第一章 それぞれの一日⑥
二人は路地裏を抜けた。そこはホテルの横で、道を挟んで正面に昨日の喫茶店、コーヒーカップの看板が目印のパラシドがあった。昨晩は気がつかなかったが、三階建てである。
入口まで来たが扉は閉まっていた。中の様子を窺うが人の気配はない。ミディは辺りをキョロキョロしたあと両手で街灯を掴み、腕の力だけでよじ登っていく。
――運動神経が優れていやがる。レインが心配しないのも頷ける。
(ごくごくありきたりな純白のパンツ)
真剣に目を凝らしていたセルマは、レインの言葉によって魔法にかかったかの如く顔中を真っ赤にした。
ミディは普段の生活のように何食わぬ顔で体を横にして、二階の窓ガラスをつま先で軽く蹴った。
建物の中からバタバタと物音がして、入口が開いた。
箒を手にした私服姿のラーガが現れた。
「ミディ、もう大丈夫なの」
「はい。それで今日は孤児に、朝食を持っていきたいの」
ラーガの視線がミディから外れて、隣のセルマに映る。
「あら、昨日の子。って、その顔、どうしたの。まさか昨日の――」
「昨日は関係ないよ。この傷は、あとでアタシが話すから」
「そう。ひとまず昨日はありがとね。さ、中に入って」
セルマはカウンター席に腰を下ろす。ミディが救急箱を持ってきて消毒液を染み込ませた綿を傷に当てていく。
ラーガが掃除をやめてエプロンをするとカウンターで仕事を始めた。
「そういえばレインはどうしたの」
(お願い。ボクがいるって言わないで)
(言ってやる)
「廃墟に向かう途中で、突然姿を消した」
セルマは消毒液の臭いに不快な表情をしながら答えた。
(優しいノクーヴェのセルマたん。ありがとうでちゅ)
(万が一、こいつらがお前を出す方法を知っていたら大変だからな)
ミディが絆創膏を額に貼りながら淡々と話す。
「たぶん、またどこかに行っちゃったのね」
「仕方ないわね。じゃあ、これよ」
ラーガはパンの耳が入った袋を出した。
「子どもたちに代わって礼を言う」
セルマは立ち上がって受け取る。同時に空腹告知音が鳴った。
「アタシの知り合いに届けさせるから、ルマーダはここにいなさい」
「え、でも」
「あなたは、子どもたちとほんの僅かな時間しか一緒じゃないけど、アタシの知り合いはよく通ってる。心配しないで。事情も伝えておくし、ルマーダもいつでも会いに行けるでしょ」
ミディはパンの耳を持って外に出ていった。セルマは追いかけようとしたがラーガに腕を掴まれた。
「あんたはそこに座ってな。今から朝食を作ってやるよ。昨日のお駄賃ね」
(そうやって私を懐柔しようとしたって――)
(はいはい。お駄賃って言ってるでしょ。食べても怪獣にはならないよ)
セルマは席に戻った。目の前のメニュー表が目に入る。一番安いのはドリップコーヒーのSサイズ、二七〇ミラル。
(た、高い)
(え、何が?)
十分ほどで、サラダ、ハムエッグ、焼き立ての食パン二枚が目の前に置かれた。
「飲み物はコーヒー? 紅茶? ミルクティー? 冷たいの? 温かいの?」
「ミ、ミルクティー。冷たいの」
「はいよ。じゃあ今から作るから、遠慮しないで食べてな」
朝食の定番の彩りと香ばしい匂いに、手を動かされて焼き立ての食パンを頬張っていく。サクッと触感と、程よい温かさが口から全身に伝わっていき、顔に雪解けのような笑顔を連れてきた。
(こ、これ、本当に美味しい)
(へえ、ノクーヴェも同じ味覚――って)
頬を伝って涙が零れ落ちた。感情の不意打に顔を上げて抵抗する。
――三日前のクルミが最後だったな。
と、空腹のせいにした。
「おやおや、あんたも食べるのに相当苦しいのね。じゃあ、ここで働きな。寝床も用意してやる」
「そんなっ」
「遠慮するんじゃないよ。あんたの年齢で孤児のような生活をさせるわけにもいかないし、一人にさせてノクーヴェにでも襲われたら寝覚めが悪いってもんよ」
(過去に嫌な経験があるんだって)
レインの言葉は本当か冗談か区別のつかないような声色だったが、ラーガはミルクティーを置いて、過去を話し始める。
