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『対面する館』 ──推理が遅れた方が、消える。  作者: 妙原奇天


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第7話 停電の夜と再会

 嵐は、街灯のない山の輪郭を一度だけ鋭く見せて、すぐに呑み込んだ。稲光が稜線をなぞるたび、木々の葉脈が白く反転し、遅れて腹の底に響く音が床板を震わせる。非常灯は二度、三度、くぐもった呼吸のように明滅し、やがて完全に息を止めた。

 暗闇は、想像力の形を忠実に拡大する。見えないはずの階段の角が刃に変わり、誰かの肩が触れた布の皺が、見知らぬ手のひらに思える。人は暗闇で人になる。誤魔化しが効かなくなる。


 木場が指の間でライターを弾いた。小さな炎が、彼の横顔を刹那だけ浮かび上がらせて消える。星野は無言で懐中電灯を配り、一本は廉に、一本は海老原に渡す。海老原は携帯の画面を最低輝度にして、胸元で伏せた。顔よりも足下を照らすための光だ。

 廉は耳で距離を測った。靴底が床を擦る音。誰かの息が高くなり、誰かの息が低くなる。衣擦れが壁に寄り、静けさの中に体温が増える。暗闇の中で、人の形が単純になる。飾りが剥がれて、輪郭だけが残る。


 窓の外で、雨脚が太くなる。風が柵を叩き、建物の骨を軽く鳴らす。瞬間、どこかで錠の音がした。階下の外扉の金属が、湿った空気を撫でられたように沈んで、開く。つられてB館側の連絡扉の錠も、ほとんど同時に外れた。

 誰の合図でもなく、人の流れは外へ向かった。懐中電灯の細い円が床を滑り、濡れた空気が頬にまとわりつく。雨粒が頬骨に当たるたび、冷たい痛みが短い。

 中庭で足が止まる。闇が深い。だが、雨に滲んだ人影の形で、そこにいる人数が分かる。A館とB館の影が、初めて対面した。B館の列の先に、茜がいて、廉を見つけると短く頷いた。


 「合流、する?」

 声は雨に削られている。けれど、要点だけが残って伝わる。

 廉は即答しなかった。合流は利点と同じだけのリスクを連れてくる。嘘が感染する速度は、情報の速度と比例する。群れは強いが、群れはよく騙される。

 しかし、いまは、見えない敵に別々で挑むより、見える味方と誤解しあう方がまだましだ。

 「短い休戦。観察室を見せる」

 廉が言うと、茜はまた短く頷いた。中庭に集まった足音が、互いの息の高さを測りながら、地下へ向かって動き始める。


 十五人が、初めて同じ空気を吸った。それだけで空間は熱を持ち、言葉は膨張する。

 「そっちで人が死んだと聞いた」B館の男が言った。「お前ら、本当に調べているのか」

 「そっちの“外出”記録は何だ」A館の女が返す。「外なんてないのに」

 責める言葉と、守る言葉。どちらも、自分の怖さを隠すための服だ。

 罵声の音階だけが膨らみ、雨の匂いと一緒に狭い階段に詰まる。

 廉と茜は互いの声でそれを切った。

 「続きは下で」

 「目で見てから、口で言え」

 言葉の刃先が、他人ではなく壁へ向かうように、角度を調整する。階段の踊り場ごとに炎が短く揺れ、十五人分の足音が地下へ沈む。


 観察室の扉を押すと、白い光が安物の祝祭のように広がった。壁一面のモニターが、十五の顔を順番に照らす。映像は砂嵐と、廊下と、談話室と、白い部屋を行き来し、時々巻き戻り、また進む。

 海老原が、最前列で画面を睨み、「俺は記録者で、観客じゃない」と低く呟いた。言い訳とも、祈りともつかない声。

 星野は操作卓の端に指を置き、「私は救う側だった」と唇を噛む。過去形に滲む悔いが、部屋の温度を少し下げる。

 遠野は笑いそうになって笑いきれなかった。喉を上がる笑いを途中で握りつぶすと、目に水が浮かぶだけだ。

 木場は、自分の名の上を靴底で踏んだ。焦げたノートの欄に薄く残った〈“KIBA”紙片作成〉の痕を見つけ、短く舌打ちして、踏むしかなかった。踏まないと、自分が崩れる。

