1
重厚な木製のドアが開く気配を察し、私は手元に持つムエットを静かに置く。
そこはカウンターの最も奥まった場所──調香師・如月晃希が、香りと真摯に向き合うために選んだ「予約席」だ。
専用の個室すら辞退した彼の、高潔な仕事場。
その静謐を汚さぬよう、私はスッと背筋を伸ばした。
わずかに流れ込んだ外気と入れ替わるように、店内に満ちた芳醇な香りがふわりと揺れた。
足を踏み入れたお客様の靴音が、高い天井に心地よく反響する。
「いらっしゃいませ。 お待ちしておりました」
私はカウンターの中から、迷いのない所作で深く頭を下げる。
ここは、香りの魔法でお客様の記憶を紐解く場所。
私生活がどれほど泥沼に沈んでいようとも、この扉の内側に持ち込むことは許されない。
本日のご予約は、以前からこの店を贔屓にしてくださっている北條様だ。
仕立ての良いジャケットを羽織った彼女は、上品に微笑みながら椅子に腰掛けた。
「いつもの香水が無くなる前に、またお願いに来たのよ」
北條様は、この店のオーナーである如月晃一の甥が調香する香水を重用している。
何でも、その香水を付けて商談に臨むと良い方へ話が進むらしく、彼女にとってのラッキーアイテムなのだ。
いつの時代も、一流と呼ばれる人ほど『験担ぎ』を大切にするのは人間の性なのだろう。
「かしこまりました。 いつもご愛顧いただき、ありがとうございます。……ただ、本日はひとつお願いがございまして」
「あら? 何か不都合でもあるのかしら」
「実は、調香師の如月 晃希が近々結婚式を控えておりまして。 いつもより少しだけ、納期にお時間をいただきたいのですが、ご了承いただけますでしょうか?」
「まぁ! それはおめでとうございます! 勿論ですよ。いつも余裕を持ってお願いしているから、急がないわ」
北條様は、まるで自分の親類のことのように目を細めて喜んでくださった。
晃希さんの調香師としての確かな腕と、誠実な仕事ぶりが、こうしてお客様の心を掴んでいるのだ。
これで、お祝いの言葉をいただくのは何人目だろうか。
ふと、そんなことを考えていたところだった。
「……櫻井店長? なんだか顔色が悪いようだけど、大丈夫?」
「えっ」
指摘されて、ハッと我に返る。
いけない、仕事中だというのに気もそぞろになってしまっていた。
「大丈夫です、失礼いたしました。 少し、納期のスケジュール調整を考えておりまして……」
「そう? 店長もお忙しいでしょうけど、無理はしないでね。 お仕事も程々に」
「はい、お気遣いいただきありがとうございます」
北條様は私を気遣うような視線を向けながらも、「次の予定があるので」と足早に店を去って行った。
北條様を送り出し、ショップの重厚な扉が静かに閉まる。
プロとして、お客様に悟られるなんて失格だ。
ひどく疲れているのだろう。
──無理もない。
昨夜は、一睡もできなかったのだから。
その瞬間、私はカウンターに手をつき、肺にある空気をすべて吐き出すように深く吐息した。
『さすが櫻井店長ですね』
かつて、晃希さんにそう言われた時の自分の顔を思い出す。
あの時は、プロとして彼を支えられることに、確かな誇りを感じていた。
なのに、今の私はどうだ。
顧客に顔色の悪さを指摘され、あろうことか接客中に、昨夜のあの「茶番」を反芻してしまっている。
(……情けない。 私から仕事を取ったら、何が残るっていうの)
長年勤める店でありながら、どこか異国の地に取り残されたような疎外感を覚え、私はたまらず目を閉じた。
──脳裏に響くのは、昨夜のピアノの旋律。
完璧な仮面を被る前の、無様に泣いていた自分。
あの時、肩に置かれた手のひらの熱だけが、冷え切った今の私を辛うじて繋ぎ止めている気がした。
***
「……別れたいんだ。 もう、一緒に居るのに疲れてしまって」
静かな個室レストラン。
冷めきった食後のコーヒーを見つめながら、五年間交際していた恋人は突然そう切り出した。
私だけが気付いていなかっただけで、彼は以前から考えていたのかもしれない。
だが、私にとっては文字通り、青天の霹靂だった。
「……本当に、疲れただけ? それなら、少しお互いに距離を置くとか……」
「いや、無理だと思う。 少なくとも僕は、もう戻るつもりはない」
彼の中では、すでに決定事項なのだろう。
一体どこからすれ違っていたのか。
全く予期していなかった自分が、ひどく滑稽で間抜けに思えた。
「……うん、わかった」
「……部屋にある僕の物とか、そっちで処分してもらえるとありがたい」
