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12《番外編》



夜の帳が下りる頃、俺は仕立てのいいジャケットを羽織り、レストランのグランドピアノに向かう。


店内に食器が触れ合う柔らかな音や、お客様たちの穏やかな話し声が漂う。

その空気の中で鍵盤に指を落とすと、旋律はその日の雰囲気に自然と溶けていく。


時には、お客様の思い出の曲を。

時には、祝福の和音を添えて。


それが終われば、今度はフロアへと足を踏み出す。

料理の熱気と芳醇なワインの香りが交差する中を、ウェイターとして忙しなく立ち回るのだ。


胸元には、苦労の末にもぎ取った「ソムリエ」の葡萄のバッジが、店の照明を受けて誇らしげに光っている。

カフェでのアルバイトから始まり、今ではここで専属ピアニスト兼ソムリエとして、確かな居場所を得ることができた。


こんな満ち足りた日々を送れているのは、すべて莉緒のおかげだと言っても過言ではない。


──少し前のこと。

実家から、入院していた父親の病状が回復に向かっていると連絡が入った。

父が急に倒れた時、会社の経営はすでに嫁いでいた姉の細い肩に重く伸し掛かっていた。


実家がそれほど盛況な問屋ではないことなど、薄々分かっていたはずだった。

だからこそ両親は、俺たち姉弟には会社を継がせず、自分たちの代で綺麗に畳もうとしていたのだ。


そして俺には、大好きなピアノを続けられるようにと、無理をして音大へ送り出してくれていた。


まだ、若いから。 知らなかったから。

そんな言い訳で済まされるはずがない。


自分から実情を知ろうとさえすれば気づけたはずなのに、俺は周囲の優しさに甘え、大学でのうのうとピアノに打ち込んでいたのだ。


現実に打ちのめされた俺には、音大を辞めるという選択肢しか残されていなかった。


けれど、そんな考え無しの俺だったからこそ、絶望の深い底で莉緒と出会えたのだとも思う。

「守りたい」と心底思える女性に出会って初めて、俺は両親や姉の深い愛情を本当の意味で理解することができた。


莉緒との結婚を意識し始めた頃、彼女のお腹に新しい命が宿っていることが分かった。


──俺に、迷いは一切なかった。


『じゃあ、一緒に悩んで乗り越えましょうよ。俺たち、両想いなんですから!』


……あの日。

出会ったばかりの年下の男にそんなことを言われても、莉緒は半信半疑だったかもしれない。


それでも俺と一緒に居ることを望んでくれた彼女の想いに応えるため、俺は「この家族を支える男になる」と腹を括った。


妊娠を機に香りに酔いやすくなってしまった莉緒は、周囲の説得もあってフレグランスショップを休職することになった。


その間、俺はレストランでより確かな立場を得るため、ソムリエ資格の猛勉強に励んだ。

必死だったが、思いのほかその勉強は楽しかった。


音楽とワインは、どこか似ている。

どちらも長い歴史があり、作り手の並々ならぬ想いや、土地の背景が複雑に絡み合ってひとつの芸術になっているからだ。


香りのプロである莉緒も、隣でテキストを開いて勉強に付き合ってくれた。


彼女は体調を気遣って一口も口に含みはしないけれど、グラスから立ち上がる僅かな香りの変化を、まるで景色を写し取るように言葉にして伝えてくれる。


二人で一つのグラスを見つめ、香りの奥にある物語を分かち合う時間は、夫婦の絆をより深く、熟成されたものにしてくれたと思う。


そうして生まれてきてくれた愛息子には、恩人である晃希さんから一文字をもらい『瑞晃みずき』と名付けた。


「パパのことも好きだよ?……いちばんかっこいいって、ママも言ってたもん!」


──瑞晃は俺に似て、莉緒のことが大好きでたまらないらしい。

時々、実の息子を相手に本気でヤキモチを焼いてしまう大人気ない俺を見透かすように、瑞晃は莉緒によく似た面持ちで無邪気に笑うのだ。


(……ズルくないか? この妻と息子は、俺をどうしたいんだ!)


