第8話 観察者の部屋
“告白の部屋”は、静寂を増幅する装置だった。
扉を閉めた瞬間、外の世界の音はすべて剥がれ落ちる。空気の密度が変わる。耳鳴りすら、誰かの囁きのように感じられるほど、音がない。
部屋の中央には折り畳み椅子が一脚、壁には小さなマイク。天井の蛍光灯は、手術台のような白を放っている。
最初に中へ入ったのは、B館の青年・藤巻だった。眼鏡の奥の瞳は乾いて、何かを守るように焦点を定めない。
扉が閉じ、錠の音が響く。
彼は椅子に座り、唇を濡らし、マイクに口を寄せた。
「三年前の夜、俺は――」
そこで止まる。
沈黙が始まる。
沈黙はただの“無音”ではなかった。まるで空気が押し返してくるような圧があった。呼吸のたびに、肺が重くなり、言葉が喉の奥で錆びついていく。
三十秒が過ぎたころ、天井のスピーカーから乾いた音が鳴った。
ガン、と鉄が軽く叩かれるような音。
扉は開かなかった。
観察室の壁に並んだ赤ランプのひとつが、音もなく消える。
「減点」
その文字が、モニターの端に淡く浮かぶ。
海老原が息を吸い、短く吐いた。「やっぱり、点数がある」
次に名乗り出たのは星野だった。
彼女は両手を胸の前で組み、深呼吸を一度してから部屋へ入った。扉が閉まる。
マイクの前で、彼女の声は静かで、均整が取れていた。
「私は彼を見た。煙の向こうで、倒れた朝比奈を。私には助ける時間があった。でも、躊躇った。火は怖い。私は“救う側”でいたかったから、怖い自分を見たくなかった。だから、一歩下がった。――ごめんなさい」
沈黙。
蛍光灯の音が耳に残る。
赤ランプは点いたまま。扉は動かない。
やがて、扉が静かに開き、星野は出てきた。
頬に涙が光るのに、口元には微かな笑みがあった。
「謝ったからって、開くわけじゃないか」
廉はゆっくり首を横に振った。「謝罪は“物語”の要素だが、鍵は“構造”を動かす言葉だ」
観察室の空気が変わった。
茜が机の上の図面を指でなぞる。
廉は棚から配線図を引きずり出し、埃を払いながら広げた。
手書きの修正が無数にある。赤鉛筆で殴り書きされた文字が目に飛び込む。
〈特定語句の連続認識+発話者識別〉
そして、その下に小さく書かれた語群。
“嘘”“偽証”“命令”“見殺し”“火”
廉は指先でそれらをなぞった。
「単なる声紋認証でも音量でもない。誰かが、誰かに“言わせたい言葉”がある」
茜が唇を噛み、呟く。「彼は、言わせたい言葉があるんだ」
廉は彼女を見た。その瞳の奥に、あの夜の炎が反射していた。
炎の赤が、瞳孔の中で揺れた。
「私が話す」
茜の声は静かで、しかし誰よりも確かな意志を持っていた。
誰も止めなかった。止められなかった。
彼女は観察室の奥へ歩き、扉の前で一瞬だけ立ち止まった。
廉の方を振り返る。
その目は、これまでのどんな論戦のときよりも、静かで強かった。
扉が閉まる。
蛍光灯の白が、茜の髪の輪郭を切り取る。
「――私は火のそばにいた」
声が響いた。
「朝比奈を見た。彼は助けを求めた。私は動かなかった。動けなかった、じゃない。動かなかった。私は誰かの“指示”を待っていた。誰かの“命令”を。命令が来なかったから、私は“見殺し”にした」
その瞬間、マイクの上にある小さな緑ランプがひとつ点灯した。
続いて、ふたつ、みっつ。
部屋の空気が変わる。
観察室では、外側の赤ランプがゆっくりと明滅を止め、消えた。
金属のロックが外れる音。
カチャリ、と、乾いたが確かな音。
茜が椅子から立ち上がる音が、マイク越しに響く。
取っ手が軽くなる。
扉が、開いた。
廊下の向こうに、新しい通路が現れていた。
白い光が滲む短い通路。
その先に、さらに小さな部屋がある。
足を踏み入れるたびに、床のタイルが軋んだ。
壁には、一枚の写真が掛けられている。
そこには研究室の一角。
白衣の青年が笑っている。笑顔は、カメラの方ではなく、隣の誰かへ向けられている。
笑っているのは、朝比奈拓真。
その隣に肩を並べる男――白衣の胸ポケットにペンを差し、視線はカメラを見ずに遠くを見ている。
写真の裏に油性ペンで名が記されていた。
〈朝比奈廉治〉
茜が小さく息を吸った。痛みに似た音。
廉は写真に近づいた。
ガラスの表面に、自分の顔が重なった。
まるで過去と現在が、薄い膜の上で溶け合うように。
彼は写真の中の青年の瞳を見つめる。
その奥に、炎が宿っていた。
背後から、声が降りてきた。
「鍵穴は、君たちの喉にある。鍵は、僕の名だ」
声は、確かに知っている響きを持っていた。
あの夜、研究棟の会議室で、論理の戦場に立っていた男の声。
天才であり、傲慢であり、炎を“実験”の一部と考えた男の声。
朝比奈拓真。
茜が振り向き、顔色を失う。
「……彼は、死んだはず」
廉は答えない。
写真の青年の微笑が、わずかに歪んで見えた。
その歪みが、ガラスの内側なのか、自分の目の錯覚なのか、判断がつかない。
観察室の奥、スピーカーのどこかでノイズが走り、短く息を吐くような笑い声が混ざった。
「君たちは観察されていた。そして今度は、君たちが観察する番だ。観察者の部屋へようこそ」
茜が低く囁いた。「廉……彼の“名”が鍵なら、開けるべき扉は、あなたじゃない?」
廉は喉を押さえた。声が出ない。出すことを、体が拒否している。
喉の奥に、何かが貼りついている感覚。
その“何か”が、名前そのもののように思えた。
外の非常灯が、一瞬だけ明滅した。
その光の中で、廉は茜の瞳を見た。
彼女の瞳の中に、自分の顔が二重に映っていた。
そして、その奥には、もう一つ――炎のように揺らめく何かが、確かに、いた。
声がまた降りる。
「鍵は、もう君たちの中にある。開けるのは、声だ。閉じるのも、声だ。君たちは、観察される者ではなく、記録される者になった。あの夜と同じように」
スピーカーのノイズが途切れ、再び沈黙が訪れる。
その沈黙の奥で、茜の心臓の鼓動だけが、はっきりと聞こえた。
部屋の空気が、ゆっくりと濃くなる。
写真の中の青年の笑顔は、もう笑っていなかった。
廉は、その写真の下にある小さな金属プレートを見つけた。
そこには、錆びた文字でこう刻まれていた。
〈観察者の部屋〉
――その瞬間、壁の向こうで、誰かが息をした。
その息が、あまりに近かった。
まるで、写真の裏から聞こえるように。
廉は振り向かず、ただ喉の奥で乾いた息を飲み込んだ。
それは、名前を呼びかける前の音だった。