「……うん。 私のも、そうして」
「わかった。 今までありがとう。……ごめん」
伏せられた眼鏡の奥の瞳が、「本当に申し訳ない」と潤んでいるのを見て──不意に、スッと頭が冷えた。
そして同時に、腹の底から馬鹿らしいという感情が湧き上がってきた。
「早く、目の前から消えて」
「……えっ?」
「失せろって言ってるの!!」
膝の上の鞄を投げつけようと立ち上がると、彼は怯えたように慌てて部屋から逃げ出していった。
「……ハァッ……何よ、あの茶番」
彼の、あの目。
わざとらしく眉を下げて、いかにも「傷つけたくないのに傷つけてしまった可哀想な僕」を装っていた。
五年間も一緒に居たのだ。あれが自己保身のポーズだということくらい、嫌でも気が付く。
「……まぁ、別れたいと言われるとは思ってなかったけど」
タイミングが悪すぎた。
晃希さんの結婚が決まり、オーナーも手伝いでそちらへ時間を割くことが増えた。
「その間の店の管理をよろしくね」と頼まれ、私が仕事にのめり込んでいたのがこの半年。
忙しくて会えない日が増え、電話やメールだけで繋がっている気になって慢心していたのは事実だ。
きっと彼は、私が「そろそろ私たちも……」と言い出す前に、逃げたかったのだろう。
「別に、私は焦ってたわけでも無かったのに……本当に、馬鹿みたい」
ここが個室のレストランで助かった。
誰にも見られず、聞かれていないだけでもマシだ。
「……ふっ……くぅっ……」
少しだけ、泣いた。
感情の昂りが落ち着いてから会計のために店員を呼ぶと、「すでにお連れ様からお支払いをいただいております」と言われた。
最後まで綺麗に終わらせようとするその手回しの良さに、また少しだけ腹が立った。
***
いつもの最寄り駅に着き、家路へと続くコンコースを歩く。
天井の高い空間には、帰宅を急ぐ人々の足音と、遠くで鳴る改札の電子音が無機質に反響していた。
そのノイズの隙間を縫うようにして、不意に、澄んだ旋律が鼓膜を震わせた。
私は、吸い寄せられるように足を止める。
空間の片隅に置かれた、使い込まれたアップライトピアノ。
そこから溢れ出していたのは、あまりにも皮肉な曲だった。
『ドビュッシーの、《月の光》っていう曲だよ。一度くらいは聴いたことあるんじゃない?』
脳裏に、昨夜別れたばかりの男の、困ったような笑顔が浮かぶ。
音大を出て、音楽教師になった彼。
まだ互いの若さと忙しさを言い訳に、未来への不安を希望で塗りつぶしていた頃の、甘い記憶。
──あんなに優しくこの曲を教えてくれた人が、昨夜はあんなに冷酷な目をしていた。
「……中秋の名月、か」
誰に聞かせるでもなく呟き、夜空を見上げる代わりに駅の冷たい天井を見つめた。
この駅にストリートピアノが置かれてから、多くの演奏を耳にしてきた。
幼い子供のたどたどしい《猫ふんじゃった》、大人顔負けのジャズ、酔っぱらいの男性が楽しそうに弾く《ちょうちょ》。
だが、今ここで《月の光》を紡いでいる青年は、少し特別だった。
いつも深くキャップを被り、表情は見えない。
けれど、彼の指先が鍵盤に触れるたび、駅の騒がしさが凪いでいくような錯覚を覚える。
やがて、銀色の光が滴り落ちるようなアルペジオが静かに収束し、最後の和音が夜気に溶けて消えた。
一瞬の静寂の後、パラパラと疎らな拍手が湧き起こる。
私も、ひび割れた心を繋ぎ合わせるように、小さく手を打った。
青年はいつも通り、ピアノに対して深く、敬意を込めた一礼をする。
そのまま雑踏に消えていくのだと、そう思っていた。
「……これ、よかったら使ってください」
不意に視界を遮ったのは、細くしなやかな指先と、差し出されたポケットティッシュだった。
驚いて顔を上げると、キャップの鍔の影から、痛ましいものを見るような澄んだ瞳が私を見下ろしている。
どうやら、私はまた泣いていたらしい。
受け取ったティッシュのビニールに、重たい雫がポタポタと音を立てて落ちる。
「……じゃあ、また」
青年はそれだけ言うと、励ますように私の肩を、大きな手で一度だけポンと叩いた。
温かい、人肌の熱。
彼はそのまま、振り返ることもなく、夜の駅の喧騒の中へと去っていった。
※リライト版「キャラメル頭〜」と「来る春〜」を、読んでくださった方や、ポイントを付けてくださった方へ…本当に、ありがとうございました!
こちらのR18版を読みに行ってくださっている方もありがとうございます!
リライトしたR15版を近日中に順次公開しますので、どうぞよろしくお願いします。




