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『対面する館』 ──推理が遅れた方が、消える。  作者: 妙原奇天


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第5話 仕組まれた推理

 閉鎖階段の鍵は古く、錆びていた。

 錠前には茶色い粉がこびりつき、触るだけで指先がざらつく。星野が工具箱を持ち出し、ドライバーで南京錠の遊びを作る。木場が「貸せ」と短く言って代わり、力任せに引いた。錠前は悲鳴のような音を上げ、驚くほどあっけなく外れた。

 階段は下へ続いている。湿った土の匂いが、息の奥まで滲み込んでくる。非常灯が段ごとに点き、光の薄片がひとつずつ足元に置かれている。影もまた段の数だけ濃く、降りるたびに背中に別の影が乗る気がした。

 下り切った先は細い廊下。壁はコンクリートに白い塗装、床は灰色の樹脂。まっすぐの突き当たりに灰色の鉄扉が一枚。扉の脇に黒い受話器と押しボタン。

 廉が受話器を上げる。耳にまず入ってきたのは、砂を噛むようなノイズ。そして、その奥で男の声が笑った。

 「探求心に一点。扉の向こうは“観察に関係のない区域”だ。入るのは自由、戻れる保証はない」

 木場が鼻で笑い、受話器を奪うようにして切ると、扉の取っ手へ手をかけた。

 廉はその腕を掴んだ。

 「待て。戻れないのは扉のせいじゃない。戻る意志を折る仕掛けがある」

 「脅しかよ」

 「こういう場所で“自由”って言われたら、必ず罠がある」

 短い沈黙。星野が小さくうなずき、海老原はポケットからメモを出して、今日の日付と時刻を書いた。鷺沼は一歩、影の深い方へ身を寄せて、耳を澄ますように廊下の空気を聴いている。遠野は肩をすくめ、しかし目だけは扉の取っ手に釘づけだった。


 押す。

 わずかに重く、次の瞬間すっと軽くなる。

 扉の先は短いトンネルだった。壁際にモニターが腰の高さで並び、最初の一台は砂嵐、次の一台はA館の廊下を映す。もう一台はB館の談話室、さらに次はどちらとも判別できない白い部屋。映像は時折ぴたりと止まり、巻き戻り、また進む。人の笑い声が切れ切れに交じる。自分たちの声に似ている。

 廉は各画面の片隅、気味が悪いほど小さく重なっている数字列に目を留めた。

 〈A‐21:42/B‐21:12〉

 〈A‐21:45/B‐21:15〉

 〈A‐20:58/B‐—〉

 三十分の差を示すタグ。

 映像は“同時中継”ではない。選ばれた瞬間が、編集され、再生され、並べられている。音も時々別の場面から借りられている。A館の笑いの上にB館の足音。B館の悲鳴の上に、見知らぬ白い部屋の光のちらつき。

