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最後の和音が夜のコンコースに溶けていくのを見計らい、私は彼に向かって一歩を踏み出した。
「……あの、突然すみません。 先日は、ありがとうございました」
いきなりすぎただろうか。
ピアノの椅子から振り返った男性は、ひどく驚いたように辺りを見回し、それから信じられないものを見るように私へ視線を戻した。
「……いえ、こちらこそ。突然声を掛けてしまって……」
キャップの鍔の下から覗く、切れ長の涼やかな目元。
やはり、見た目の若さよりもずっと落ち着いた、耳に心地よい声をしている。
「正直、助かりました。自分でも無意識に泣いていたようで……いい大人が恥ずかしい所をお見せして、すみませんでした。これ、よかったら使ってください。この近くの店なんですけど……美味しいと思います」
バッグから取り出した、手触りの良い上質な封筒を差し出す。
男性は戸惑いながらそれを受け取ると、中身を確認して息を呑んだ。
「っ、こんな高級な店の券なんて、受け取れません!」
この店の価値が一瞬で分かるとは、食に明るい人なのだろうか。
これは、如月オーナーにお願いして手に入れた、星付きレストランのペアディナー券。
一般には販売すらされていない、上客のための特別なチケットだ。
「納めていただけると、私も気が楽になるので……遠慮しないでください。 美味しい物は、分かち合う相手がいた方が良いですから」
「……ピアノ、お好きなんですか?」
「……え?」
唐突な質問に、私は目を瞬かせた。
「いつも、最後まで聴いてくれてたので……」
「……弾いている時に、私のことを認識できていたのですか?」
私は、他の観客よりも浮いていたのだろうか。
焦る私を見て、彼は慌てたように両手を振った。
「っ、引かないで欲しいんですが……いや、無理なのかな。……あの、貴女から、いつも凄く良い香りがするので……香りで認識してました。……気持ち悪くて、すみません!」
男性は顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに口元を手で覆い、俯いてしまった。
その必死な様子がおかしくて、私は思わずふふっと微笑んだ。
「ああ、なるほど。私はフレグランスショップで働いているので、多分、店の香りが移っているんだと思います」
「……どうりで! 何とも形容しがたい、複雑で良い香りだと思ってました!」
理由が解って安心したのか、彼がパッと顔を上げて笑う。
目深にかぶっていたキャップの影から、少年のように無邪気な笑顔が覗く。
おそらく二十代半ばくらいだろうか。
ピアノを弾いている時の影のある雰囲気とは違う、そのあまりの落差に、私は一瞬だけ心拍数が上がるのを感じた。
──なんだ、普通に笑うとこんなに可愛らしい人だったのか。
すっかり毒気を抜かれた私は、心からのエールを込めて言葉を紡いだ。
「いつも、素敵な演奏を聴かせていただいてます。……これからも、頑張ってくださいね!」
──その瞬間だった。
彼の目から、ふっと光が失われた。
「……ありがとうございます……」
まるで、無理やり喉の奥から絞り出したような、乾いた声。
さっきまでの穏やかな空気が一変し、見えない壁が降りたような錯覚を覚える。
「あの……私、何か失礼なことを言ってしまいましたか?」
しまった、と思いながら尋ねると、彼はハッとして首を横に振った。
そして、手元の封筒と私を交互に見つめ、何かを決意したように口を開く。
「……よかったら、この券。……ご一緒していただけませんか?」
「えっ? それは……」
「こんな高級な店へ入った事がないので……マナーとか心配で! ご厚意を無下にするのも勿体ないですし……ダメ、ですか?」
上目遣いに、けれど必死に訴えてくる彼の瞳に、私は毒気を抜かれてしまった。
断れないやつだ、これは。……完全に自業自得である。
「……わかりました。ご案内します。ただ、あの店はドレスコードがあるので、今すぐというわけにはいきませんが……」
「本当ですか!?……あ、ドレスコード。 そうですよね、こんな格好じゃつまみ出されますよね」
彼は自分の服を見下ろして、がっくりと肩を落とした。
その大げさな落ち込み方に、つい笑みがこぼれてしまう。
「あ、あの! じゃあ、その、日取りとか相談したいので……」
彼はポケットをごそごそと探り、使い古されたスマホを取り出した。
差し出された画面には、メッセージアプリのQRコードが表示されている。
画面に表示された『Kashiwagi』というシンプルなアイコン。
それを見つめている間、コンコースの喧騒が遠のき、自分の心拍音だけが耳に響いた。
「……ええ。そうですね」
私も、おずおずと自分のスマホを取り出し、コードを読み取ろうとした…。
照明の光に照らされた彼の指先が、視界に入る。
ピアニスト特有の、節だちの少ない、すらりと長い指。
鍵盤の上ではあんなに力強く、繊細に踊っていたその指先が、今は私のQRコードを読み取ろうとして、小刻みに震えていた。
(……そんなに、緊張してるの?)
その震えが私に向けられたものだと気づいた瞬間、私の心臓まで、共鳴するようにトクンと跳ねた。
「……っ、すみません。なんか、上手くピントが合わなくて」
彼は照れ隠しのように、キャップの上から後頭部をガシガシと掻いた。
耳の先まで真っ赤にしながら、ようやく登録を終えた彼は、自分のスマホを宝物でも握るように胸元に引き寄せた。
「追加……しました。櫻井、です」
「ありがとうございます……。あ、あの! 櫻井さん、もし……もしやっぱり無理だなって思ったら、当日の連絡で断ってくださっても全然大丈夫ですから。俺みたいなのと食事なんて、その、迷惑じゃないかって……」
俯いたせいで、キャップの鍔が彼の表情を隠してしまう。
けれど、その長い指がスマホの角をぎゅっと握りしめているのを見て、私はたまらず口を開いた。
「カシワギくん」
思わずその名前を呼ぶと、彼は弾かれたように顔を上げた。
「迷惑だなんて思ってません。……楽しみにしてますね」
私は逃げるように背を向け、改札へと歩き出した。
背後で、彼が「はいっ!」と、子供のような返事をするのが聞こえた。
結局、ドレスコードの確認などのために日を改めることになり、私たちは連絡先まで交換してしまった。
(お礼のつもりだったのに、私が付き添うの……?)
混乱する私へと畳み掛けるように、手元の振動が着信を告げた。
『柏木です。 櫻井さん、当日を楽しみにしています!』
スマホの画面には、彼──柏木君からの律儀なメッセージ。
目に光が戻り、嬉しそうに別れ際にお辞儀をした彼の姿を思い出す。
予期せぬ展開の連続に、私はこの奇妙な縁にどこまで流されてしまうのか…少しの怖さと同じくらい、胸の奥が静かに温かかった。