 B館の人間も、それぞれ自分の影をここに見つけた。段ボールの隙間を覗き込む女の肩、焼け跡の前に立ち尽くす少年、ミラーの前に長く立つことの意味を、今さら理解する者。

 「これが舞台裏か」誰かが言った。

 「舞台裏にも、客席はある」茜が返した。「ここで泣けば、その顔も映る」

 涙は、映像になりやすい。映像になる涙は、よく売れる。


 電源の表示が微かに瞬き、操作卓のスピーカーが、これまでより近い音で鳴った。

 「よく来た、参加者諸君。舞台裏は楽しいか?」

 声は機械の角で削られているのに、どこかに肉の温度を残していた。懐かしい響きが、最後の母音の形だけに、かすかに混ざっている。

 茜の肩がわずかに震えた。

 廉は耳をめいっぱい開いた。抑揚の癖、語尾の収束、息継ぎの位置。無表情の下に隠した呼吸の間隔。

 三年前、研究棟の会議室で、廉と茜が繰り返し議論した相手。夜更けの白い蛍光灯の風の下で、論理の塊を投げ合った男。

 名前を呼ぶには、まだ確度が足りない。名前は刃だ。早く投げれば、誰かを間違って切る。

 しかし、心はもう知っている。

 声は続けた。

 「君たちは、もう一つの扉を探すだろう。扉はある。鍵もある。鍵穴は、君たちの喉にある」

 喉。

 廉は無意識に喉元を押さえた。声帯が触れ合うところ。言葉が生まれて出ていくところ。

 “告白が鍵。声が扉を開ける”。

 観察室のノートの赤い文字が、耳の内側で再生される。テープの男の「理解したい側だ」の声と、重なる。


 「ふざけるな」木場が低く言った。「誰が何を言えばいい。言ったら、何が開く」

 「開けさせるつもりの“何か”だろう」海老原は操作卓のボタンを追い、「外部再生」を切り、「内部再生」を入れた。

 映像が一度止まり、白い部屋がフレームの中で広がった。床も壁も天井も白い。中央に折り畳み椅子が一脚。壁には小さなマイク。

 部屋の隅に、短い黒い線。

 チョークでも、ペンでもない、触れた指の跡。

 「覗き窓がある」茜が言った。「扉の向こうに、狭い窓。見るための窓」

 「見られるための窓だ」星野が訂正した。

 廉は顔を上げ、部屋の平面図を頭の中で回した。観察室から伸びる短い廊下、その突き当たり。鉄扉のさらに奥。

 「行こう」

 言葉が出るより早く、足が動いた。雨の匂いが地下の湿気に混じり、階段の手すりの冷たさが指の骨に残る。


 厚い鉄扉を抜け、短い廊下の突き当たりに、その小部屋はあった。

 覗き窓は胸の高さにあり、曇り一つないガラスが埋め込まれている。中は、あまりに白い。

 床に置かれた折り畳み椅子の金属が、白に馴染めず、異物の線として浮いている。

 壁の上部、天井の隅のあいだに、小さなマイクが一つ。

 扉の外側に、手書きの紙片。

 〈告白の部屋〉

 文字は真っ直ぐだが、トメが抜ける。声の母音が伸びる人間の筆跡。

 茜が廉の袖を抓んだ。指が冷えて震えている。

 「……ここで、誰かが何かを言うと、扉が開く」

 「扉?」遠野が背後で息を飲む。「どこが開く」

「ここじゃないどこか」海老原が、小さい声で答えた。「観客の“次の画”の扉」

 薄く笑う気配が、壁の向こうで弾けて消えた気がした。

 気のせいだ。けれど、耳は一度覚えた笑いを何度でも拾う。


 嵐はまだ遠くで続いている。稲光の残像が、覗き窓のガラスに一瞬だけ書き込まれ、すぐに消える。廊下の空気は湿って重いのに、喉の奥は乾いて仕方ない。

 廉は喉に手を当てた。自分の声が、鍵になる。自分の罪が、鍵になる。

 三年前の夜の、たった一語が、喉の奥で錆びた金具のように残っている。

 煙で、何も見えなかった。

 あの言葉の角を削れば、ここは開くのか。

 開けた先に、何がいるのか。

 どちらにせよ、こちらが先に何かを差し出す流れだ。

 それでも、選ぶしかない。


 「待って」茜が言った。「誰が、最初に座るか。順番を決めよう」

 「順番?」木場が鼻で笑った。「順番の問題か。言わされるなら、誰でも同じだ」

