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重厚な木製のドアが開く気配を察し、私は手元に持つムエットを静かに置く。


そこはカウンターの最も奥まった場所──調香師・如月(きさらぎ)晃希(こうき)が、香りと真摯に向き合うために選んだ「予約席」だ。


専用の個室すら辞退した彼の、高潔な仕事場。

その静謐を汚さぬよう、私はスッと背筋を伸ばした。


わずかに流れ込んだ外気と入れ替わるように、店内に満ちた芳醇な香りがふわりと揺れた。


足を踏み入れたお客様の靴音が、高い天井に心地よく反響する。


「いらっしゃいませ。 お待ちしておりました」


私はカウンターの中から、迷いのない所作で深く頭を下げる。


ここは、香りの魔法でお客様の記憶を紐解く場所。

私生活がどれほど泥沼に沈んでいようとも、この扉の内側に持ち込むことは許されない。


本日のご予約は、以前からこの店を贔屓にしてくださっている北條(ほうじょう)様だ。

仕立ての良いジャケットを羽織った彼女は、上品に微笑みながら椅子に腰掛けた。


「いつもの香水が無くなる前に、またお願いに来たのよ」


北條様は、この店のオーナーである如月(きさらぎ)晃一(こういち)の甥が調香する香水を重用している。

何でも、その香水を付けて商談に臨むと良い方へ話が進むらしく、彼女にとってのラッキーアイテムなのだ。


いつの時代も、一流と呼ばれる人ほど『験担ぎ』を大切にするのは人間の性なのだろう。


「かしこまりました。 いつもご愛顧いただき、ありがとうございます。……ただ、本日はひとつお願いがございまして」


「あら? 何か不都合でもあるのかしら」


「実は、調香師の如月 晃希が近々結婚式を控えておりまして。 いつもより少しだけ、納期にお時間をいただきたいのですが、ご了承いただけますでしょうか?」


「まぁ! それはおめでとうございます! 勿論ですよ。いつも余裕を持ってお願いしているから、急がないわ」


北條様は、まるで自分の親類のことのように目を細めて喜んでくださった。


晃希さんの調香師としての確かな腕と、誠実な仕事ぶりが、こうしてお客様の心を掴んでいるのだ。


これで、お祝いの言葉をいただくのは何人目だろうか。

ふと、そんなことを考えていたところだった。


「……櫻井(さくらい)店長? なんだか顔色が悪いようだけど、大丈夫?」


「えっ」

指摘されて、ハッと我に返る。


いけない、仕事中だというのに気もそぞろになってしまっていた。


「大丈夫です、失礼いたしました。 少し、納期のスケジュール調整を考えておりまして……」


「そう? 店長もお忙しいでしょうけど、無理はしないでね。 お仕事も程々に」


「はい、お気遣いいただきありがとうございます」


北條様は私を気遣うような視線を向けながらも、「次の予定があるので」と足早に店を去って行った。


北條様を送り出し、ショップの重厚な扉が静かに閉まる。


プロとして、お客様に悟られるなんて失格だ。

ひどく疲れているのだろう。

──無理もない。

昨夜は、一睡もできなかったのだから。


その瞬間、私はカウンターに手をつき、肺にある空気をすべて吐き出すように深く吐息した。


『さすが櫻井店長ですね』

かつて、晃希さんにそう言われた時の自分の顔を思い出す。


あの時は、プロとして彼を支えられることに、確かな誇りを感じていた。


なのに、今の私はどうだ。


顧客に顔色の悪さを指摘され、あろうことか接客中に、昨夜のあの「茶番」を反芻してしまっている。


(……情けない。 私から仕事を取ったら、何が残るっていうの)