「三年前にね、閉店間際に、あんたと似たような歳の男の子が来たのよ。どう見ても孤児だろうと思えるようなボロボロの服装だったんで気にしていたんだけど、案の定、無銭飲食でね。憲兵隊に引き渡そうとしたんだけど、ふと思いだしたのよ。工事現場で日雇いの仕事をしていたのを。それで訊いたら、弟と妹に食べさせるためで、自分は何も食べていないって泣きながら言うのよ。辛い、助けてって」
(ボクが思うに無銭飲食の言い逃れをするための嘘だな。詐欺)
「あたいは、たとえその子が嘘をついていたとしても、見逃してやりたい気持ちになったわ。それで、今回だけは、と言って許したの。でも、そしたら、その帰り道、ノクーヴェに襲われたの。翌日、男の子と女の子がお兄ちゃんお兄ちゃんと泣き叫ぶ姿を見て、あたいは悔やんだよ。お金がないんだから雇えばよかったって」
ラーガは僅かに目元を潤ませた。
(ほら、セルマ、お涙ちょうだいだって)
(だ、騙されたりしない。どんな罠なんだ)
(…………。寝込みをミディに襲われる)
レインの棒読みが聞こえてきた。
(そうか。戦術と戦略を考えねば。最初に顔面を狙ってみるか、いや)
(ボク、ノクーヴェの心を知る。ただの戦闘バカ)
「その年で廃墟生活だなんて、バカレイン二号になってしまうわ。いいかい、子どもってのは若けりゃ若いほど将来がある。何歳になってからでも挑戦は遅くないというが、年齢制限のない残った枠を争うことしかできないの。あんたはまだ若い。何か目的を持って抗いなさい。ただ生きているだけじゃダメだからね」
(バカレイン二号……ショック)
セルマはパンを掴んだまま下を見続けていたが、顔を上げた。
「一つ、聞きたい」
「なんだい?」
「アウス・エーヴィスに会うにはどうしたらいいんだ? みんなはお伽噺と言うんだ」
ラーガは背中を向けて調理器具を洗う。
「ふふ、そうだねぇ。王立図書館で調べるってのが手っ取り早いけど、大丈夫。信じる心はきっと届くわ」
表情も口調も優しいが、言いたいことは伝わってくる。
(そしてセルマはお伽噺と知るのだった)
レインの追撃だけは撃退したいが、疑問が勝りセルマは顔を上げた。
――おかしい。なぜ、みんな口を揃える。アウス・エーヴィスの活躍は歴史書で読んだ。あの歴史書は、誰よりも信用における物だ。アウス・エーヴィスがいないわけがない。
「おっと、王立図書館に行く前にシャワーを浴びて。清潔感は大切よ。服装は用意しておくから。お昼までには戻ってきてね。そしたら仕事してもらうから」
汚れた黒いジャージを見て赤面し、急いで朝食を頬張った。
ラーガは手を拭いて二階に上がっていった。
(わ、た、し、はノクーヴェのセルマ。アウス・エーヴィスの情報を見つけて会いに行き、仲間を助けて、この国で最後の抵抗を行うの。もちろん喫茶店には帰らないわ)
(黙れレイン。と、言いたいがアウス・エーヴィスに会って願いを聞いてくれたら、私は村に帰る)
ラーガが、畳んだ服を手にして二階から戻ってきた。
「脱いだ服は洗濯かごに入れておいて」
セルマは、一階の奥へ案内され、脱衣所で裸になる。
(ねえ)
(お前の言う、ぺったんこが見れて嬉しいか)
少し間があった。
(それは何? ただのペンダントじゃないよね)
セルマの首飾りは、薄いピンク色の蝶が二匹、向き合ったものだった。ちょっと気にした表情を浮かべて触るも、何も言わずに取って着替えの下に隠した。
(それにしてもミディはしっかりあったな。胸はどうすれば大きくなると思う。いや、待て)
顔を上げ、ぐるぐると天井の隅々まで見回したり、床に這いつくばって洗濯機の周りやゴミ箱の近くをくまなく探したり、洗面台に置いてある花瓶を取って持ち上げてみたりと、証拠を探す捜査官のように何かを確認した。
(自分勝手だなぁ。もしもボクがカメラを仕掛けるなら天井の電気のそばだね)
さっそく洗面台に登って蛍光灯付近を確認し、安堵した。
(大丈夫だ。無かった。あのライトもない)
(それで、さっきの質問なんだけど)
(たいした物じゃない)
軽くあしらうように受け流しセルマは浴室に向かった。シャワーを出して全身に浴びる。程よい温度に顔が緩んでいく。
「ふぅ。いつぶりだろう。気持ちいい」
レインのほうは不満だったので、ここぞとばかりからかい始める。




