バカVSヤクザ「2. 新しいお父ちゃんの実家はテキヤさんだった」
新しいお父ちゃんの実家は親父さんとお兄さんもテキヤさんだった。
普段はダンプに乗って、お祭りがあると屋台を出す。
新しいお父ちゃんこと輝さんも手伝いを経て屋台を任されていて、テキヤ仕込みの料理上手だった。BBQのときは大活躍で、何しろ炭火と鉄板があれば大抵のものは作ってしまう。
屋台ではリンゴ飴、綿菓子、たこ焼き、焼きそばと色々売っていたらしい。その後、料理人の道に進むも偏食が凄かったので試食が出来ないため断念。
結果、お酒が好きなので飲み屋さんをやっているところでうちの母と出会ったのだそうな。
で、テキヤ仕込みだから喧嘩も強かった。何しろ一家そろってモノホンだから迫力が違う。それに武道や格闘技とは違う〝作法〟があって、それは要するに覚悟の違い…腹の座り方が全然違うんだ。
で我が家。
実は、輝さんの一家と遠い昔に繋がりがあった。輝さんのそのまたお父さんは豊橋の夜店では名物だったたい焼きの屋台主だった。
でその夜店のテキヤさんを仕切っていたり、豊橋にサーカスやプロレスを呼んだりしていた興行師というのがウチの曽祖父。三寅一家の佐野賛郎さんだった。
その頃なのか、もうちょい後なのかわからないけど、輝さんのお父さんもうちの曽祖父を知っていて。なんたる縁か、家族になった。といっても実は内縁で籍は入れてなかった。
何故かと言えば私の存在だった。
二十歳になったら入籍する、という話でもあったのだが、実際は今そんなことをしたら週末のたびに殴られる理由が増えるからだった。
輝さんもその辺までちゃんと知ってくれていたのだが、なにぶん借金があって拾われてきた身でもあった輝さんも手出しがしづらかったと思われる。
アパートも夜逃げ同然に引っ越して、あとで全部ウチが立て替えたらしい。私も一度、サラ金の返済に駅前のボロいビルの一室について行ったことがある。タイルの剥がれたがらんどうの部屋にぽつんと置かれたATMが侘しかった。
そうして数年が過ぎた。
私は中学3年ぐらいだったと思う。
もう柔道も少林寺もバリバリで私に殴る蹴るが飛ぶことは減った。その代わり、年老いた祖父母や伯父に暴力が向き、私には嘲笑や侮蔑の言葉が飛んできた。チカラで勝てないから憂さ晴らしして、逆らえば力の弱い人を殴る。人間の屑だ。
そうして私より先に輝さんが我慢の限界を迎えた。
いつも私を連れていくのに我が家の前に車を横付けしていたんだけど、もう本当に嫌で嫌で仕方がなかった。顔にも出てたし、精神的にもメチャクチャ悪影響が出ていた。それでも行くのは囚われてると逃げることも思いつかなくなる、という状態だったのと、逃げたら殴られるのは自分じゃなかったからだ。
向こうの家に居てもやることはテレビ見るか、マンガ読むか、ゲーム…でもずっとそばにアレがいて、たとえばゲームしてて気に入らないと当然罵詈雑言は飛ぶし、不意打ちでなら殴ってくる。それもモノを使うようになっていて、テニスのラケットとかテーブルの上にあった食器や分厚い少年誌みたいなものがよく飛んできた。
あとは腰や首を揉ませたり、酒を買いに行かされたり。
昼間やることがないと、散歩に行くといってしばらく外に出て居た。
そんな時に、あの家に電話がかかってきた。
当然、応対するのは私だ。
出たら声の主は輝さんだった。
「おいカズヤ、アイツそこに居るだろ。ちょっと代われ今から行くから」
完全に喧嘩をするつもりの声だ。目が据わってるのが声でわかる。覚悟の違いがここで出た。
受話器を取ったバカは茫然としながらも精いっぱい怒鳴り返していた。だが所詮チンピラとモノホンでは潜った修羅場が違う。
「佐藤ですけどもお、今から行くんで、ちょっとお話できませんかねえ」
「ああん!?なんだテメエ!!オイ!!誰だ佐藤ってバカ!!!」
「佐藤だよ。わかりますよね。じゃあ行くんで」
さあー大変だ。今まで好き放題やってたのが遂に年貢の納め時。私は内心わくわくしていた。ざまあみろ!という代わりに、さも困惑したような顔だけ作って座っていた。