 誰かが編集している。

 背中に冷たい汗が一枚、貼りついた。剥がそうとしても剥がれない種類の冷たさ。

 木場は画面を睨みつけ、「やっぱり観客がいるんだよ」と吐き捨てた。「つなぎ合わせて、受けるところだけ見せて、退屈しないように曲げて──」

 海老原は別の画面を指した。「ここ、音が一拍遅れてる。口の動きと合わない。編集点だ。……いや、“意図的なズレ”かもしれない」

 遠野の顔が青くなる。「俺たち、上で喋ったこと、全部録られてるのか」

 「全部じゃない」星野が短く言った。「“使えるところだけ”。だから、最初から素材にされない言い方を選ぶべきだった」

 「難しいことを言うなよ」木場が笑い、笑いがすぐにほどけた。「難しいことを、簡単にやってくる連中がいるってことだな」


 廊下の突き当たりに、もう一枚の扉があった。

 プレートには手書きで「観察室」。安っぽい、学校の備品倉庫に貼られていたような書体。鍵はない。軽く押すと、扉は拍子抜けするほど容易に開いた。

 中は暗い。入った途端、天井のセンサーが白い光を落とす。

 壁一面のモニター。中央に操作卓。脇には録画用のサーバーラック。反対側の壁には、手の甲ほどの大きさの焼け跡。

 全員の視線が、焼け跡に吸い寄せられた。そこだけ壁紙が以前のまま剥き出しで、黒い煤が周囲へ滲んでいる。

 三年前の火災の黒が、ここにも重なっている。

 海老原が震えた声で言った。

 「……ここ、まさか、あの夜の──」

 星野がすぐに遮る。「違う。あの火は別棟。でも、ここで“再現”はできる」

 その言い方に、廉の背骨の奥で冷たいものが音を立てた。再現。見せるために──。

 操作卓には、押しボタンとスライダーと、紙の帳票。古い金庫の上に無造作に置かれたノートが一冊。焦げた縁、ページの隅に油の染み。表紙には何も書かれていない。

 廉は喉に小さな痛みを覚えながら、ノートを開いた。


 細かな文字。几帳面だが、急いでいる人の筆圧。

 目次のように見出しが並ぶ。

 〈再演計画〉

 ページをめくると、日付、参加者の選定理由、各自の過去の関与、観察の注意点。司会者の口上の原稿まで、言葉単位で記されている。

 廉は視線を走らせ、御子柴の名の横で止めた。

 薄く、鉛筆で消された線がある。

 〈“KIBA”紙片作成〉

 木場の顔が音を立てずに歪んだ。上唇が乾き、言葉は喉の奥で砂になった。

 「……俺の名前を書かせる脚本が、あるってことか」

 廉は呼吸を整え、さらにページを送る。

 〈鷺沼:視覚刺激に対する反応遅延/“見ている”の反復〉

 〈遠野:恐怖による回避行動/“扉境界”の固執〉

 〈星野:臨床判断の優先/情動の抑制〉

〈海老原:記録至上/編集嗜好・観客意識〉

 〈木場:反抗示威/“名指し”に対する攻撃性〉

 〈天城廉:整頓思考/“基準時刻”に執着〉

 廉は自分の項目の“執着”という単語に、ほんの一瞬だけ目を閉じた。表現は当たっている。だが、それは短所として書かれ、利用されるためにここへ置かれている。

 巻末近く、赤インクで短文が乗っていた。

 〈告白が鍵。声が扉を開ける〉

 文字は赤い。けれど、血の赤ではない。信号の赤だ。向こう側の人間が安全な場所から振る赤旗。

 意味はまだ完全ではない。だが、物語の方向は定まった。

 これは犯人当てゲームの仮面を被った、“告白の装置”。

 真相は論理で開くふりをして、実際には“言わせる”ことで開く。

 「告白をさせるための舞台……」海老原が乾いた声で言い、笑いの代わりに息を吐いた。「観客は“告白”が好きだ。終わりが良いから」

 「終わらせるために、誰かを押す」星野の声は平らだが、指先がわずかに強く握られている。「押す手に力が入るとき、背中の骨は折れやすい」

 「やめろよ」木場が言った。声は怒鳴りにもならず、まだ届くところで止まっている。「誰を押すつもりだ。俺か。違うなら、誰だ」

 返事は、すぐには誰の口からも出なかった。


 操作卓の隅に、銀色のトグルスイッチがあった。テプラで「外部再生」と貼ってある。

 廉が人差し指で触れると、軽い抵抗のあと、カチ、と音がして上に上がった。

 横のラックの一角がうなり、冷たい風がふっと吹いた。

 観察室の隅、段ボールの山。印刷用紙の箱、ガムテープの剥がれた蓋、ここではない時間のほこり。

 星野が箱を二つほどどける。木場がもう一つを脇に押す。

