第4話 協力か、沈黙か
朝の光は薄かった。雲の色が壁紙の上に滲み、非常灯の緑だけが生き物の目のように光っていた。
A館は、分裂しかけていた。
木場が疑われ、遠野は距離を取り、海老原は記録を盾にして信用を要求する。星野は医療の言葉で正確に語るが、体温をどこかへ置き忘れてきたみたいに聞こえる。鷺沼はほとんど喋らず、窓の外の林の黒を見ている。
廉はテーブルの角に紙を一枚広げ、鉛筆で四つの項目を書き出した。
①出入口の物理的検証
②時計の系統確認
③行動記録の穴埋め
④B館情報との照合
推理は、整頓から始まる。派手にカードを切る者が出てくる前に、こちらの手札を数えなければならない。
「出入口からやる」
廉がそう言うと、木場が鼻を鳴らした。
「俺の首を絞める話になる前に、先に扉をいじるってわけか」
「扉じゃない」廉は紙を折り、ポケットへしまった。「扉“以外”も、だ」
廊下は湿っていた。夜のあいだに吸った水を、木の床がまだ吐ききれていない。靴底から冷たさが上ってくる。
二階廊下の突き当たりで、廉は足を止めた。
壁の木目が、ひと筋だけ縦に細く切れている。
叩くと、鈍い音が返った。空洞の音だ。
「巾木を浮かせる。ドライバーを」
星野が道具箱から細いドライバーを渡す。廉は金具の隙間に刃先を入れ、少しずつこじる。爪で紙を剥がすみたいに、音を立てないように。
ぱり、と乾いた音。巾木が数センチ浮いた。
暗い隙間。古い配管のような通気ダクトが、奥へ伸びている。手首がやっと入る幅。人が通れる太さではない。
だが、糸や細線なら、自在に通せる。
「……ここから、“力”を供給できる」廉は独り言のように言った。「食堂のチェーンに、外から触れずに“内側の手”を作る」
「誰が、どこから」遠野の声は堅い。「何のために」
「それをこれから考える」
考えが回り始めたとき、スピーカーが喉を鳴らすようにかすかに鳴った。
「参加者の皆さん、静かに。不要な破壊は減点対象です」
海老原が顔を上げる。「減点ってなんだよ。誰が採点する」
声は答えない。
星野が囁いた。「見られてる」
その一言が、巾木の裏の暗さを急に重くした。覗き込む目がこちらにもある、と思うだけで、穴は穴でなくなる。
時計の系統確認は、誰の目にも退屈な作業に見えた。だが、厄介なのは退屈なものの方だ。
食堂、ラウンジ、廊下の壁、各部屋。針がどこかだけ遅れていないか、進んでいないか。電池交換の痕跡。背面のネジの状態。
廊下の時計は、裏に薄い紙片がテープで留められていた。紙の片側が汗のように湿っている。剥がして読むと、鉛筆の数字。
0.47。
あの数字と同じ。
「見つけたのは誰?」
「俺だ」鷺沼が手を挙げた。いつからそこにいたのか、壁にもたれていた。「さっき、風で少し浮いた」
「風?」遠野が眉をひそめる。「窓は閉まってる」
「風に似たものだよ」
鷺沼はそれしか言わない。それ以上言葉を与えない人間の口は、扉より頑丈だ。
行動記録の穴埋めは、思ったよりも難航した。夜の断片を言葉に変換するたび、全員の脳の中で時間が別の形になる。
「停電の瞬間、何をしてた?」
「靴紐を結び直していた」
「階段の踊り場で外の雨を見てた」
「ベランダに出ようとして引っかかった」
「廊下の突き当たりで壁を見ていた」
「鏡を拭いた」
どれも、嘘に見えるほど無害で、無害に見えるほど嘘だった。
「B館からの照合がいる」廉は紙に矢印を増やした。「三十分のズレ。こっちの二十一時四十二分は、向こうの二十一時十二分。出来事が同じでも、違う箱へ入れられてしまう」
海老原が頷く。「同時性は、演出できる。音だけ焼き直して重ねれば、別の時間の悲鳴も“今”になる」
星野は腕時計を外して机に置いた。
「私の秒針は、壁のより少し早い」
