【第一部】 第二章 アウス・エーヴィスを目指して
翌日。アフター・ポビリス歴、二一〇三年。六月三日。ファーストタスクデー。世間一般の多くは今日から仕事や学業に勤しむのである。空は朝からどんよりとしていて、通行人はそれに影響を受けたような顔をしている。
パラシドでは掃除に励むセルマとアストの姿があった。セルマが窓拭きをしていると、鞄を持った子どもたちの集団が通っていく。窓越しから女の子が手を振り、微笑んで返した。
(セルマの知能は十五歳でストップ。あ、ノクーヴェは戦うことが勉強だね)
(帝国宰相府から教材が送られてきて、十八歳までの勉強は終えた。村には共和国時代の教材もあったから理解を深めるのに役立った。読書もした)
(さらりとカッコつけて、自慢?)
(お前が語るように仕向けたんだろ)
レインは間を置いて話す。
(『ラウルの実が弾けた』って読んだことある?)
(途中まで読んだが、理解に苦しんだ)
(セルマの知能は十三歳)
(なんで下がる――)
「ルマーダ、手が止まってるよ。アストを見習いなさい」
カウンターからラーガに叫ばれ、窓拭きを再開する。
(アストくんも勉強は必要だよね)
テーブルの脚の汚れを磨き上げるように全力で拭いているアストに目がいく。セルマは「私が教えてあげる」と言おうとしたが、自身の目的はアウス・エーヴィスを探し、願いを叶えてもらったら村に帰る、だったと思いだし、口を噤んで窓拭きに励んだ。
十時半。開店三十分前になり、セルマとアストはこげ茶色のエプロンをし、ラーガから仕事について説明を受ける。セルマは主に接客、アストは主に皿洗い、ただし忙しい時は互いに手伝う。
「ルマーダ、帽子を取って。お客に顔が見えなきゃダメよ」
(セルマ、早くもここで女とバレる)
(ナレーションを入れるな)
「オレも三角巾にする。大きめの物はあるか」
ラーガは奥の部屋からエメラルドグリーンの三角巾を持ってきた。
セルマは、帽子を置いてくる、と言って部屋に戻った。
窓の前で帽子を取り、髪を隠すことなく三角巾をした。クリーム色のボブショートと赤い瞳のややつり目、バランスの取れた顔立ち。しばし悲しい目で自分の姿を見つめたあと、今度は髪を完全に隠した。
(ボクの反応がほしいの? 構ってセルマちゃん)
(その言い方だとお前が構ってもらいたいと言っているように聞こえる)
(じゃあ……、私はセルマ。見たでしょ。今の。いい女だと思ったでしょ。可憐な花にカッコよさを足した色気があったでしょ。どうして反応してくれないの。私、寂しい)
(過去を思いだしただけだ)
冷静なセルマの回答に、レインは玉砕され大きく長い溜め息を吐いて自分なりに至高の抵抗をした。
一階に戻ると、ラーガが看板を外に出した。
(そういえば、『パラシド』って名前のお店なんだな。昨日は全然気がつかなかった)
(伝統って意味らしいよ。他国のエッセー集で、翻訳版にあった。セルマたん、他国の文化も知らなきゃダメだよ)
店内は徐々に、コーヒーや紅茶の匂いが漂い始める。匂いが混ざったのか元々嫌いなのかアストだけ鼻をつまんでいた。
十一時の開店と同時に身なりのいい二人のマダムが来店し、従業員入口の前で立ち尽くすセルマと一瞬だけ目が合った。
「あら、カッコいいお兄さんね。雇ったの」
「ええ。そうなのよ」
ラーガは愛想笑いをして答え、セルマを一瞥する。
(接客しなよって)
(分かってるよ)
セルマは、窓際のテーブル席に座ったマダムたちに近づくと、腕を組んだ。
「オレはルマーダ。で、注文は?」
マダムたちは少し驚きながらも、笑う。
「ふふ、じゃあ、コーヒーを二つ、お願いね」
「おう」
カウンターに戻ると、アストは、口を強く閉じながらも驚愕と焦燥が前面に押し出た表情でセルマを見ており、ラーガはじろりと睨んだ。
「もう少し丁寧に喋ってちょうだい。あたいたちはお金をもらうのよ」
(ド田舎育ちのセルマちゃん、買い物とかしたことある?)