 奥に、古びたカセットレコーダーがあった。

 テープのラベルに油性ペンで書かれた文字。

 TAKUMA。

 「……タクマ?」遠野が呟く。

 廉の胸に、別の名前が痛みのように浮かんだ。

 悠真。

 三年前の火事で死んだ後輩。

 似ている。

 だが、違う。

 違うのに、似せられている。

 廉は再生ボタンを押した。


 巻き始めにカチカチと乾いた音がして、テープが回る。

 若い男の声が流れた。

 落ち着いた声。誰かに宛てた“説明”の調子。

 「これを聴いているなら、君は僕の死を“理解したい”側だ。ありがとう。けれど、それは同時に、君が嘘をついた誰かだということでもある」

 音が途切れ、テープが巻き戻る。

 同じ言葉が、少しだけ違う抑揚で、また流れる。

 「──理解したい側だ。ありがとう。けれど、それは同時に、君が嘘をついた誰かだ──」

 海老原が眉をひそめる。「ループ?」

 「再演」星野が短く言い、レコーダーの側面に貼られた小さなスイッチを指した。「自動巻き戻し。意図的に設定されてる」

 「誰に向けて?」遠野が声を立てない。「俺たちに? 観客に?」

 廉は答えられない。

 テープは、少しずつ抑揚を変え、間合いを変え、言葉の重さを変えながら、同じ文を繰り返す。

 再演。

 何度も、何度でも。

 言葉は、繰り返されるたびに別の意味を帯びる。

 「理解したい側」。

 ありがとう。

 嘘をついた誰か。

 廉は自分の喉が乾いていくのを感じた。舌の裏に鉄の味がぬるく広がる。

 “嘘”という語は、時間の層を圧縮する。火災の夜のあの一言──煙で何も見えなかった──が、別の声によって反復されている錯覚。

 手元のノートをめくる。

 〈音声誘導:“告白の鍵”の準備〉

 〈“見ている者”の存在を暗示/“あなた”の二人称の増加〉

 視線が自然と天井の角の黒点へ引かれていく。そこには小さなレンズ。いや、カメラというより“目”だ。

 木場が壁を拳で小さく叩いた。「観てろよ。お前がどんな編集をしようが、俺は──」

 「やめて」星野が制した。「叩く音も素材になる」

 「黙ってても素材だろ」

 「だから、使わせたい音だけを置く」廉が言った。「今は、数字と位置と、痕跡だけ」

 自分の声が、観察室の白い壁に反響して弱くなる。声は扉を開ける鍵になる。けれど同時に、勝手に開いてはいけない扉もある。


 操作卓にはログが残っていた。紙の端に印字された細い文字列。

 〈REC 21:12 A〉〈PLAY 21:12 B〉〈MIX A/B〉

 切り替えの刻印。

 廉は計算した。0.47分、約二十八秒。三十秒の通信。タグの位置。

 「三十秒の会話は、二十八秒遅れの編集点に合わせて切られる」海老原が指で紙をなぞる。「切れば、断面が見える。断面には繊維がある」

「繊維?」遠野の声は少し落ち着いた。

 「言葉の繊維。切り口のほつれ。合成すれば、そのほつれが残る」

 「証拠になるか?」木場は自分に問いかけるみたいに呟いた。

 「なる。相手が“映像の神”でない限り」

 海老原の言い方は、めずらしく自信があった。彼自身が長く画面を相手にしてきた人間だからだろう。


 鷺沼が観察室の隅に立ち、壁と壁の継ぎ目を見ていた。

 「ここ、薄い」

 廉が近づき、指で叩く。軽い音。

 「向こう側に、通路?」

 「空気の音がする」

 鷺沼は耳を寄せた。

 吸う、吐く、吸う、吐く。

 誰かの呼吸。

 いや、機械の呼吸。冷却ファンか、空調か。

 「生き物の音に似せてある」星野が言う。「安心させるために。あるいは、逆に怖がらせるために」

 「どっちだと思う」

 「両方」

 短い言い切り。

 廉はうなずき、ノートの隅に小さく書いた。〈呼吸音:演出〉。

 演出は、罠であり、手掛かりでもある。風景の中に置かれた“やりすぎ”は、置いた人の手癖を露わにする。


 観察室の壁に貼られた小さなホワイトボードに、油性ペンで書き込みがあった。

 〈明朝7:00 検証/遅刻=減点〉

 〈B館:扉チェック A館:階段〉

 同じ字で、端に斜線が二本。

 廉は昨日メモした“声の母音延長”を思い出した。遅刻の告知。減点。母音が長い。

 「告知の声と、この字、同じ“癖”だと思う」海老原が目を細めた。「トメ、ハネが甘い。すぐ抜く。喉も、語尾を抜く。……女でも男でもありうる。二つの仮面の間に滑り込むタイプの声」

