与える喜びが枯れるとき
誰かを好きになったとき。
その人に自分の持っているもの、好きなもの、その人が好きであろうもの、喜んでもらえそうなもの…自分の時間やお金を使って、メッセージを添えて、何かを与えることは喜びである。
だってうれしいじゃん、ありがとう、って言われるだけでも。
情熱を注ぐこと、毎日その人のことを考えること、張り合いや生き甲斐を持つこと。エネルギーが満ち満ちて、明るい気分で過ごせる。のは、まあせいぜい長くて数か月とかで。
長久手じゃなければ尾張旭で(誰が名古屋の向こうの話をしてるんだ)。
いつか必ず、その奔流が枯れ果てる日が来る。
そりゃそうだ。雨も降らないのにダムの水をドバドバ出しているのだから。
だいたい自分なりの苦労なんて他人からは全くわからない。
わからないからこそ、そこを埋めるのは礼儀であり友情や愛情であり、そこが一方通行だったり自己中心的だったりすると齟齬が生まれるし揉め事になる。無理が出るんだ。
相手の器に注がれたダムいっぱいの愛情も、そいつの器が小さすぎればちっとも汲み止められないし、何も得ることがない。
揚げ句に有難みも覚えず、その人が枯れてゆくだけなのを周りで見ていることしか出来ない。
注がれた小さい奴だけが得をしているのに、その小さい奴は何も知らず理解らず、勝手なことばかり言っている。
そんなことを何度も見てきた。その都度ブン殴ってやりたいと思っていたが、生憎と私は持たざる者であり与えられざる者であるため単なる嫉妬でしかない。
持たざる者の悲哀、与えられざる者の嫉妬は滑稽だ。
傲慢も滑稽も身の回りにあっては迷惑だ。だから余計に私は選ばれず、求められず、選ばれず、与えられず、何も出来ずただ生きているだけ。
枯れることを知ることは満ち足りたときもあるということだ。
満ち足りた覚えもないのに気が付けば枯渇している。
俺のダムのどこにそんな穴が開いていたんだ。
どこを見てれば気が付けたんだ。
何を見てればそれを知ることが出来るんだ。
ダムチャンネルか?(誰か入ったばかりのカラオケルームの話をしてるんだ)




