第一章 それぞれの一日⑦
(うわあああ。セルマのイキ顔だああ)
(なんだそのイキ顔とは? 久しぶりのシャワーなんだ。黙っていろ)
(ええ。何日もお風呂に入らなかったの? 汚いなあ)
眉間に怒りを表したが、暖かなシャワーに自然と表情も綻んで太ももを洗う。
(私の目に見えるものはレインにも分かるのだろ? どうだ、下も人間と何も変わらない。まったく同じだろ)
泡でまみれた太ももが洗い流される。
間があって、ようやくレインが騒ぐ。
(胸がぺったんこ胸がぺったんこ)
セルマは鼻で笑った。
(必死に隠しても無駄だぞ。ムッツリーニレイン。もっとじっくり眺めたらどうだ?)
(う、うん。あ……。う、うううるさいなぁ、ボクはノクーヴェなんてこれっぽっちも興味ないッ)
体を泡で塗れさせ、流す。
すると今度は脚をYの字にし、足首を持ってIの字にする。数秒固まって体を戻すと、今度は逆立ちし、そのまま片手で腕立て伏せをする。
(どうだ、お前だけが見放題だぞ)
(うんっ。しゅごい、しゅごいよおおおお)
一通りストレッチをすると、またしっかり体を洗って流し、ようやく脱衣所へ戻った。
鏡で自分の後ろ姿をチェックする。尻を何度も揉む。
(尻は小ぶりなほうがよかったが……。でも服を着ればどうにか男として誤魔化せるか? どう思う変態レイン)
(おおおわっ、な、なんだよ、もう)
(ふふ。まだ見とれてたか? まあいい。それより、さっき言っていたイキ顔とはなんだ。男らしい活きのいい顔ということか?)
(……本気で知らないの? じゃあ、そのままの姿勢でいて)
セルマは、尻の上部に手を当てたまま鏡に背を向けた状態で固まる。
(こうか?)
(いいよ。それでいいよ。うん。実にいい。じゃあ、今からボクの顔を想像してみて。いくよ。……あっあっ、ああああああ、あっ、やばっ、うああっ。ドピュッ、ドピュッ、ドピュッ。はあ、はあ、はあ、ふぅ、ふぅぅぅ)
表情が顔に出る前にセルマは目を赤く光らせ、姿をノクーヴェにして着替え始めた。
青紫色をした胴体と幼虫を宿らせたような腕に、レインはやはり恐怖を感じたが、極めて冷静に話す。
(え、セルマ、ボクの楽園計画を支援してくれるの?)
(キモい。それにドピュとはなんだ)
(え、それも知らないの)
レインが拍子抜けしたように本当に驚いたので、セルマは焦った。
(し、知ってるさ。言ってみただけだ)
――なんだ、あの恥ずかしさは。それに、ドピュ……図書館で調べるか。
着替えを終えて人の姿に戻った。
ジャケットにカーゴパンツ姿が鏡に映ると、少し頬を赤くした。
(もしかして、鏡に映る自分に恋しちゃったとか?)
セルマは帽子を被り、ピンク色の蝶つがいの首飾りを付ける。
(一瞬だ。他人に見えた。しかし、下がスース―するのは、少し気になる)
(そうだね。君には可愛いパンツのほうが、ギャップがあっていいよ)
洗濯かごの黒い下着に目が行くと、素早く懐に隠した。
店内に戻ってくる。テーブルを拭いていたラーガが驚いて布巾を落とし、すぐに両手を合わせて喜んだ。
「あら、似合うじゃない。それ、知り合いのお下がりなんだよ。それで、今後あんたが使う部屋は二階に上がって左側ね」
「王立図書館はどこだ?」
「ここを出て右の路地裏に入ったら、まっすぐ歩いてメインストリートに出る。今度は南、つまり城に向かって歩いて、城の近くまで来たら左に曲がって行くと図書館があるわ。城に向かって行けば看板や地図があるし、最後は曲がらずとも図書館は見えるから。じゃあ、あなたが出掛けている間に携帯端末も用意しておくわね」
「そんなものいらん」
終始、不愛想なセルマだったが、ラーガは笑顔で送りだしてくれた。
セルマは外に出た。微かに吹く爽やかな風を感じながら、言われた通り、右の路地裏に入る。
(どうも裏がありそうな顔をしてたな。まあいい。アウス・エーヴィスの情報を掴んだらそのまま向かい、願いを聞いてもらったら、こことはおさらばだ。ちょうどいい服も手に入れたしな)
(ホント大人不信だね。あれはね『うわああ、前の人よりイケメンだわ』って顔なんだよ。分かったかい、噓つきセルマたん)
(邪魔をするな)
レインは、会話の不成立を疑問に思い、セルマを観察する。
セルマは辺りの情報を読み解くように視線をあちらこちらへと動かす。空は青くも、両側の三階建ての建物と車の入れない幅の路地裏は影で覆われていて薄暗い。加えて人通りの少なさと若干のカビ臭も相まって、表情は硬く、先ほどの脱衣所のような警戒感がにじんでいた。
(まさか、とは思うけど、ラーガさんを疑って辺りに敵がいないか気にしているわけ?)
