第3話 最初の死体(反復)と密室の骨
予告の時刻が近づくほど、A館の空気は二つに割れていった。獲物を追う目と、出口を探す目。
木場はわざと平常どおりを演じ、喫煙所のベンチに腰を下ろして空を見ていた。悪い冗談を引き延ばすみたいに片足を組み、指でライターを転がす。火はつけない。吸おうとするしぐさだけが、空気をからかう。
「予告なんて脅しだ。俺は行動は変えない」
その声を、海老原は遠目に見張りながら聞いた。柱の陰、スマホの黒い画面に自分の顔を映し、何も映らないことを確かめるように角度を変える。
星野は保健室から借りた救急バッグの中身を床に並べ、包帯や消毒液の数を声に出して数え、また丁寧に戻していた。戻すたび、指先の震えが少しだけ収まるのが自分でも分かるのだろう。
遠野は早々に自室へ引っ込み、鍵を二度回してから、ベッドに腰を下ろす音を立てたきり。廊下の足音が近づくとベッド板がわずかに鳴る。誰かが通り過ぎるまで息を止める癖があるらしい。
御子柴はラウンジの隅のテーブルで、オフラインのノートPCに日誌を打っていた。自分の恐怖を文章化して、数式に変える人間。キーを叩く速度は早いが、時々とまって、画面に映る自分の影の輪郭を指でなぞる。
鷺沼は廊下の端に立ち、壁の時計を見ていた。秒針が一周するたび、彼の喉仏も小さく上下する。音のないメトロノームに喉で拍を刻むみたいに。
自分は、と廉は思う。見取り図を頭の裏側で何度も反芻し、導線を指でなぞる。食堂、倉庫、資料室、屋上へ続く封鎖階段、二階トイレ、喫煙所、ベランダ。死ぬべき時刻に死ぬための導線は、いつでも不自然になる。そこに嘘が現れる。誰かが「自然さ」を作るために、何かを演じ始める。
二十一時二十九分。非常灯がまた一段落ちた。
光がちぎれ、廊下に線香の最後の煙のような匂いが漂う。次いで、床下から空気が押し上がるような気配。建物の肺がゆっくり吐いている。
廉は喫煙所に走り、木場の肩を掴んだ。
「場所を移れ。予告は“場”も指定しているかもしれない」
「動いた方が狙われる」木場は肩を振りほどきかけ、遠くの食堂の方へ顔を向けた。「今、音が──」
二人で駆けた。
食堂の扉にはチェーン。金属の輪が、内側から外へ向けてわずかに引き延ばされている。窓はすべてクレセント錠がかかり、アルミのつまみは垂直に揃っていた。
扉の隙間から覗くと、床に人影。
「離れろ」
木場が肩で扉に体当たりし、廉は廊下の工具入れから借りてきたペンチを引き抜いた。なぜ、こんな場所に都合よくペンチがある。問いは喉の奥に押し戻す。金具にかませ、息を止め、力を込める。
チェーンが、骨のような音を立てて切れた。
扉が開く。
床に横たわっていたのは──木場では、なかった。
御子柴だった。
頸部の両側に鬱血痕。皮膚の下に押し込まれた血が、紫色にたまっている。口は半分開き、舌先が乾いていた。
右手にはボールペン。
床には擦れた跡が残っている。伸ばしかけた腕が、何かを書こうとして、滑った。
廉は指先の間に紙片を見つけ、そっと抜き取った。
英字で一語だけ。
KIBA。
木場は青ざめ、紙片から目を離せなかった。
「俺じゃない」
声は乾いていた。喉につまった砂を吐くような音。
「俺じゃない。俺は喫煙所にいた。あんたが見てる。俺は──」
「落ち着け」廉は低く言った。「今は、現場を崩すな」
密室の条件は、先刻よりも堅かった。
扉はチェーン。窓は施錠。サッシの隙間には気配もなく、クレセント錠の根元に目立った細工はない。天井の換気口は、格子の隙間を指一本がやっと通るほど。人がすり抜ける大きさではない。
台所側の勝手口は錆びついて、蝶番が茶色い涙を流している。内側に、風の筋すらない均一の埃。
誰かが中で絞め、外へ出て、なお内側からチェーンをかける方法。
廉の指先がチェーンの金具をなぞった。金具の根元に、細い傷がある。何かが引かれた痕。
視線がテーブルの角、椅子の脚、窓の取っ手へ移動する。まぶたの裏で、見えない線が結ばれる。
糸だ、と脳が言う。
誰かが、糸を張った。扉の内側からチェーンを通し、遠隔で引いて、外にいる自分たちの目の前で「内側から閉められた」ように見せた。
糸は回収されている。
犯人は“演者”だ。芝居の手口を誇る人間。観客を意識し、観客の予想と反応まで含めて作品として計画するやつ。
廉は舌の裏が乾くのを感じ、唇を噛んだ。血の味が鉄のように口に広がる。
「写真だけ撮らせろ」海老原がカメラを取り出した。
廉は腕を抑え、「待て」と言った。
「記録は真実の味方だ」
「記録は、誰の手に渡る」
「観客の」