「それも書く」廉は言った。「私物の時計系も、差を明記しておこう」
取りまとめる手は忙しいのに、心の中ではずっと別の何かが、靴の砂利のように音を立て続けていた。御子柴の指の跡。KIBAの四文字。糸の傷。壁の中の、呼吸のような音。
昼の終わり、スピーカーが通信を告げた。
連絡所の柵の向こう、B館の扉が開き、茜が現れる。顔色はよくないが、視線は曇らない。
赤いランプが点滅を始め、背中で秒が呼吸する。
茜は紙切れ一枚を、柵の隙間から滑らせた。
鉛筆の走り書き。
〈A館の二十一時四十二分=B館の二十一時十二分。三十分ズレ。昨日の悲鳴の“同時性”は演出の可能性大〉
廉は頷き、用意していたメモを同じように差し入れる。
〈食堂密室概略。チェーン、糸操作痕。窓はすべて内側固定。換気口は不可。糸の経路は二階廊下突き当たりの通気ダクトへ続く可能性〉
茜の目が、一瞬だけ笑った。
「了解」
声は短く、正確に切り取られている。柵が閉まる直前、彼女は目だけで合図をした。
──あとで、必ず確かめたいことがある。
言葉に出ない言葉が、こちらの胸に刺さって残る。
柵が音もなく閉じ、山の白い息が場を冷やした。
夕方。台車で運ばれてきた夕食のトレーは、安っぽいカレーの匂いがした。温かいはずなのに、口に入れると何も味がしない。舌が先に疲れている。
A館で「内通者」という言葉が出たのは、スプーンの音が三度続いたあとだった。
海老原が言った。
「掲示板の予告。あれを貼れるタイミングにそこにいたのは誰だ?」
遠野は露骨に顔を背ける。
「俺は関係ない。自分の部屋にいた」
「その“部屋にいた”を証明するのは誰?」海老原の声は柔らかい。「観客か?」
星野は包丁をまな板に置いた。
「問い方が拙い」
彼女はそれだけ言った。
木場は笑い、煙草を指の間で弄んだ。火はつけない。
「俺の名前を“遺して”殺したやつがいる。俺を吊れば満足か? それで終わるなら、今すぐロープでも台所から持ってこいよ」
「ロープは、どこにある」鷺沼が初めて言葉を挟んだ。「ないものに吊られるのは、いつも言葉だ」
空気が、わずかに傾いた。
廉は席を立ち、壁の時計を指した。
「時間を疑え。人間は時計ほど正確じゃない。だが、時計は人間ほど器用に嘘をつけない。もし“二つの時計”を常に見比べる目があったなら、その人間は──」
そこで、電気が落ちた。
廊下の照明が一瞬にして消え、同時に台所で低い爆ぜ音。
炎の色が床に滲み、誰かが短く叫び、スプーンが床を跳ねる金属音が連鎖した。
煙の匂い。
三年前の夜の匂いが、わずかに混じった。
廉の喉が縮む。
足が先に動く。
台所へ駆け込み、元栓をひねる。星野が消火器を引き抜き、ためらいのない動作でレバーを握った。白い粉が唸り、炎が縮む。
「離れて!」星野の声は、正確だった。
火はすぐに消えた。
だが、床に、黒いススで描かれた矢印が鮮やかに残った。
矢は、廊下の端を指している。
閉鎖された階段へ。
黄色い“立入禁止”のテープ。古い南京錠がひとつ。錆の赤が、血の色に似ていた。
誰かが、そこへ行けと言っている。
海老原が写真を撮ろうとして、指を止めた。
「これ、誰に見せるための矢印なんだ?」
廉は返さなかった。
自分たちのためだけではない。見ている誰かのための“演出”。
「観客のためだ」木場が低く言った。「やつらを退屈させないための合図だ」
「退屈の定義を、あいつらが決めるのか」遠野の声には、怒りより先に疲れがあった。
「決めさせる必要はない」星野が割って入り、矢印の先でしゃがみ込む。「ここ、空気が違う。冷たい」
廉は南京錠に触れた。手袋越しでも冷たさが骨に入る。長く誰も触れていない冷たさじゃない。今、冷やされたような冷たさ。
鍵穴の縁に、粉のような黒が薄く付着している。
ススではない。
鉛筆の粉に似た、乾いた黒。
