして、その横で困ったように笑う長身の男を見て──俺は、息を呑んだ。


「んー、じゃあこっちで良いかな?」


「それなら、大丈夫そうね!」


男の顔も、その声も、見間違えるはずがない。

一年前、コンコースでピアノを弾く俺の視界の端に、いつも櫻井さんと寄り添って歩いていたあの男。

彼女をあんなに酷く泣かせた、元カレだ。


俺はショーケースの陰から、去っていく二人の後ろ姿を凝視した。


女の腰に回された男の手。その薬指には、はっきりと指輪が光っていた。


(……不倫、してたのか?)


櫻井さんが、相手が既婚者だと知って付き合っていたとは思えない。

あの時、酔っ払いから俺を庇おうとしたようなお人好しな彼女が、そんなドロドロした関係を望むはずがない。

だとしたら、彼女はずっと……この男に騙されていたのか?


脳裏をよぎった最悪の想像と、女が残していった強烈な香水の匂いが混ざり合い、俺は吐き気すら覚えていた。


***


「おう! 奏汰か。ディナーはどうだったんだよ? スーツのおかげで上手くいったんだろ?」


「……ああ、うん。貸してくれて助かった。これ、お礼の菓子」


「ん? なんだよ、なんか失敗でもしたのか? 暗い顔して…」


「いや、大丈夫だったと思うけど……」


友人のアパートに辿り着いた俺は、無理やり笑って見せた。


頭の中は、デパ地下で見たあの光景と、櫻井さんへの心配でぐちゃぐちゃだった。


「おっ! ちょうど甘いものが欲しかったんだよ。一緒に食おうぜ、上がれよ!」


招き入れられた部屋の中心にある机の上には、開かれたノートパソコンが鎮座していた。


「何か作業してたのか?」


「ああ、これな。コンクールの時の画像だよ。廊下のの掲示板へ貼るために、顔出しNGな子供に星型とか貼る加工をしてたんだ」

 

机の上に菓子折りを置きながら、何気なくディスプレイに目をやった俺の視線が、一枚の画像に釘付けになった。


「──おい。この男……誰だか知ってるか?」


「え? ああ、前に話した同じ音大出身の学年主任だよ。今は吹奏楽部の顧問やってる」


俺が指差した画像の中央。そこで指揮棒を振っているのは、間違いなく先ほどの『櫻井さんの元カレ』だった。


「……来週、教頭の娘と結婚するっていう、教員か?」


「そうだよ! なんだ、知ってたのか。なんでも、その娘さんが楽団でヴァイオリンを弾いていて、教頭のコネで見合い結婚らしいぜ!」


「……それで? 結婚したら、学年主任は嫁と一緒に、その楽団で活動するのか?」


「んー、そこまでは聞いてないけど……後々そうなるかもな。コネも大切な業界だし」


──経験者は語る、というやつか。

すべてが一本の線で繋がった瞬間、俺の腹の底でドス黒い怒りが沸き立った。


もしそれが本当なら、あの男は──櫻井さんとの未来ではなく、保身のための『コネと地位』を選んだことになる。

彼女を裏切り、音楽を金と人脈で買おうとした最低のクズだ。


「……俺からしたら、馬鹿なヤツにしか見えないな」


「辛辣だなー! まあ、俺もコネはないけど……実力で入団したいタイプだから、言いたい事はわかる」


「お前は、まだ諦めてないんだろ?」


「……飽きるまで、足掻くつもりではいるな!」


親友のあっけらかんとした言葉に、俺は小さく息を吐いた。

俺もこいつも、年齢的に考えが青いのかもしれない。


──でも、そうして元カレが手に入れた『立場の価値』とは一体何なのだろうか。

少なくとも、俺が心から大切にしたい女性の涙と引き換えにする価値はない。


(櫻井さんは……全て知ってるのか…?)


俺は、彼女からのメッセージを見返し、この事を話すべきかどうか悩んでいた。

そこまで、踏み込むほどの関係性には、まだ発展していないのが悔しくて堪らない。


──今夜の食事の席で、どんな顔をして会えば良いのか…分からなかった。





※楽団のコネとか…全て私の脚色です。

不快な思いを感じる方には、大変に申し訳ありません。

柏木くんの友人は臨時教員の設定です。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