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─カフェの定休日。

奏汰は音大時代の友人のアパートに押し掛けていた。


「頼む! スーツを貸してくれ。お前ならサイズ、合うと思うんだ!」


「……奏汰。いきなり退学したかと思えば、音沙汰なしで。急に現れたと思ったらスーツ貸せって、お前な……」


返す言葉もなかった。

逃げるように大学を去り、友人たちの前から姿を消したのは自分だ。


「……ごめん。言い出せなくて、顔見せられなかった」


「……まあ、事情は聞いてるよ。ツラかったよな」


父の急病と、かさむ治療費。

泣きながら「学費が払えない」と謝る母の姿を見た時、奏汰の音楽への道は、音を立てて崩れ落ちた。

母に謝らせてまで、自分の夢に固執することはできなかったのだ。


今はカフェの給料から、僅かながら実家へ仕送りを続けている。


「卒業できてたとしても、音楽で食えたとは限らないしな。……もう、いいんだ」


「……そうだな。俺も結局、教員採用試験の勉強中だし」


楽団入りを夢見ていた友人の言葉に、俺は静かに頷いた。

夢を諦めたのは、自分だけではない。

 

「で、なんでスーツなんだよ。カフェの店員だろ?」


「……諸事情、あって」


「……お前、また年上の女性だろ。いくつ上だよ?」


「お前……そういうとこだけは、恐ろしく鋭いな!」


俺の恋愛事情を本人以上に察知するコイツは、呆れながらもクローゼットを開けた。


「まだそんなんじゃない。多分、元カレと別れたばっかりの人だし…」


「チャンスじゃねーか! 押せよ!」


──チャンス、だろうか。

無責任な友人の言葉に、俺は苦笑いを返すことしかできなかった。


コンコースでピアノを弾く俺の頭の端には、いつだって彼女がいた。

一年前、彼女があの男性の隣を歩いていた頃から…俺は彼女の姿を見るより先に、その香りで彼女の訪れを察知していたのだ。

 

けれど、いつからだろう。二人の足音が並んで響かなくなり、あの香りが、一人分の寂しい気配と共に通り過ぎるようになったのは…。


だからこそ、あの日の夜に彼女が立ち止まって涙をこぼした姿は、あまりにも衝撃的だった。

……別れ話の後だったのかもしれない。


無意識に泣き出してしまうほど、彼女はあの男性を愛していたんだろうか。

そう思うと、胸の奥がチリリと焼けるような、嫌な痛みが走った。


「そうだ、これ貸してやるよ。 実はさ、音大の先輩で今は学年主任やってる人がいるんだけど…今度、教頭の娘さんと結婚することになってさぁ〜!」


「……へぇ。めでたいな?」


「その結婚式用に新調したばっかりのスーツなんだよ。お前に貸して、めでたい席の運を分けてやるよ!」


「……そっか。ありがとな、助かる!」


友人の厚意を丁重に受け取り、奏汰は決戦の場へと向かう準備を整えた。


***


「……これは、どうやって食べるのが正解でしょうか…?」


テーブルに運ばれてきたのは、立派な手長海老の料理。

借り物のスーツに身を包んだ奏汰は、緊張で背中を丸めていた。


「これは、海老の頭をこうしてナイフで押さえて……殻をゆっくり剥がすと綺麗に取れますよ」


櫻井さんは、流れるような所作で手本を見せてくれる。

手首の返しひとつに、長年の接客で磨かれた優雅さが滲んでいて…。

高級店の重厚な空気感に気後れすることなく、凛と背筋を伸ばした彼女が、今は頼もしくて仕方がなかった。


店内にはピアノの生演奏が流れ、贅沢な時間が過ぎていく。


──ふと、耳に届く旋律が変わった。


柔らかく、けれどどこか物悲しく跳ねるような、高音の響き。

鍵盤を撫でるようなピアニッシモが、レストランの重厚な空気を優しく震わせる。


(……この曲)


指先が、無意識にテーブルの下で動いた。

鍵盤の感触が、幻のように指に蘇る。

楽譜の隅々まで体に染み込んでいる、あまりにも有名な夢の断片。


「シューマンの《トロイメライ》ですね…」


「さすが、詳しいですね。……別れた人が、よく弾いてたんです」


「……あの、背の高い眼鏡の男性、ですよね」


櫻井さんの手が、ぴたりと止まった。


「……どうして、彼のこと、知ってるんですか?」


俺は、デザートと共に運ばれてきたコーヒーに、そっと手を伸ばした…。

駅のストリートピアノでの出会いから、二人が寄り添って歩く姿を見かけなくなったことまで、静かに言葉を紡ぐ。


「……柏木さん、意地悪じゃないですか? 全部知ってて……この食事は、答え合わせが目的だったんですか?」

櫻井さんの声から色が消え、テーブルの上が急に冷え込む。


俺は、慌てて首を振った。


「全部なんて…知りません! 櫻井さんのこと、俺は……年齢すら知りませんから!」


「……女性に年齢を尋ねるのは、マナー違反ですよ?」


「すみません……。俺、自分が頼りないから、つい気にしてしまうんです」


「……別に、頼りなくたって。お互いに尊敬できるところがあれば、それで良いと思いますよ」


「本当……に、そう思いますか?」

期待で胸が跳ねた。

だが、続く彼女の言葉が、俺の淡い期待を優しく、無慈悲に粉砕した。


「はい。私は友人としてなら、年の差なんて気にしませんよ」


「……友人、として……」

俺は続く言葉を失った。

櫻井さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。


「柏木さん? 大丈夫ですか?」


「……大丈夫です。久しぶりにお酒を頂いたので、少し……酔ったみたいです。外の空気を吸いたいかも、です……」


──確信した。

彼女にとって、自分はまだ「男」のカテゴリにすら入っていないのだと。


***


レストランを出て、近くの公園のベンチに座る。

櫻井さんは自販機で買った水を俺に手渡してくれた。


「……柏木さん、お互い様なんですから、気にしないでくださいね。私も、あの時に助けてもらいましたし」


「……え?」


「肩をポンって、慰めてくれたでしょう? ティッシュも、あの夜の思い出が『悲しい別れ』だけで終わらなかったのは、貴方のおかげなんです。……本当に、救われたんですよ」


夜風に髪を揺らしながら微笑む彼女は、この世の何よりも綺麗だった。


──元カレは馬鹿だ。

俺だったら、絶対にあんな風に泣かせたりしない。

絶対に、別れたりしない。


「……あの、突然ですけど。……年下と付き合うのって、アリですか?」

意識してもらいたい。

その一心で放った直球だった。だが ──。


「年上の女性って……私のことじゃないですよね?あ、……なるほど!柏木さんの好きな女性が、年上なんですね! だから今日は、私を練習台に選んだんですか…。納得しました!」

櫻井さんは、ぽんと手を打って満足げに笑った。

 

「……櫻井さん」


「なんですか?」


「…………元カレさんの気持ちが、ほんの少しだけ分かりました」

この人は、肝心なところがズレている。


この無意識な「天然」に、あいつは振り回されていたのかもしれない。


──柏木 奏汰、二十四歳。

前途多難な恋は、まだスタートラインにすら立てていなかった。



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