 「何人もいるのかもしれない」遠野が壁の焼け跡を見ながら言う。「一人じゃないほうが、怖い」

 「一人の方が、怖いときもある」木場が覆いかぶさるように焼け跡を見下ろした。「全部、一人でやってるなら」

 みんな黙った。

 レコーダーは、同じ文をまた再生した。

 「これを聴いているなら、君は僕の死を“理解したい”側だ。ありがとう。けれど、それは同時に、君が嘘をついた誰かだ──」

 廉は無意識にボタンへ手を伸ばしたが、止めなかった。

 聞き続けること自体が、仕掛けの一部かもしれないからだ。

 “理解したい側”。

 その言葉は、罪悪感の膜の上をゆっくり滑り、やがて沈む。

 沈む音はしない。

 音がしない沈み方が、いちばん長く残る。


 「再演計画の“参加者の選定理由”をもう一度」星野が言った。「誰が、何の“役”でここにいるのか把握したい」

 廉はページを巻き戻し、読み上げる。

 〈A-01 星野:医療判断の権威性→集団の“安全幻想”の核〉

 〈A-02 木場:“指名”対象→怒りの導線形成〉

 〈A-03 海老原:記録→“観客視点”の内部化〉

 〈A-04 遠野:回避→扉境界の維持〉

 〈A-05 鷺沼:沈黙→“観察されている”幻の生成〉

 〈A-07 天城廉:整頓→基準の提示と“告白への道筋”設計〉

 読み上げるたび、それぞれの顔にわずかな影が差す。名前を“役”で縛られる感覚。自分の自由が、誰かのノートに既に記述されていたという事実。

 「役から降りる方法はあるか」遠野が低く問うた。

 「ある」廉は即答した。「“役を演じない”ことを演じる」

 木場が鼻で笑う。「めんどくせえ芝居だな」

 「めんどくさい芝居にしてやることが、向こうの編集を難しくする」

 「わざと台本を噛んでやるのね」海老原が頷く。「いい。観客は生放送の“事故”に弱い。事故は、編集できないから」


 観察室の空気が、ほんの少し乾いた。

 誰もが一つ、何かを掴んだ気がした瞬間だった。

 だが、その手応えは長く続かない。

 スピーカーが、床のどこかで小さく鳴った。

 「参加者の皆さん。観察に関係のない区域への滞留は減点対象です」

 母音が、最後だけ長い。

 木場がレコーダーの停止ボタンを押そうとして、やめた。

 海老原が代わりに、スイッチを切る。テープは静かに止まり、部屋の音が戻った。

 戻ったはずの音は、どこかでずれている。

 耳がずれに慣れ始めている。

 慣れは、罠だ。

 廉は観察室を引き払う合図をした。

 「ここは一度閉じる。戻る。上で“整頓”する。見つけたものを、向こうの“整頓”より早く並べ替える」


 階段を上がる。

 非常灯が段ごとに点き、影が段の数だけ濃くなって、背中に別々の影が乗る。来るときと同じはずの光景が、今度は別の意味で迫ってくる。

 踊り場で、木場がふと立ち止まった。

 「なあ」

 「何だ」

 「“告白が鍵”って、誰に告白するって意味だと思う」

 廉はすぐに答えなかった。

 喉の奥で、三年前の夜が音を立てる。

 煙で何も見えなかった、という自分の声。

 彼は一度、足元を見た。

 段の角の湿りが、靴のゴムに薄く貼りついている。

 「“見ている誰か”へ、だろう」

 「観客?」

「観客でもあり、犯人でもあり、ここの“扉”でもある誰かへ」

 言った途端、言葉の輪郭が刃になり、自分の胸の内側を軽く切った。

 星野が後ろから静かに言う。「誰か、じゃない可能性もある。対象は“誰か”ではなく、“ここ”」

 「ここに、告白する?」

 「箱は、声で開く」

 遠野が顔をしかめた。「気持ち悪い比喩だ」

 「比喩で済めばいいけど」

 星野の言い方は現実的だった。

 現実は、比喩よりも簡単で、容赦がない。


 上へ戻ると、廊下の時計は二十一時五十八分を指していた。

 A館の空気は、いつもと同じようで、少し違う。

 見えない何かが、並べ替えられた机や椅子の角を指で撫でて通ったみたいに、わずかなズレが残っている。