 「同じじゃない」星野が首を振る。「声には温度があり、重さがあり、長さがある。扉が反応するのが、温度か重さか長さか、今は分からない。だから、順番は結果を左右する」

 海老原は覗き窓から白い部屋を見続けていた。

 「最初は、短い言葉にするべきだ。“名詞の列”でもいい。形のない意味をできるだけ避ける。編集で“物語”にされにくい素材を、先に投げる」

 「名詞の列」遠野が復唱する。「火。煙。扉。鍵。喉」

 「喉はまだ早い」茜が遮る。「“喉”は、向こうが待っている言葉だ」

 廊下に沈黙が落ちた。

 沈黙は、音より濃い。

 濃い沈黙の中で、誰かの腹が短く鳴った。体は、舞台の道具ではない。体は、体だ。

 廉は自分の呼吸を数えた。吸って、吐く。吸って、吐く。

 壁の中の呼吸と、自分の呼吸は合わない。それが、いまの唯一の救いだ。


 「じゃあ、こうしよう」廉は言った。「最初は俺が行く。数字だけ言う。“A館二十一時四十二分。B館二十一時十二分。差、三十分”。それだけだ。次に茜。茜は、“鏡の前で見た”を時間だけで言ってくれ。名詞と数字で、扉の反応を確かめる」

 木場が「俺は」と言いかけて、口をつぐむ。「……いい。三番目に行く。言葉は、短くする」

 「私は四番目」星野が続けた。「“救急の手順”の名詞を並べる。感情じゃなく、手順。脈、呼吸、瞳孔、圧迫」

 「五番目は俺だ」海老原は手を上げた。「“記録の語彙”で投げる。記録、時刻、編集、断面、皺」

 遠野は視線を落とし、「六番目に、“扉は怖い”って言う」と小さく言った。「名詞じゃないけど」

 「それでいい」廉は頷く。「順番と素材で、扉の癖を見る。誰かが“触れてはいけない言葉”を言って、開いてしまう可能性はある。だが、それでも、“開けさせたい言葉”の輪郭は見える」

 誰も動かない。

 動けない時間が、体にまとわりつく。

 覗き窓の向こうの白は、何も返さない。

 返さない白を、こちらが勝手に意味で染める。

 染まった意味を、向こうがまた編集する。

 それでも、やるしかない。


 廉は扉に手を置いた。金属は濡れた石のように冷たい。取っ手を回すと、扉は滑らかに開いた。

 白。

 空気は乾いて、匂いがない。

 古い折り畳み椅子を開き、中央に座る。

 壁のマイクの小さな黒が、向けられた目のように、こちらを見ている。

 喉が鳴る前に、廉は舌の位置を確かめた。

 「A館二十一時四十二分。B館二十一時十二分。差、三十分」

 声は短く、硬く、低く。母音を伸ばさず、子音に重心を置く。

 何も起きない。

 扉は、閉じたまま。

 天井のどこかで、微かなクリック音。

 向こうの録音機が、息をした音だ。

 廉は椅子を畳み、扉を開けて廊下へ戻った。

 「何も、ない」

 茜が入る。

 扉が閉じる音。

 白い部屋で、彼女は数字と名詞を並べた。「二十一時二十分。談話室。鏡。女の子。目。沈黙」

 また、何も起きない。

 木場が入る前に、嵐がもう一度、建物の骨を鳴らした。

 「二十一時三十分。喫煙所。火。灰。手」

 何も、起きない。

 星野が入る。

 「気道。呼吸。脈。瞳孔。圧迫」

 静か。

 海老原。

 「記録。時刻。編集。断面。皺」

 静か。

 遠野。

 「扉は怖い」

 沈黙。

 沈黙の底で、壁の中のどこかが、かすかに笑った。

 聞き違いかもしれない。けれど、耳は一度覚えた笑いを何度でも拾う。


 順番を終えて、廉は扉の外で肩の力を少しだけ抜いた。

 何も起きないことが、わずかな安堵にも、別の恐怖にもなる。

 「“鍵”は、意味の方にある」茜が言う。声は平らだが、爪の先が白い。「“喉”は、まだ待たれている」

 「待たれている言葉を、こっちから差し出してはいけない」星野が続けた。「“扉を開ける声”は、向こうの台詞だ。こっちは、台詞の順番を崩す」

 「どうやって崩す」木場が低く訊く。

 「“誰に向けて言うのか”を曖昧にする」海老原が答えた。「観客にでもなく、犯人にでもなく、ここにも向けず、ただ、空気に向けて話す。編集で“矢印”をつけにくい声を、置く」

