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私が急いで売り場へと駆けつけると、新人スタッフが涙目で例の女性客に応対しているところだった。


「お待たせして申し訳ありません。店長の櫻井と申します。担当を交代させていただきますね」


私は彼女の前に進み出ると、素早く新人スタッフにショップの奥へ下がるように促した。


「申し訳ございません。もう一度、こちらの香りをお試しいただけますか?」


「またぁ~!? いい加減、鼻がおかしくなっちゃうわよ!」


ふてぶてしく椅子に反り返り、こちらを睥睨する女性。

彼女の目の前には、すでに十種類近いムエットが散乱している。

これだけ嗅げば嗅覚も疲労するはずだが、彼女に帰る素振りはない。


「……では、一度こちらでリセットしてからお願いいたします」

私は麻痺した嗅覚を休ませるための、コーヒー豆が入った小瓶を差し出した。


「もう、いいわよ! 本当に使えない店長ね!」


いきなり手を払いのけられ、私の手から滑り落ちたガラス瓶が、カウンターにぶつかって床へ転がった。


「やだぁ! 豆が散らばってるじゃない! 早く掃除してよ!」


「申し訳ございません。お怪我はありませんか?」


幸い瓶は割れなかったものの、床にはコーヒー豆が散乱してしまった。

私が拾い集めようと身を屈めた、その時だった。


「──これは、一体どうしたんだい?」

静かな、けれどよく通る声がショップの入り口から響いた。


顔を上げると、如月オーナーが立っている。

その後ろには、白杖をついた晃希さんの姿もあった。


「私が、コーヒー豆の瓶をお渡しする際に粗相をしてしまいまして……」

慌てて状況を説明しようとする私を遮り、如月オーナーは女性客へと歩み寄った。


「それは、うちの者が大変ご迷惑をお掛けしました」


スマートに一礼したオーナーは、他のスタッフに床の掃除を指示すると、「こちらへどうぞ」と女性客を奥の『予約席』へと案内した。


そこは本来、専属調香師である晃希さんが、顧客のカウンセリングを行うための特別な席だ。


オーナーの甥である彼に「専用の個室を」という打診もあったが、本人は『調香師として仕事ができるだけで十分恵まれています』と固辞したのだ。


その高潔な姿勢に敬意を表し、せめてもの配慮として用意されたのが、あのカウンターの奥まった席だった。


「わぁ! この席、座りたかったのよねぇ!」


「おや、そうでしたか。あいにくと専属の調香師が多忙でして、新規のご予約はお断りしていたものですから」


「そうよ! 何度、問い合わせても断られるんだから!」


この女性は、この席に座るというステータスを満たすために、何度も店を訪れては腹を立てていたのだ。


晃希さんの調香する香水は、今や完全オーダーメイドでしか手に入らない。


視覚を持たない彼が、神経を研ぎ澄ませて作る香水は、既存の顧客に届けるだけで手一杯なのだ。

とてもではないが、この女性に案内できる席ではない。


「本日は折よく、その専属調香師が店におります。……よろしければ、香りをお試しになりませんか?」


「本当に!? 是非お願いするわ!!」

オーナーの提案に、女性客は機嫌を良くして頷いた。


いつのまにかカウンターの向こう側に立っていた晃希さんは、心得たように薄く微笑むと、見慣れないデザインの香水瓶を取り出した。


「……こちらの香りは、いかがでしょうか? 偶然出来上がったものでして、どなたも所有していない特別な香りです」


「へぇ……? 今までに嗅いだことがない、不思議な香りね」


「そうでしょう。特殊な香料を使用しておりますので、残念ながら二度とご用意することはできません。……よろしければ本日のお詫びとして、こちらを納めていただけますと幸いです」