「開けるのは、今じゃない」廉は手を引っ込めた。「開けた瞬間、何かが“始まる”。準備なしに踏み込めば、始まるのは向こうの都合だ」
「じゃあ、どうする」木場が突き放すように言う。「また“整頓”か」
「整頓は、続ける。だが、同時に向こうの整頓を乱す」
「どうやって」
廉は少し迷ってから、ポケットの紙を取り出した。B館との交換メモの余白に、0.47と書かれている。
「数字を武器にする。相手が時間で遊ぶなら、時間を奪う。三十秒の通信の最初に必ず“基準時刻”を宣言して、互いの会話をその分だけずらしてやる。合わせるための会話を、ずらすための会話に変える」
「意味があるのか」遠野の眉間に皺が寄る。
「ある。“同時性”を崩せば、観客は編集で補う必要が出てくる。編集すれば、痕跡が残る」
海老原が薄く笑った。「編集痕は、記録の皺だ」
「皺は、光を拾う。皺を見つけたら、そこへ光を当てる」
言いながら、廉は自分を励ましているのだとわかった。恐怖の上に言葉を重ねて厚みを作り、その上に立つ。
スピーカーが、天井のどこかで空気を吸った。
「参加者の皆さん。階段の封鎖は安全のためです。破壊は減点対象です」
また“減点”。
「誰が採点を」海老原が天井に向かって囁く。
答えは、ない。
壁の鏡が、わずかに曇っていた。
曇りの向こうで、自分たちの姿が半拍だけ遅れて動く。
昨日も、今日も、同じ。
反復は安心のふりをする恐怖だ。
安心に寄りかかれば、誰かが背中を押す。
押された体は、階段の方へ転がるだろう。
だから、今は開けない。
開けさせない。
廉は南京錠から手を離し、皆をラウンジへ戻した。
夜。A館の空気は、少し乾いた。
各自が自分の小さな役割を持ち、机の位置や椅子の角度の微調整に意味を見つけ始めると、恐怖はわずかに形を変える。
星野は救急バッグのリストを更新し、欠品を声に出して確認してからまた閉じる。
海老原はメモを清書し、紙の端に折り目を付け、折り目の数で優先順位を示した。
遠野は部屋に籠りがちだが、廊下の音に合わせて扉の鍵を一度だけ回す癖をつけた。自分で自分に合図を送る儀式。
木場は、喫煙所へ行く回数を意地のように減らした。誰かに見られている場所で堂々とする勇気と、見られない場所でしゅんとする弱さの間に、誰でも橋を渡せるわけではない。
鷺沼は、窓の外の黒を見続けた。
「何が見える」
廉が訊くと、鷺沼は少し考えてから言った。
「見えないもの」
「それは、いつから」
「昔から」
それ以上は出てこない。言葉は痩せているが、骨は強い。
深夜に少し手前、スピーカーが低く嗤うように鳴った。
嗤いは錯覚かもしれないが、耳は一度覚えたものを何度でも拾う。
「観察は続きます」
短い宣告。
観察は続く。
誰のために。
その問いは、返ってこない。
返ってこない問いは、頭の奥で何度も反響し、やがて別の音に混ざる。
壁の向こうの呼吸。
鏡の裏の微かな指先の音。
階段の南京錠の金属が冷える音。
どれも、人が勝手に名前をつけるまで、ただの音にすぎない。
名前をつけた瞬間、音は意味になり、意味は刃になる。
廉は紙を広げ、今日の終わりの整頓をした。
出入口の検証──突き当たりの隙間、通気ダクト。糸。
時計の系統──0.47。壁の裏の紙。私物の差。
行動記録──空白。言えない空白、言いたくない空白、言っても伝わらない空白。
B館との照合──三十分。悲鳴。メモ交換。茜の目。
そして、最後に矢印。
黒いススの矢印は、まだ床に残っている。
消そうと思えば消せるはずのものが、わざと残されている。
「これを消す?」
星野が訊いた。
「消さない」廉は首を振る。「“残っている”という事実が、向こうに何をさせるか、見ておきたい」
「見て、どうする」木場が苛立ちを隠さずに言う。