リビングのソファで、瑞晃の無邪気な一撃に悶絶していると、追い打ちをかけるように莉緒が微笑む。


「奏汰、瑞晃が寝たら……一緒にワインを飲まない? スーパーで見つけたんだけど、美味しそうな品種のボトルを買ってきちゃったの!」


──愛しい妻からの、甘い誘い。

もう、俺は幸せすぎて息も絶え絶えだった。


***


陽射しがじりじりと強さを増し、初夏の匂いが風に混じり始めた頃。

五月の『端午の節句』を祝うため、如月邸の広い庭には四組の家族が集まっていた。


「柏木 瑞晃です! よろしくね~!」


少しフォーマルな装いでおめかしした息子がペコリと元気よくお辞儀をし、父親たちが集う場所から、ご馳走が並ぶテーブルへと颯爽と駆け出していく。


「柏木さんって……名古屋にある『柏木商事』の息子さんですよね!?」


「そうですけど、実家を出て久しいので。今は単なる『柏木奏汰』として、妻の莉緒と息子の瑞晃ともども、今後ともよろしくお願いします」


「こちらこそ! 瑞晃くんは、うちの陽香(はるか)と同い年なんですね」


「そうなんですよ。それにしても、如月さんから佐伯(さえき)さんのことは以前から伺っていましたし、芹沢(せりざわ)さんの結婚パーティーでは伴奏をさせていただいたので……なんだか全然、初対面って感じがしませんね」


俺が笑って言うと、佐伯さんがハッとしたように隣の如月さんへ問い詰めた。


「……如月さん、この人が“例の柏木くん”ですか!?」


「ええ。彼と莉緒さんのお陰で、僕は念願を果たしたんですよ」


「……ズルい! 俺にも声を掛けてくれてたら……!」


「あっ、如月さんにラブホのことを教えたの、佐伯さんだったんですか!?」


「少し話をしたら、俺より興味津々で! 如月さんって、意外とムッツリなところがありますよね!?」


「ははっ! やばい、おもしろっ……確かに、執着めいたものを感じたかも!」


「お二人とも、失礼ですね! 大体、男なんてそんなものでしょう!?」


芹沢さんはヒートアップする会話の内容に目を白黒させ、気まずそうに沈黙を決め込んでいる。

なるほど、この三人のパワーバランスが少し分かった気がする。


「……まぁ、そうですね。好きな女性の前で取り繕うなんて、結局は無理ですもんね。あぁ……ほら、一丁前にうちの瑞晃が陽香ちゃんにアプローチしてますよ」


俺が深く同意しながらふと視線を向けると、瑞晃が陽香ちゃんの側を陣取って、何やら一生懸命にかまっているのが見えた。


「「何だってっ!? まだ早い!!」」


芹沢さんが佐伯さんの腕を掴んで補助をしながら、二人揃って必死な形相でテーブルへと駆けつけていく。


「父親と伯父の息がぴったり……! 瑞晃は怖いもの知らずだなぁ」


「ふふっ。お互い、息子の行動に自身の一部を感じますよねぇ」


如月さんの楽しげな言葉に、ふと彼の息子である晃汰(こうた)くんに目をやる。

彼は咲良(さくら)ちゃんの側にぴったりとくっついて、離れる気配がない。


……これは将来どうなるのか、見物だな。

佐伯さんは父親としても、伯父としても気が気でないだろう。


親としては息子を応援してやりたいので、俺は如月さんを促して、彼らのいるテーブルへと向かうことにした。


瑞晃が陽香ちゃんに果敢にアプローチしている姿を見ながら、俺はふと、遠い過去の影を思い出した。


──あの男が今、どこで誰と、どんな窮屈な音楽を奏でていようと、もう俺たちの知ったことじゃない。

俺の隣には、世界で一番愛おしい音と香りが、ずっと在り続けるのだから。


そんな想いを胸に抱いた瞬間、談笑する女性陣の中にいる莉緒と目が合い、お互いに柔らかく微笑み合った。


莉緒は奥さんたちの中で自分が一番年上であることを少し気にしていたようだけれど、心配なんていらない。

それぞれの“旦那という名の男”たちは皆、自分の妻が世界で一番だと思っているに違いないのだ。


「やっぱり……莉緒が、一番綺麗だな」


見惚れるあまり思わず零れ落ちた呟きは、いつの間にか隣に戻ってきていた芹沢さんに、しっかりと聞かれていたらしい。


「……一番かどうかは置いておきますが、柏木さんもめちゃくちゃ奥さんが好きなんだということは、よく分かりました」


「うわっ……恥ず。いや、なんか、そんな男ばかりがここに集中してるのかなって」


「まぁ……その血はしっかりと、子供たちにも受け継がれているでしょうね」


呆れたように笑う芹沢さんの言葉は、どこか予言めいて聞こえた。


香りと音が結びつけてくれた、この温かな縁の繋がり。

その縁は、きっと子供たちの未来にもそっと寄り添い、どんな時も彼らを導いてくれるだろう。


初夏の風に混じる笑い声と、甘く柔らかな香り。

この優しい縁は、これからも変わらず続いていく。




※番外編です。(R18版には無いんです)

いつの間にか奏汰の成長物語になってる?と、

不思議に思いながら書いた話でした。




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