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「いらっしゃいませ。二名様でしょうか?」

淀みのない声で、俺は来店した客をテーブルへと導く。


音大を中退し、学業に消えるはずだった時間は、このカフェのランチタイムを回すための労働力に姿を変えていた。


──働き始めて一年。

元々バイトをしていた縁で、退学後の滑り込み先として拾ってもらえたのは幸運だったと思う。


たとえ、すべてを捧げて音大を卒業したとしても、音楽で食べていける保証なんてどこにもない。


ほんの一握りの天才以外は、現実という壁を前に名前のないフリーターへと摩耗していくのが関の山だ。


(……そんな未来、耐えられそうになかったから)


逃げるように鍵盤から指を離した俺は、メニュー表を手にテーブルの前に立っている。


「本日のランチメニューは、こちらです。お決まりになりましたら、お知らせください」


街のメインストリートに面したこのカフェは、少し背伸びをした価格設定のせいか、流れる空気もどこか澄ましている。


ピアノの打鍵音ではなく、カトラリーが触れ合う乾いた高い金属音と、コーヒー豆を挽く芳ばしい香りに包まれる日々。

それが今の俺の、音楽を捨てて手に入れた居場所だった。


夢を諦めた、なんて悲劇の主人公を演じる余裕はない。


押し寄せるランチタイムの喧騒を、無心で捌き続ける。

忙しさに身を任せている間だけは、昨夜の失態を忘れられる気がした。


──けれど、ようやく店に『準備中』の看板を出し、賄いのパスタを前にした途端、またあの香りが鼻先をかすめたような気がして手が止まる。


(……やらかした。 絶対、変な奴だと思われた)


賄いのパスタを口に運びながら、俺は心の中で何度目かわからない溜息をつく。


あの駅のピアノで《月の光》を弾いている時、すぐ傍に彼女が立っていることには気づいていた。


常に『良い香り』を纏っている女性。

いつからか、俺が弾き始めると必ず足を止め、最後まで聴いて静かに拍手を贈ってくれる人。


昨夜、彼女は泣いていた。


驚きと、それ以上に「どうにかしなきゃ」という焦りが勝って、気づけばティッシュを差し出し、あろうことかその肩に触れてしまった。


『……じゃあ、また』


別れ際、自分でも驚くほど落ち着いた声でそう告げたけれど、中身はパニックの極致だった。


「また」ってなんだよ。

何様のつもりだ、俺。


『慰めたかっただけなんです、ストーカーじゃないんです』って、今さら看板でも掲げたい気分だ。


***


思えば、あの駅のピアノが俺の「止まった時間」を動かしてくれたのだ。


音大を辞め、逃げるようにこのカフェへの就職を決めた帰り道。

もう二度と鍵盤には触れないと決めていたのに、吸い寄せられるようにピアノの前に座ってしまった。


──その時、泥酔した男が絡んできた。


「おい、もっと景気のいい曲を弾けよ! そんな葬式みたいな曲、聴きたくねえんだよ!」

男の酒臭い息が顔にかかる。


言い返す気力もなく、俺が黙って立ち去ろうとした、その時だった。


「このピアノで、何を弾くかは自由のはずです。 そこにある案内板、読めませんか?」

凛とした、涼やかな声。


驚いて顔を上げると、そこには一人の女性が立っていた。


背筋をぴんと伸ばし、困惑する酔客を真っ向から見据える彼女からは、ふわりと──まるで春の朝の庭園を凝縮したような、多層的で気品のある香りが漂ってきた。


「……ありがとうございます。 ご迷惑をおかけしました」


「いいえ、気にしないで下さい。 素敵な演奏だったんですから! ねえ?」

彼女が隣の男性に同意を求めると、眼鏡をかけた長身の連れは「そうだね」と短く頷いた。


だが、俺はその男性の瞳を見て、奇妙な既視感を覚えた。

眼鏡の奥に潜む、虚無を抱えたような瞳。

それは、夢を諦めた時の俺の目と同じだった。


男性が交代するようにピアノの前に座り、《ラ・カンパネラ》を弾き始める。

超絶技巧で知られる難曲だ。


けれど、彼の打鍵には「音楽」がなかった。

……正確、無比。

だがそれゆえに、弾いている本人が一番苦痛を感じているような、冷え切った旋律。


あんなに豊かな香りを纏う彼女の隣で、彼はなぜ、これほどまでに色のない音を出すのだろう。


それからの一年、俺は仕事上がりに時折ピアノを弾きに通った。

彼女が通りかかることを、心のどこかで期待しながら。

 

──あの日から、彼女の香りを思い出すたびに鍵盤に触れたくなった。


彼女はいつも、俺のクラシック音楽を最後まで聴いて、控えめな拍手を贈ってくれる。


流行の曲も歌謡曲も弾かない、自己満足な演奏だ。

立ち止まる人など、ほとんどいない。

それでも彼女だけは、立ち止まってくれた。


「……彼氏さんが、音楽関係の人なんだろうな」


時折、彼女が例の眼鏡の男性と寄り添って改札へと消えていくのを見て、俺は勝手に納得していた。


──だからこそ、昨夜の彼女の姿は衝撃だった。


あの凛としていた女性が、ただ一人、崩れ落ちるように泣いていた。


その痛々しさに、気づけば体が動いていた。

けれど、今思い返すと自分の無作法さに顔から火が出そうになる。


(……ティッシュまでは、まだ良かった。 ギリギリ、親切な通りすがりで済んだはずだ。 だけど、あの肩に触れたのは……絶対やり過ぎた!)


励ますつもりだったなんて、今さら誰が信じてくれる。

慣れない「格好付け」の代償は重い。


もし、彼女が怖がっていたら。 もう二度と、あのピアノの前に現れてくれなくなったら──。


賄いのパスタは、いつの間にか、すっかり冷めきっていた。


「いや、ストーカーどころか、ただの自意識過剰だろ、俺……」


そんな苦い自嘲を、俺は無理やり、冷えたパスタと一緒に飲み込んだ。


どうか、彼女がまたいつものように、穏やかな顔でピアノの前に現れてくれますように。


喉の奥に詰まったような重たい祈りを抱えたまま、俺は空になった皿を片付けに席を立った。



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