 「さらに言えば、告白は“独り言”の形を嫌う」廉は言った。「独り言は物語になりにくい。向こうが欲しいのは、関係を引き出す告白だ」

 「関係を切ればいい」遠野の声は弱いが、まっすぐだ。「名前を言わない。代名詞も使わない」

 「名詞を避けるのは、逆に危ない」星野が首を振る。「曖昧さは編集者の餌になる」

 議論は短い刃の応酬になりかけて、廉が手のひらで空気を押さえた。

 「一つ決めよう。明日の三十秒、最後の五秒だけ“喉”を言う。『喉は鍵穴ではない』と。否定で、扉の形を削る」

 茜は少し考えて、うなずいた。「……いい。扉の模型を、逆から作る」

 「逆から作る?」木場が眉を上げる。

 「本物を作れない時は、作れない形を積み上げていく」茜の言葉は冷たいが、手は廉の袖をまだ掴んでいた。「残った隙間が、正解に近い」


 観察室に戻ると、スピーカーが短く鳴った。

 「舞台裏は楽しいか?」

 声は先ほどと同じ癖を残しながら、わずかに近い。ここまで来い、と言っている声音だ。

 廉はモニターに映る白い部屋をもう一度見た。折り畳み椅子の金属が、白の中で浮いている。

 その金属の背もたれに、薄い擦り傷が一筋。

 指の背で触れたときにつく、浅い線。

 それは、誰のものか。

 彼は目を閉じ、三年前の研究室の椅子の背を思い出した。議論が熱くなると、悠真はいつも指の背で背もたれを二度叩いた。考えをまとめる癖。

 廉の指が、無意識にその動きを真似て、すぐに止まった。

 名前を呼ぶには、もう少し、確度が要る。

 確度が揃う前に口に出した名前は、凶器になる。


 誰かがすすり上げる音が、操作卓の下から聞こえた。

 B館の少女が、段ボールの影に膝を抱えて座っていた。顔は涙で濡れているのに、瞳は乾いている。

 「私は、外に出てない」

 その言葉は、誰にも向けられていなかった。けれど、部屋全体に届いた。

茜が膝を折って、少女の視線の高さに降りた。「知っている。君を見た」

 少女は茜の顔を見、廉を見、モニターを見、白い部屋を見た。

 「扉、開けないで」

 懇願ではない。命令でもない。

 ただ、言っただけ。

 ただ、言うことが、いちばん強いときがある。


 嵐の音が遠のき、かわりに建物のどこかで水が落ちる音がした。

 天井の隅から、冷たい空気が降りてくる。観察室の空気は常に乾いているのに、今は喉に湿りがまとわりつく。

 廉はモニターの電源を切った。白い部屋は黒い四角になり、壁の焼け跡だけが生き物のように残る。

 「今日は、ここまで」

 彼は振り返り、十五人の顔を順に見た。

 「交代で休め。見張りは三人。壁の声は記録しない。耳で覚える。明日の三十秒、数字と否定。喉は鍵穴ではない」

 木場が手を挙げ、冗談めかして言った。「先生、罰ゲームはないの?」

 「罰は、もう充分にある」星野が代わりに答え、口元だけ少し笑った。

 笑いは、音にしない。

 音にしない笑いほど、長持ちする。

 長持ちするものに、言葉は勝てない。

 だから、言葉の形を変える。

 刃ではなく、鍵でもなく、楔にする。

 扉の縁に、小さな隙間をこじ開けるための楔に。


 地上へ戻る階段で、茜が廉の肩に並んだ。

 「ねえ、廉」

 「何だ」

 「さっきの声……もし、彼だとしても、彼はもう、彼じゃない」

 廉は答えなかった。

 “彼”という言葉は、すでに編集されている。ここでは、どの代名詞も、誰かの手のひらに乗る。

 階段の上の暗闇が、嵐の残り香で少しだけ明るい。

 非常灯は死んだまま、壁に緑の目玉だけ残した。

 中庭に出ると、雨は細くなっていた。

 山の稜線は見えない。だが、山が呼吸している音だけは、まだ聞こえる。

 吸って、吐く。

 吸って、吐く。

 そのリズムに合わせず、廉は一度だけ、大きく息を吸って吐いた。

 喉の奥に、冷たい空洞がある。

 あれは鍵穴ではない。

 何度でも、明日、言い直す。

 扉は、別のところにある。

 その扉の名を、自分の口で呼ぶまでは。

 白い部屋の前に貼られた紙片は、風に揺れず、ただ黒い線だけを残していた。

 〈告白の部屋〉

 その四文字が、今夜だけ、墓標のように見えた。

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