代金は頂戴しない、という晃希さんの言葉に、女性客は小躍りしながら香水を受け取り、嵐のようにショップを去っていった。


騒ぎを見ていた他のお客様には、オーナーの計らいで当店の人気商品であるサンプルの詰め合わせが配られ、事態は穏便に収束した。


***


「オーナー、晃希さん。本当にありがとうございました。私一人の力では、他のお客様にもご迷惑をおかけするところでした……」


──閉店後の応接室。

私はソファーに腰掛ける二人へと、同席してくれた新人スタッフと共に深く頭を下げた。


「いや、気にしなくていいよ。それより疲れただろう? 聞いていた以上に、鼻持ちならない女性だったね」


「……聞いていた、とは?」


「櫻井店長以外の、店員みんなからだよ。君は私が忙しいと思って、余計な心配をかけまいと一人で抱え込んでいたんだろう?」


隣で新人さんが、バツの悪そうな顔をした。


……どうやら、あの女性客の応対に苦心する私を見かねて、スタッフ全員がオーナーに相談してくれていたらしい。

今日、絶妙なタイミングで二人が現れたのも、服のアドバイスをくれたあの彼女が、裏でこっそり連絡を入れてくれたおかげだったのだ。


「……それを含めても、私の不甲斐なさです。いかようにも処断してください」


「櫻井店長。……もう少し、僕らを頼ってください。そうでないと、こちらも貴女に頼れないじゃないですか」


晃希さんが、いつもの優しい微笑みを浮かべる。


「このショップを君に預けて、甥の結婚式の準備にかまけていられるのは、櫻井店長がいてくれるからなんだよ」


「本当にその通りです。叔父さんは僕より浮かれていて、困ったものです」


「お前がしっかり手配しないから、咲花さんに負担がかかるんだろうが!」


軽口を叩き合う二人を見て、私はようやく肩の力を抜いた。


本当に、このショップで働くことができて幸せだ。

スタッフ全員への感謝を胸に刻みながら、私はふと気になっていたことを尋ねた。


「ところで、晃希さん。……最後、あの女性に何を伝えていたんですか?」


声が小さくて聞こえなかった部分だ。


「ああ、あれですか…」


晃希さんが、蠱惑的こわくてきな笑みを浮かべた。

普段は穏やかな彼だが、付き合いが長くなると、その奥に仄暗い策士の顔が隠れていることに気づく。


純粋な新人スタッフは、その笑顔に見惚れているが、私は背筋が少しだけ冷たくなるのを感じた。

最近の彼は、婚約者の咲花さんと出会ってから、さらに表情が豊か(そして黒く)なった気がする。


「あの試作品を差し上げる代わりに、今日の事は不問にするというお約束と……誰から『予約席』の事を聞いたのかを、伺っていたんですよ」


「どなただったんですか?」


「北條様、だそうです」


北條様といえば、当店の大切な顧客の一人だ。


「なんでも、楽団のコンサートでお会いした際に、僕が調香した香水をお守りのように使っていると聞いて、どうしてもステータスとして入手したくなったそうですよ」


「なるほど……。でも、晃希さん。あんな見慣れない香水、いつの間に作ったんですか?」


「あれは、ある方の依頼で調香した際の『失敗作』なんですよ。だから瓶も、正規品とは違うデザインのものを使いました」


「失敗作、ですか…」


「ええ。……実はあの香水、人肌で温められると香りが劇的に変化するんです」


「どう、変化するんですか?」


「イメージとしては……『日向ぼっこした後の猫』から、『雨にずぶ濡れた猫』の匂い、ですかね」


「……はい?」


「少し魔が差して遊んでみたんですが、シュールすぎてボツにしました。彼女は強めの香水で嗅覚が麻痺しているようですから、気にせず付けるかもしれませんが……周りの反応はどうでしょうね?」


くすくすと笑う晃希さんが怖い。

絶対に、その酷い香りの変化で彼女が赤っ恥をかくことまで計算して渡している。

しかも「試作品」「非売品」「瓶のデザインも違う」と、後からクレームをつけられないよう、ぐうの音も出ないほど完璧に先手を打っているのだ。

袋まで、当店のロゴが入っていない持参したものを使うという念の入れよう。


「用意周到すぎて怖いです……。咲花さんが心配になってきました」


「心外ですね。僕はただ、店長やうちのスタッフを困らせる虫を払っただけですよ」


調香師としては尊敬するが、絶対に敵に回してはいけない人だ。

私が心の中で戦慄していると、晃希さんがふと思い出したように顔を向けた。


「そういえば櫻井店長。確か……彼氏さんは、音大出身でしたよね? ピアノ、弾けたりしませんか?」


「えっ? ……どうしてですか?」


「僕たちの披露宴の伴奏を、お願いできないかと思いまして」


思いがけない提案に、私は目を瞬かせた。


晃希さんの知る、その彼とは「別れてるので元彼なんです」と訂正すべきか迷ったが……。

今回の件で多大な恩を受けてしまった以上、無下に断ることはできない。

幸いにも、今は、柏木くんというピアニストとの繋がりがある。


「……少しだけ、待ってもらえませんか? 直接、本人に確認してみます」


──柏木くんに、この話を持ちかけてみよう。

彼なら…きっと、元彼にも負けない腕を持つピアニストだと思う。


私は、彼の長く美しい指先が、再び鍵盤の上で踊る姿を密かに想像していた。

その想像が、思いのほか胸を温かくしたことに、自分でも少し驚いていた。



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