唇を少し尖らせたセルマだが、コーヒーが出来上がったので持っていく。
「ほらよ、お前らが頼んだやつだ」
(はあーあ。ラーガさんも額に手を当てているよ)
「ふふ、ねえ、お兄さん、もっといい職場、教えてあげよっか。男の人が女性の相手をするの。あなたなら人気ナンバーワンも夢じゃないわ」
ラーガがやってきて、トレーでセルマの頭を軽く叩いた。
「申し訳ないですねぇ。この子は歓楽街の前に面接試験で落ちるから無理ですよ」
マダムの一人は、メモ用紙に何か書く。
「ふふふ。これあげる。気が向いたら連絡をちょうだい。あとこれもあげる」
店名、連絡先が書かれたメモ用紙と、板チョコレートを渡された。
(『蒼白のポエム』かぁ。ボク、二日だけ働いたことあるよ。楽しいよぉ)
(悪いやつに限って歓楽街って言う。こいつらも)
(酷いなぁ。そもそもノクーヴェのせいなんだよ)
(なんで)
(戦争で人が集まる場所は軒並み閉鎖。狙われるからね。娯楽は生き残りを賭けてほとんどが歓楽街に集中する。ノクーヴェの『人間の悲しみが快楽』というふざけた考えのせいで、家族を失った人の癒しはそういう所になるの。戦争は格差を生み、どうにか生きている人と金持ちが互いに承認欲求を満たされるのは、そのような場所ってわけ。分かった? ド田舎育ちのセルマちゃん)
レインの得意げに語る様子が手に取るように分かり、セルマは不満になった。
(待て。なぜ歓楽街はノクーヴェに狙われない?)
(確かにグレーゾーン営業が多くて、摘発には人件費が必要だし、しかも戦時中だと労力は割けないから狙うのは最適だと思うけど、襲っても悲しみに暮れる人は少ないし、ノクーヴェだってお客さんだよ。欲求が満たされるところを破壊したりしないよ)
マダムたちの目の前でメモ用紙を握りつぶし従業員入口の扉に寄りかかる。
ラーガは謝るが、マダムたちは頬を赤く染めてセルマを何度も一瞥していた。
(表面上の勉強だけで真実を理解するのは困難ってことか)
(接客知能、五歳)
(勝手にステータスを決めるな)
他にも客が入ってきた。カウンター席は埋まり、テーブル席も空きが少なくなる。宿場町とあってかホテルの従業員らしき制服姿も見受けられる。
「いいかいルマーダ。ちゃんと、丁寧に対応するんだよ」
一人用テーブル席から手が上がりセルマは向かう。
カウンター席の方では、客がラーガに許可を取ってテレビをつけた。
『もうまもなく、ミーファディル王女さまが姿を現す模様です』
それまで端末をいじったり、読書したり、会話していた人々が、一斉にテレビに視線をそそぐ。その顔は決して明るくない。
テレビからは歓声が聞こえてきた。メインストリート、城がよく見える外壁の外の映像である。外壁の門が開いて、城から黒のリムジンがやってきた。そこから、キラキラした黒いドレスの少女が降り立つ。辺りからは「ミーファさま」「ミーファさま」と叫び声が聞こえた。
ボブカットで茶髪と内側がグリーンのインナーカラーの髪を微かな風に靡かせ、曇り空を吹き飛ばすような、澄んだ蒼い瞳を周囲に向け、ミーファディルがマイクの前に立った。
辺りは静まり返る。




