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休憩室のソファに沈み込みながら、私はふと、昨夜の非日常的な余韻を思い返していた。

 

如月オーナーから譲っていただいた食事券は、想像以上に高級なレストランのものだった。

代金を支払おうとした私に、オーナーは「お金なんていいから、プロの視点で香りと空間の感想を聞かせてよ」と笑ってウインクしたのだ。


結局、私はその言葉に甘えるしかなかった。


(……それにしても、柏木くん。二日酔いとか大丈夫かな)


帰り際の公園で、彼は深々と頭を下げていた。

『お手数お掛けしてすみませんでした』と恐縮しきりの彼に、これ以上踏み込むのは野暮だろう。

そう思って無難にお礼を伝えたはずだったのに、なぜかそこから、不器用な恋愛相談のようなものを持ちかけられてしまった。


『……何か……違う!』

 

頭を抱えて唸っていた彼には申し訳ないけれど、五年も付き合った恋人に振られたばかりの私に、まともなアドバイスができるはずもない。


ただ──。

駅前で待ち合わせた時の彼の姿は、私の心を少しだけざわつかせた。


いつも、彼の表情を覆い隠しているキャップも無くて…初めて見る端正な顔立ち。

綺麗に整えられた短い髪から覗く涼やかな目元と、すっと通った鼻梁。

キュッと結ばれた唇は、カサつくことなく健康的なピンク色をしていた。


(……若いって、いいな。何もしなくても、あんなに潤っているんだから)


少しズレた感心を抱いてしまうほど、借り物のスーツを纏った彼は、思わず目を奪われるほど整った顔立ちをしていた。


隣を歩くのが恐れ多くて逃げ出したくなったけれど、付き添いの責任感だけでなんとか店まで辿り着いたのだった。


『櫻井さんの、今日の装いも素敵ですね!』


『……ありがとうございます。柏木くんも、素敵ですよ』

彼に褒められ、私は心の中で同僚の女性スタッフに手を合わせた。


── 先日、服選びに迷走した私は、彼と同年代の彼女に泣きついていたのだ。


『櫻井店長が本気の正装で現れたら、お相手の目が釘付けになって、ご飯が喉を通りませんよ!』という、私をなんだと思っているのか分からないアドバイスのおかげで、昨夜は「カジュアルすぎない抜け感」を意識できた。


別れた彼と食事をする時は、こんなふうに悩んだりしなかった。

場に合った装いさえしていれば、彼は私の服に何か言うこともなく、私もそれで十分だと思っていたはずなのに。


目が合って、微笑みながら食事をする──そんな穏やかな時間を過ごしたのは、本当に久しぶりだった。


──昨夜は…食事中に記憶の中の元カレと、目の前で優しく微笑む柏木くんが交差するのを何度も感じた。


ふいに、店内に流れるピアノの生演奏が変わった瞬間。


『……この曲』


『シューマンの《トロイメライ》ですね』

思わず呟いた私に、彼がさらりと曲名を被せた。


……間違いない。

一年ほど前から、別れた彼が憑かれたように弾くようになった曲だと思った。


それにしても、まさか柏木くんがあの時の『ピアノの青年』だったなんて。


運悪く酔っ払いに絡まれていた彼を、向こう見ずな私が割り入ってしまったあの日。

後になって、別れた彼に「危ないよ」と本気で怒られたことを思い出す。


(彼と同じ音大だったなんて。……どうりで、あんなに上手いわけだよね)


彼は見た目以上に落ち着いた声で、音大を中退した経緯を話してくれた。

辛い決断だったはずなのに、一切の湿っぽさを感じさせない。


『実はこのスーツ、友人の借り物なんですけど……俺の方が似合ってると思いません?』


公園のベンチで立ち上がり、くるりと回っておどけてみせた彼。

その飾らない人柄に、私はふっと肩の力が抜けるのを感じた。


『比べてないから分かりませんが。……多分、あの店で一番格好良かったと思いますよ』


『……えっ? 櫻井さん……天然……?』


目を丸くした彼に、私は首を傾げた。


……なぜだろう。

どうやら私は、あのくらいの子たちから『希少生物』のような扱いを受けてしまうらしいのだ。


***


「……櫻井店長、休憩中に申し訳ありません。少し、よろしいですか?」

 

ノックの音と共に顔を出した同僚の表情を見て、私は瞬時に思考を現実に引き戻した。


「大丈夫ですよ。どうされました?」


「実は……例のお客様がご来店されているのですが、新人に絡んでいまして」

彼女の言葉に、小さく息を吐く。


半年ほど前から、この店へ頻繁に現れる女性客がいた。

彼女はいつも、百貨店で売られているような豪奢で自己主張の強い香水をたっぷりと纏い、カウンセリングの度に無理難題を吹っ掛けてくる。


『もっと私の魅力を引き上げるような、鮮烈で印象に残る香りを出しなさいよ!』と。


私たちが扱うのは、天然の香油や蒸留水をベースにした、肌に寄り添うような香りだ。

彼女が求めるような『強さ』を押し出すものは置いていないし、そもそも、今あなたが纏っているその香水で充分ではないか──と、心の中で何度思ったことか。


「わかりました。私が応対します」


私はソファから立ち上がると、緩めていた首元のスカーフをキュッと締め直した。


どんな理由があろうと、この店を預かる店長として、目の前のお客様には誠心誠意向き合うだけだ。


鏡の前で一度だけ完璧な作り笑いを確認し、私は騒ぎの起きている販売フロアへと足早に向かった。



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