「見られているなら、こちらも見る。向こうが期待する“次の画”から、半歩ずれる」
遠野が笑いともため息ともつかない息を漏らした。「半歩で足りるか」
「足りないだろう」
「じゃあ、どうする」
「半歩を、何度も踏む」
言ってから自分で苦笑した。頼りない。でも、今は他に言いようがない。
海老原が椅子の背にもたれ、天井を見た。
「観客がいるとして、あいつらは“協力”と“沈黙”のどっちを好む?」
「協力は、物語を進める」星野が答える。「沈黙は、物語を止める」
「じゃあ、どっちが退屈しない」
その問いに、誰もすぐには答えなかった。
協力すれば、誰かの手のひらで転がされる。沈黙すれば、誰かの台本が遅れる。
どちらにも罠がある。
罠の中で選ぶ選択に、正解はない。
正解がないことを認める声が、最も静かに強い。
夜が深くなった。
外で、枝が一本折れた。
静けさは、音のないことではない。小さな音が、遠くまで届く状態のことだ。
廉は立ち上がり、廊下の端まで歩いた。
閉鎖された階段の前で足を止める。
黒い矢印は、相変わらず先を指している。
南京錠は冷たい。
鍵穴の縁の黒は、粉のまま残っている。
それを爪の先で少し擦り、指に付いた粉の匂いを嗅いだ。
匂いはない。
匂いのない黒は、記号だ。
記号は、読む者がいないと意味を持たない。
読む者がいない時間が、この階段にはまだある。
その時間を、こちらの都合で使う。
廉はそれだけを決めて、背を向けた。
戻る途中、鏡が視界の端で動いた。
動いたのは自分ではない。
鏡の向こうで、誰かの手が、ガラスの内側からそっと表面を撫でた。
指の跡が曇りに四本、等間隔に残る。
五本目は、やはりない。
足が止まる。
息が浅くなる。
手は伸びない。
伸ばした手が掴むのは、鏡の向こう側の空気だ。
空気は形を持たない。
形を持たないものには、刃も刺さらない。
だから、今は見ているだけでいい。
見ているだけの目が、いちばんよく覚える。
背後で、木場が低く言った。
「協力するのか、黙るのか」
廉は振り返らずに答えた。
「どっちもやる。必要なときに、必要なだけ」
沈黙が、返事の代わりに廊下へ広がる。
その沈黙の上に、遠くのスピーカーが、また言葉を落とした。
「参加者の皆さん。次の検証は、明朝七時。遅れた場合は減点対象です」
声は機械のように均一で、最後の母音だけが、少し長い。
長さは、癖だ。
癖は、隠せない。
隠せないものが、鍵になる。
廉は紙に小さく書いた。
〈声の母音延長〉
書いた字が、自分の字に見えなかった。
自分の字が、自分のものに見えないとき、人は自分の体を他人のものように扱う。
体は、舞台の小道具でもある。
壊れやすく、代えがない。
明日、矢印の先を開けるなら、代えのないものを置き去りにする覚悟がいる。
覚悟は、数字では測れない。
だが、数字の外へ出ないと、扉は開かない。
非常灯が、ほんのわずかに光を落とした。
闇は、見慣れても怖い。
怖さは、選べる。
使うか、使われるか。
廉は目を閉じ、吸って、吐いた。
吸う。吐く。
壁の向こうの呼吸と、自分の呼吸の間に、一枚、薄い紙が挟まっている。
紙には、短い矢印が描かれている。
矢印の先が、扉を指している。
扉の向こうで、誰かが静かに笑っている。
笑いは、音にならない。
音にしない笑いほど、長持ちする。
A館の夜は、そうして、もう一段深く沈んだ。
協力か、沈黙か。
その二択を与えたのは、向こうだ。
こちらが選ぶのは、いつ選ぶか、だ。
選ぶ時を、こちらの手に戻すために、明日の朝まで、紙と息を整える。
整えることだけは、誰にも見せたくない。
だから、今は何も言わない。
黙りながら、指先で紙の角を四度折る。
折り目が、矢印に似た形になる。
矢印は、こちらの内側を指していた。