長年勤める店でありながら、どこか異国の地に取り残されたような疎外感を覚え、私はたまらず目を閉じた。


──脳裏に響くのは、昨夜のピアノの旋律。

完璧な仮面を被る前の、無様に泣いていた自分。


あの時、肩に置かれた手のひらの熱だけが、冷え切った今の私を辛うじて繋ぎ止めている気がした。


***


「……別れたいんだ。 もう、一緒に居るのに疲れてしまって」


静かな個室レストラン。

冷めきった食後のコーヒーを見つめながら、五年間交際していた恋人は突然そう切り出した。


私だけが気付いていなかっただけで、彼は以前から考えていたのかもしれない。


だが、私にとっては文字通り、青天の霹靂だった。


「……本当に、疲れただけ? それなら、少しお互いに距離を置くとか……」


「いや、無理だと思う。 少なくとも僕は、もう戻るつもりはない」


彼の中では、すでに決定事項なのだろう。


一体どこからすれ違っていたのか。

全く予期していなかった自分が、ひどく滑稽で間抜けに思えた。


「……うん、わかった」


「……部屋にある僕の物とか、そっちで処分してもらえるとありがたい」


「……うん。 私のも、そうして」


「わかった。 今までありがとう。……ごめん」


伏せられた眼鏡の奥の瞳が、「本当に申し訳ない」と潤んでいるのを見て──不意に、スッと頭が冷えた。

そして同時に、腹の底から馬鹿らしいという感情が湧き上がってきた。


「早く、目の前から消えて」


「……えっ?」


「失せろって言ってるの!!」


膝の上の鞄を投げつけようと立ち上がると、彼は怯えたように慌てて部屋から逃げ出していった。


「……ハァッ……何よ、あの茶番」


彼の、あの目。

わざとらしく眉を下げて、いかにも「傷つけたくないのに傷つけてしまった可哀想な僕」を装っていた。


五年間も一緒に居たのだ。あれが自己保身のポーズだということくらい、嫌でも気が付く。


「……まぁ、別れたいと言われるとは思ってなかったけど」


タイミングが悪すぎた。

晃希さんの結婚が決まり、オーナーも手伝いでそちらへ時間を割くことが増えた。


「その間の店の管理をよろしくね」と頼まれ、私が仕事にのめり込んでいたのがこの半年。

忙しくて会えない日が増え、電話やメールだけで繋がっている気になって慢心していたのは事実だ。


きっと彼は、私が「そろそろ私たちも……」と言い出す前に、逃げたかったのだろう。


「別に、私は焦ってたわけでも無かったのに……本当に、馬鹿みたい」


ここが個室のレストランで助かった。

誰にも見られず、聞かれていないだけでもマシだ。


「……ふっ……くぅっ……」

少しだけ、泣いた。


感情の昂りが落ち着いてから会計のために店員を呼ぶと、「すでにお連れ様からお支払いをいただいております」と言われた。


最後まで綺麗に終わらせようとするその手回しの良さに、また少しだけ腹が立った。


***


いつもの最寄り駅に着き、家路へと続くコンコースを歩く。


天井の高い空間には、帰宅を急ぐ人々の足音と、遠くで鳴る改札の電子音が無機質に反響していた。


そのノイズの隙間を縫うようにして、不意に、澄んだ旋律が鼓膜を震わせた。


私は、吸い寄せられるように足を止める。

空間の片隅に置かれた、使い込まれたアップライトピアノ。


そこから溢れ出していたのは、あまりにも皮肉な曲だった。


『ドビュッシーの、《月の光》っていう曲だよ。一度くらいは聴いたことあるんじゃない?』


脳裏に、昨夜別れたばかりの男の、困ったような笑顔が浮かぶ。


音大を出て、音楽教師になった彼。

まだ互いの若さと忙しさを言い訳に、未来への不安を希望で塗りつぶしていた頃の、甘い記憶。


──あんなに優しくこの曲を教えてくれた人が、昨夜はあんなに冷酷な目をしていた。


「……中秋の名月、か」

誰に聞かせるでもなく呟き、夜空を見上げる代わりに駅の冷たい天井を見つめた。


この駅にストリートピアノが置かれてから、多くの演奏を耳にしてきた。

幼い子供のたどたどしい《猫ふんじゃった》、大人顔負けのジャズ、酔っぱらいの男性が楽しそうに弾く《ちょうちょ》。


だが、今ここで《月の光》を紡いでいる青年は、少し特別だった。

いつも深くキャップを被り、表情は見えない。


けれど、彼の指先が鍵盤に触れるたび、駅の騒がしさが凪いでいくような錯覚を覚える。


やがて、銀色の光が滴り落ちるようなアルペジオが静かに収束し、最後の和音が夜気に溶けて消えた。


一瞬の静寂の後、パラパラと疎らな拍手が湧き起こる。

私も、ひび割れた心を繋ぎ合わせるように、小さく手を打った。


青年はいつも通り、ピアノに対して深く、敬意を込めた一礼をする。

そのまま雑踏に消えていくのだと、そう思っていた。


「……これ、よかったら使ってください」

不意に視界を遮ったのは、細くしなやかな指先と、差し出されたポケットティッシュだった。


驚いて顔を上げると、キャップの鍔の影から、痛ましいものを見るような澄んだ瞳が私を見下ろしている。


どうやら、私はまた泣いていたらしい。


受け取ったティッシュのビニールに、重たい雫がポタポタと音を立てて落ちる。


「……じゃあ、また」

青年はそれだけ言うと、励ますように私の肩を、大きな手で一度だけポンと叩いた。


温かい、人肌の熱。


彼はそのまま、振り返ることもなく、夜の駅の喧騒の中へと去っていった。




※リライト版「キャラメル頭〜」と「来る春〜」を、読んでくださった方や、ポイントを付けてくださった方へ…本当に、ありがとうございました!

こちらのR18版を読みに行ってくださっている方もありがとうございます!

リライトしたR15版を近日中に順次公開しますので、どうぞよろしくお願いします。


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