第一章 それぞれの一日⑩
「悪魔が襲ってくる」
セルマは眉間に皺を寄せた。
(怖い先生とかじゃない?)
「分かった。怖いことは考えなくていい。オレが住む場所を用意してやるよ」
「え」
「実はオレも一人だったんだけど、喫茶店で、住み込みで働くことになったんだ。さあ、行こう。紹介してやる」
「い、いいんですか」
「頼んでやるよ。ほら」
セルマは立ち上がって微笑み手を伸ばした。それはカッコつけているわけでも、優雅でも気障でもない。ルマーダという男子としてでもなく、セルマが持つ母性本能のような温かさがあった。
その姿がみなもに映ったとき、レインは胸が苦しくなった。そして絶対に認めたくない意地が支配した。
アストはセルマの手を握って立ち上がるも、また涙ぐむ。
「うう」
「泣くなよ。美男子が台無しだぞ。オレと一緒なら怖くないだろ」
セルマは懐から取りだした黒い布で、アストの汚れた顔を拭いた。
(そ、それ、パン――)
(うるさいっ。バレてないっ)
「はいっ」
「あ、でも条件な。敬語は禁止。オレはルマーダ・クレルス。ルマーダお兄ちゃんと呼んでくれ」
(え、うわああ)
レインは、これでもかと蔑むような低い声をだし、アストも急に涙が止まって、無表情になった。
「ルマーダ、お兄ちゃん……」
セルマはアストの頭を撫でた。
「うん。よし行こう」
そう言って手を握ろうとしたが、引っ込められ拒否される。
(くくくく、ぷぷぷぷ)
(お前と手を握るのとは違う。男同士だ。微笑ましく見えるはずなんだが)
(……やっぱり図書館に向かおう。君には勉強が必要だ。ボクがオススメの本を紹介してあげる)
レインには答えず公園を出た。
ゆっくりと夕焼けに満ちてゆく街並みを眺めながら二人は歩く。
セルマが無言だったせいでアストが先に口を開いた。
「僕の家族はみんなノクーヴェに殺された」
「え」
アストは地面に視線を落とし、立ち止まった。
「僕の家は北西部にあった。父さんと母さんと三人暮らし。家の近くに大きな川があって、そこでよく友だちや父さんと釣りをしたり泳いだりして遊んだ。二年前の夏、遊んでいたら天気が急変して、友だちと橋の下で雨宿りしたんだ。帰りが遅くなって、家に戻ったら、アイツがいたんだ」
アストの表情は怒りが強くなる。
「ノクーヴェ、だったのか?」
怒りの表情のまま頷いて、話を続ける。
「母さんを守って、父さんが殺されていた。あの虫のような目がギラリと光って、腕が父さんの体を貫いていた。アイツは僕が帰ってきたのをいいことに、薄気味悪く笑って、母さんの髪の毛を掴んだ。僕が何度も何度も助けてって叫んだのに、アイツはさらに笑って、父さんを刺した腕で母さんを……うッ」
セルマは体が震えた。一種の暗示のように拳を作って自分の胸に押し付け、冷静を保とうとする。
「こ、怖かった、だろ?」
「うん。最初はね。時間が経って、今は怒りしかない。思いだすだけで、怒りが込み上げてきて、死んでもいいから、あの顔面を殴ってやればよかったと思うんだ。あの化け物。あのッ、にっくき悪魔ッ」
アストはしり上がりに感情が表に出た。一方でセルマは耐えるのに必死だった。複雑に絡み合う感情が、体を動かすことさえ拒んでいる。
(極悪人セルマ。反省しなさい。全部セルマの責任。セルマは史上最悪のノクーヴェ)
挑発されたことで、セルマは落ち着きを取り戻した。
(いいさ。別に。アウス・エーヴィスさえ見つければ)
アストの背中に手を当てる。
「大変、だったな。ノクーヴェは、嫌いか?」
「大っ嫌い」
下を向いて悔しそうにつぶやく姿に、セルマの心は当然の如く抉られる。
(当たり前の回答を聞いて、まさかの自己満足?)
「でも、こうしてルマーダお兄ちゃんに会えた。それがよかったこと。僕はアスト・コリオン。十二歳です。これから、よろしくお願いします」
セルマも自己紹介した。
(ボクはもっと幼いかと思ったけど、身長のせいみたいだね)
(一番の年下はレインか)
(どういう皮肉?)
(心が幼稚)
(ムカーッ)
(それ、本気?)