 掲示板の前で、鷺沼が立ち止まった。

 紙が一枚、裏向きに貼られている。

 彼はためらいなく角をめくり、表を見た。

 白い紙に黒い明朝体。

 〈次の“検証者”:天城〉

 廉の名前。

 木場が舌打ちをしかけ、やめた。

 海老原が指で紙の縁をなぞり、光を斜めに当てる。

 鉛筆の押し痕。

 薄く、しかし確かにある文字。

 〈声〉

 「告白が鍵。声が扉を開ける」星野が低く復唱した。「ここで、あなたが何かを言うと、扉が開く」

 「何を言えばいい」遠野の声は震えてはいなかった。「“俺はやってない”か」

 「“俺がやった”か」木場が自分を笑うみたいに言った。「言わせたいのは、こっちだろ」

 廉は掲示板の紙から目を離し、鏡の方を見た。

 鏡は、昨日と同じように、曇りの下に薄い指跡を四本残している。

 五本目は、ない。

 自分の顔が映る。

 口が、わずかに開いて閉じる。

 言葉は、まだ出ない。

 出したくない言葉も、ある。

 出すべき言葉も、ある。

 その仕分けが、整頓の最後の仕事だ。


 夜は、音をひとつずつ減らしながら深くなる。

 天井のスピーカーが、遠くの部屋で誰かの息を吸い、吐く音を拾う。

 観察室のレコーダーは、きっと今も、同じ文を繰り返している。

 「これを聴いているなら、君は僕の死を“理解したい”側だ。ありがとう。けれど、それは同時に、君が嘘をついた誰かだ──」

 廉は、その“誰か”に自分を含める勇気があるかどうか、自問しながら目を閉じた。

 閉じた瞼の裏で、数字が並ぶ。

 A‐21:42/B‐21:12。

 0.47。

 告白。

 声。

 扉。

 扉の向こうに、誰の顔が待っている。

 観客の顔は、いつだって見えない。

 見えない顔が、いちばんよく笑う。

 その笑いに、言葉は負けやすい。

 負けない言葉を探す。

 負けないために、言わない、という選択もある。

 協力か、沈黙か。

 ここではいつも、選択の言葉が、先に罠になる。

 廉はゆっくり息を吸い、吐いた。

 吸う。吐く。

 壁の中の呼吸と、今は、合わない。

 合わないことが、救いだった。


 深夜、廊下の片隅で、誰かの影が立ち止まる気配がした。

 廉が目を向けるより早く、影は消えた。

 残ったのは、床に落ちた小さな黒い粉。

 指で拾い上げる。

 鉛筆の粉に似ている。

 観察室の南京錠の縁に見た、あの乾いた黒と同じ。

ここと向こうは、細い線でつながっている。

 線は、見えない。

 だが、たしかに引かれている。

 誰かが張り、誰かが引き、誰かが切る。

 切れ端は、いつもこちら側に落ちる。

 その切れ端で、こちらが罠を作り返す番だ。

 整頓は、罠の作り方と似ている。

 何を置き、何を置かないか。

 何を見せ、何を見せないか。

 明日の朝、三十秒。

 茜に何を渡し、何を渡さないか。

 A‐とB‐の差が開くほど、言葉は短く、硬く、刺さる形でなければならない。

 刺さる言葉は、血を出す。

 血は匂いを呼ぶ。

 匂いに集まるものを、こちらが観察する。

 観察の矢印を、ひっくり返す。

 それが、今できる最初の反撃だ。


 廉は掲示板の紙を折り、ポケットに滑り込ませた。

 KIBAの紙片と同じ場所。

 紙と紙が触れ合い、小さな音がした。

 音は、誰にも聞こえない。

 聞こえない音は、長持ちする。

 長持ちするものだけが、次の扉を押し開ける。

 扉は、声で開く。

 声は、刃にもなる。

 刃を握る手が震えたら、刃は自分を切る。

 震えを止めるのは、数字と整頓と、目の前の仲間の呼吸の数だ。

 彼はゆっくりと、紙の角を四度折った。

 折り目が矢印に似た形になった。

 矢印の先は、今は、内側を指している。

 内側に向けて、明日の言葉を研ぐ。

 観客のいないところで。

 誰にも見せずに。

 息を整えながら。

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