(当たり前だ。飯にシャワー、それに部屋まで。おかしいと思わないほうがおかしい。それに本当の悪魔も天使の顔をしているというじゃないか。窓から狙い撃ちされる可能性も視野に入れるべきだ)
レインにはそう言ったものの、窓からは子どもたちの笑い声や遊び中の会話、怒られての泣き声、という日常の音声が届き、さらには「こんにちは、お兄ちゃん」と人形とともに挨拶する女の子がいて、警戒していたセルマの心と表情は、カーテンを開けて新鮮な空気を取り入れた部屋のように和みへと変わっていった。
(くくく。ぷぷぷ)
(何が面白い)
(いや、いろいろとね。でも、天使かぁ。ラーガさんが天使……くくくく)
(言葉をそのまま捉えるとは想像力が著しく欠如しているな。それともお前は比喩を知らないのか。いずれにせよ一から教育をやり直したほうがいい)
腕を組んであまりにも真剣な表情で言うものだから、レインは地団駄を踏んだ。
(セルマ、ボクはね――)
「っ……」
溜め息が漏れるような声が出た。
大通りに出たのだ。
行き交う車や人々のその数、ひしめくように連なるハーフ・ティンバーの建物、大きさを競うようなデパートや教会、時計塔。その様々に織りなす景色の旋律に、セルマは目を奪われ、そのまま奪われ続けていたいと、この上なく感じていた。
目の前をトラムが通過していく。
(あれ、メインストリートは初めて?)
(昨日、少し通ったが、停電でよく分からなかった)
(もしかして、ド田舎育ち?)
(ああ。本当に綺麗だ。写真で見たのとは大違い。戦争でやっつけようだなんて、間違っているよ)
(『私は優しいノクーヴェ』アピール?)
セルマはレインに微動だにせず、顔をあちこちに向ける。
(きっと、ここのどこかにアウス・エーヴィスがいる)
(もう。キョロキョロしてると、田舎もんってバレるからね。よおし、ボクも君の仲間が近くにいないか全方位を確認するぞお。ここにセルマたんがいるよお。みんなで大暴れだああ)
(アウス・エーヴィスに会って、ここに戻ってくることができたら……)
景色に希望を抱きながら、遠くを眺めて歩いていく。青空の下に構えている荘厳な翡翠色の城と天を突き刺す尖塔がゆっくりと近づいてくる。
「お、大きい。確か、ゼフィルの塔」
(そう。この国のシンボル。高さ四一七メートルで、エパルノーマ城の約七倍はあるんだ。防衛システムの灯台も大きいけどゼフィルの塔のせいで霞んじゃう。歴史は古く、人間同士の戦争以前からあって守り神が住んでるって言われてる。近年は、電波塔としての活用がメインだけど、観光目的としても開発が進んでいるよ。周辺は大きな公園みたいになっているんだ)
(…………)
(ほら、ボクって文武両道だからガイドもできちゃうってわけ。どう? 関心を通り越して改めて尊敬したくなるでしょ)
――レヴニールとあの塔に登って、景色を見て……。
セルマは否定するように首を振った。
レインは下を向いて呟く。
――つれないなぁ。どうせまた自分のことばっか考えているんだよ、きっと。
(ねえ、セルマ、アウス・エーヴィスは本当にいないんだよ。みんな同じ回答だから。きっとセルマは村のみんなから騙されたんだよ。インチキの参考書でも見せられたんじゃないの)
一瞬ぎこちなく歩いた。焦ったセルマはしっかり街並みを眺め、心を冷静にして歩く。
――あの歴史書が間違っているはずがない。
思い返した記憶がすぐに遠くなり、ずっと見ていたエパルノーマ城が、ようやく認識という領域に入った。
(王子は、何かの実験をやっているのか)
(はあ。どうしたの。唐突に)
(知り合いが言っていたのさ)
レヴニールという男の子との別れが頭の奥にこびりついている。『王子、実験、コア』その最後の言葉が何かを訴えているのは確かだ。だが、セルマの心はそこに至っていない。
――レヴニール。待っていてくれ。アウス・エーヴィスに会って必ず生き返らせる。そしたら、どこかで静かに暮らそう。
彼女の中では事件の真相よりもアウス・エーヴィス捜索のほうが、目的達成の最短コースとして揺るがない地位を築いているのだ。
歩いていると小さな交差点に来た。左側の道は石畳の道になっており広場のようである。レインの説明によれば、祭りなどのイベントが行われる場所だそうだ。ちなみにその先には、林に隠れてひっそりと佇む美術館があった。
曲がり角には地図の貼られた掲示板があり、セルマは確認する。
(図書館はすぐそこだな)
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
振り向くと、姉弟らしき二人がおもちゃ屋の窓ガラスを見ていた。
セルマは男の子に目を向ける。十歳くらい。黒のややツンツンした乱れ髪だが、額は隠れている。目はややつり目。見た目の陰湿な雰囲気と顔に出る陽気な笑顔のギャップに、セルマは興味を惹かれ、レヴニールにこんな友人がいてもよかった、とまた過去を思った。
その男の子が着ぐるみを指さしていた。
「あの時の……。アスト、思い出は大切に胸にしまっておくんだよ」
セルマは向き直り、図書館へと歩いていく。
(胸にしまった黒パンツはどうするの?)
(どこかで洗うか、捨てる)