アストを連れたセルマは喫茶店パラシドに帰ってきた。
客にコーヒーを出したラーガが驚いてやってくる。
「どうしたんだい」
「おーい、お勘定」
数名いた客はラーガの様子を気遣ってか会計を済ませる。最後の客がいなくなるとラーガは表の札をCLOSEに変えて、テーブル席に座るセルマとアストの所にきた。
「帰りが遅いと思ったら。それで、その子は?」
「実は――」
セルマはかいつまんで説明する。
ラーガは話を聞きながら、冷たいミルクティーを置いた。
「で、そのアストって子を、うちで働かせろってかい」
「そうだ。足りない分はこのオレが働いてやる」
「あたいは人手が増えてありがたいが、本当にいいのかい? 施設なら、働く必要はないんだよ。今からでも連絡してやろうか」
アストは青ざめ、全力で首を振った。
(施設の悪魔か。気になる)
(だから、怖い人でしょ)
(甘い)
(何が)
(ミルクティーが)
セルマは一気飲みした。それを見たアストがようやくゴクゴクと飲んでいく。
「分かったわ。ここに置いてあげる。施設にも連絡してあげるわ。部屋はルマーダと二人で使いなさい。そういえばルマーダにも部屋を紹介してなかったね」
セルマとアストは二階の部屋に案内された。八帖ほどの広さで、アーチ状の白い天井に、ランプが五つの小さなシャンデリア。中心には正方形の小さなテーブルがあり左右には二段ベッドが二つある。窓は奥に一つだけ。少し窮屈で、夕暮れ時ともあってか暗い印象を受ける。
ラーガが電気を点けた。シャンデリアのランプは白く、その明かりが白い天井を受けて部屋は一気に明るくなる。一瞬でも日中を感じるほどだ。
「いいのか。こんな素敵な部屋。他に誰がいるんだ?」
「昔、住込みで働いていた人たち。今はいないから。あとで片付けるのを手伝って。どう使うかは二人で考えな」
セルマは口を半開きにして立ち尽くしていた。
(一つの部屋に男と女。女ってばれないようにね。子どもに噓つきセルマ)
「そうそう、三階には絶対に行っちゃだめよ。不用品の荷物が落ちてくるから」
ラーガは去っていった。
(三階に宝があるから探しちゃダメだって)
(ふん、なんの挑発しても無駄だ)
(でもさ、話戻るけど、本当の話だよ。セルマは騙す騙すダマスカスなんて言ってるけど、バレたら、アストにも『大人は騙す』って教えるもんだよ)
(その前にアウス・エーヴィスに会って、さっさとここから出る。なんの心配もない)
(出るの。こんな素敵な部屋から?)
(うっ。私は別に――)
(はいはい。さっきから『おしゃれ。素敵。ふかふかベッド最高。早くダイブしたい』って呟いているよね)
(私はそんなっ――そんな罠にハマるか。言ってない。でも、これから言う)
アストがセルマのジャケットを引っ張った。
「いい部屋だな。あのふかふかベッドなんて――」
「どっちがどっちを使うの?」
セルマは我に返って悩み、答える。
「左右どっちでもいいよ。うーん、そうだな。部屋については……」
部屋については、それぞれ二段目のベッドを外して部屋を分けて使うことを提案し、アストに受け入れてもらった。さらにラーガに頼んで小さな机も買ってもらうことにした。
日も落ちたがセルマは進んで片付けを行った。その間、アストはラーガと二人で施設脱退の手続きをし、戻ってきて、窓から街灯に照らされた街をひたすら眺めていた。
(まったく、何も手伝わないんだから。セルマ、怒って暴走だ)
(手伝わないのがレインだったら半殺しにしたかもな)
セルマはアストに近づく。無言でそっと肩に手を置き、彼のつむじを眺める。
「どうした」
窓に映るアストの表情に、とりわけ何かがあるわけではない。
「僕だけ、幸せになっていいのかと思う」
(施設にいる友だちのことが心配なんじゃない?)
レインの言葉をそのまま言うと、アストは小さく頷いた。
「物事は比較したほうがいい。よく逆を言う人がいるが、オレは違う。比較するから感情が生まれる。その感情は知能の持った生物の特権なんだ。苦い食べ物しかなかったら、おそらく食べ物に何も感じないだろう。他の味があるからこそ、その食べ物のことが分かる。アストの今の気持ちは他人を思いやる心なんだ。施設にいる友だちを見捨てるようにも感じるし連れてきたオレのことや手続きをしてくれたラーガさんの気持ちを無駄にできない、という様々な意味がある。だからといって卑屈になる必要はないし、どんな物事にも完璧な正解はないから、しっかり考えて自分が納得できる答えを出すんだ。アストの答えをオレは尊重してあげるから」
(天地がひっくり返る。明日は雪だ。嵐だ。隕石が降ってくる。ボクは最上級で驚愕した。ノクーヴェがまともな話をするなんて。ボクだったら『一人は怖いって言ってたから連れてきたのに』とか言いそう。セルマたん先生。ボク、揚げ足を取ったりしまちぇん)
(いいかレイン。幸せというのも、幸せじゃない何かと比較できるから、幸せという言葉が生まれるんだ。こういう感情は人間もノクーヴェも関係ない)
アストがセルマを一瞥した。
「その、シャワーを浴びたい」
「え、ああ。一階にある。店内とは反対側。分からなかったらラーガさんに聞いて」
アストが部屋を出た。階段を下りていく音がする。
(あの湖はきれいではなかった)
(それなのに店内のテーブル席に座った)
(あっ)
(さすがの君も疲れたみたいだね)
(今日一日いろいろあり過ぎた)
その後、セルマもシャワーを浴び、夕食に喫茶店の賄を食べた。時計の針は八時を指していた。
セルマとアストは部屋に戻る。アストがベッドに入るとセルマがカーテンを閉めている間に寝息が聞こえてきた。電気を消し、セルマもベッドに倒れた。
(気持ちいぃ)
高らかな声を出したがレインに反応はなく、セルマは安らかな眠りに入った。
その頃、エパルノーマ城では……。
白のティーシャツにデニムのショートパンツ姿という一般人に紛れた格好をしたミーファディルは、自室から出てくるなり驚いた。正面にノートを抱えたスーツ姿のジョルヴェリーナが姿勢を正して立っていたのだ。思わず目元の泣き黒子のシールをちゃんと外したかどうか指先で撫でてしまった。
「こんなところで、何を」
ジョルヴェリーナもミーファディルの格好に少しだけ目を開くも、咳払いして話しだす。
「お話がありまして、ずっと待っておりました」
「ずっと?」
「ええ。五時間ほど。入口を警備する軍のみなさんの気持ちがとってもよく分かりました」
ジョルヴェリーナの作り笑顔に、ミーファディルは警戒して鏡のように作り笑顔をする。
「それはよかったわ。アタシも話があるの。実はね、討伐隊が民間人を拷問していたの。国家権力に盾突きたいアナタならとても美味しく料理できるでしょ」
「野良犬も拾われたら周りの人は野良犬とは思わないでしょう。記者という野良犬もそれらしい振舞いをするようになる。それより、どこでそんな情報を得たのですか」
ミーファディルは笑顔を絶やさず、携帯端末の動画を流した。ルマーダが殴られているシーンである。
「ここよ。こんなことがあったの」
「あら。これはギャンダル殿下ね。あなたたちでも手出しできない放蕩息子」
「場所は分かるでしょ。調査すれば撮影した人も分かる。本人のプライバシーに関わるから本当は調べてほしくないけど、華憐で心優しい方だから取材は許してはくれるかもね。それで、アナタの話は、職務上の立場としての話?」
動画を睨みつけていたジョルヴェリーナは顔を離し、冷静な表情を取る。
「ええ。ただし、録音はしてませんし公開もしません。話とは、ノクーヴェの暫定政府が置かれた旧ライエールの、国務大臣との話し合いはあるのか? という内容です」
「アナタを信じないわけではないけど、深くは話せないわ。すでにお兄さまと討伐隊は旧ライエール帝国宰相府に乗り込んでノクーヴェ王族を倒し、暫定政府を置いた。彼らの心は確かにアタシたちよりだけど、ノクーヴェであることに間違いないわ。一般論ならノクーヴェは誰であろうと絶対に許さないだけど、アタシ一個人の考えなら……いいえ。この話はここまで。これでいい?」
「ありがとうございます。討伐隊による民間人拷問の件、私なりに料理します。ではこれで。明日の演説、楽しみにしています。よい夢を。ミーファさま」
ジョルヴェリーナは笑顔のまま踵を返した。
(まったく、何時だと思ってるの。まだ九時よ。子ども扱いして。アタシはこれからナイトプール)
ジョルヴェリーナが振り向く。
「あ、そうそう。私が待っているあいだに侍女長のアミーチェさんがいらして、あのお転婆むすめえええ、どこだああって叫びながらミーファさまを探しておりましたよ」
ジョルヴェリーナのものまねは非常によく似ていた。
ミーファディルは肝を冷やした、という表現が相応しすぎるほど表情に現れ、恐る恐る訊く。
「そ、それで、また変なことを吹き込んだりしてないよね」
「カラスになって飛んでいきました、とお伝えしました」
一瞬ミーファディルは大きく目を開いて驚愕した。が、すぐに笑顔を作った。
「それでどうなったの?」
「ミーファさまを許してあげてくださいと付け加えたら、ちょっと冷静になって去っていきました」
「そう。ありがとう」
「では、改めておやすみなさい。ミーファさま。素晴らしい夢を」
先ほどとは違う、微かに不敵な笑みを浮かべてジョルヴェリーナが去っていった。
ミーファディルはただ、だからアタシは子どもじゃないわ、と逆方向に歩いていった。