その言葉の響きに、星野の肩が微かにすくんだ。彼女は死斑の出方を確かめるように御子柴の頰を見、冷たい呼気のない口元へ視線を落とし、「二十分は経っていない」と静かに言った。
遠野は部屋に入ってこない。敷居の外に立ったまま、口元だけを歪めた。「俺はこういうの苦手なんだよ」
「苦手なものは、よく見える」鷺沼が時計を見上げたまま呟いた。「見ないようにしても、視界に残るから」
壁の針は二十一時三十七分を指していた。
廉は針の位置を目に焼きつける。昨夜、第一の事件は二十一時十二分。予告の紙にあった刻印は二十一時三十分。時刻はいつも、人の記憶に残りやすい“半”や“十二分”に寄っている。誰かが時計を作品として使っている。
「KIBAは、死に際の指差しの代わりか、誘導か」
木場が拳を握る。「俺じゃないと言ってるだろ。俺はずっと外に──」
「“外にいた”ことを誰が保証する」海老原が木場の顔のすぐ近くで言った。低い、柔らかい声。「観客か。観客に向けて動いた人間のアリバイは、観客が決める。つまり、誰でもない」
木場は胸ポケットに手を入れ、昨日のカッターナイフを探した。何も触れない。
床に落ちていた。
刃は出ていないのに、ハンドルの溝に薄い赤が残っている。
「血……」星野が吸い込むように言う。「でも、刺された痕はない。首だ。絞められてる。これは関係ない血か」
「関係なくはない」廉は、紙片をもう一度見た。KIBA。木場。
誘導は、犯人を指すふりをして、犯人に向かせた視線をどこかへ外すために使われる。
視線が集まる場所は、最も安全になる。安全な場所に、犯人は立てる。
「チェーンの内側に糸の痕がある」廉は全員に聞こえるように言った。「扉、テーブルの角、椅子の脚、窓の取っ手。目に見えない線で結べば、内側から指で引っ張るみたいにチェーンをかけられる。糸は回収できる」
「そういうの、テレビで見たことがある」遠野が顔をしかめる。「でも、そんな器用なこと、短時間で」
「短時間に見えるように、長い時間を使うのが舞台の手だ」海老原が答えた。「昼のうちに“仕掛け”を仕込み、夜に“上演”する」
「上演?」木場が吐き捨てる。「ふざけるなよ」
「ふざけてなどいない。ここは箱庭だ。観客に見せるための仕組みが、壁の中にも鏡の裏にも入っている」
鷺沼がゆっくりと首を振った。「鏡は、呼吸をする」
誰も笑わなかった。
だが、言葉は全員の耳の奥にひきずった。鏡の裏の、暗い空洞に小さな肺がある図を想像させる言い方だったからだ。
御子柴のポケットからメモ用紙の束が見つかった。片側だけが濡れている。乾き方が不自然だ。
廉は一枚ずつめくり、ペンで強く押しつけた跡を探した。跡は、KIBAのKの斜めの線の部分が深い。他の線は薄い。
「書こうとしたのは、これだけじゃない」廉は言った。「書き直そうとして、時間がなかった」
「時間?」星野が問う。
「二十一時三十分。予告。彼は、それに間に合わせる必要があった」
遠野が顔を上げた。「誘導のために?」
「逆だ。助けを呼ぶために。予告は犯人に味方する。犯人は“予告に従う”。彼はそれを知って、逆用しようとした」
木場が、胸の前で腕を組み、視線を床に落とした。「俺の名前を書く必要がどこにある」
「お前に向けて書いたのかどうかは、まだわからない」廉は紙片を握りしめた。「KIBA。木場。基盤。牙。いくつかの読みができる。英字で書かれている時点で、受け取る側の頭に“木場”という音を先に走らせる狙いがある」
「言葉遊びに命が乗るかよ」
「言葉は、時々、命より重い」
廉の声は、自分のものとは思えないほど冷たかった。
スピーカーが、遠くの部屋から誰かの笑いを吸い込んでくるみたいに鳴った。
「観客の皆さん、見ていますか」
抑揚のない男の声。笑いの尾が長く残る。
星野が身をすくめ、海老原は顔を上げた。
「見ているね」
「やめろ」木場が低く言った。
「見られているのをやめる方法はない。やめられるのは、見せ方だけだ」
海老原の両眼は乾いていた。涙腺を切り離したように、静かな目だ。
廉は言った。「三十秒の通信で、茜に伝える。御子柴、食堂、密室、KIBA。時刻。チェーンの痕。鏡。糸。あと──」
彼は小さく息を吸い、吐いた。「こっちの時計は、今、二十一時四十二分」
海老原の眉がわずかに動く。「昨日の“誤差”の話か」
廉は頷いた。紙片の裏に、あの数字を書いた。0.47。
「この箱の時間は、誰かの指でずらされる。ずらされた時間に合わせて動いた者は、同時に別の箱では“その時間を生きていない”。二つの館をつなぐのは、三十秒だけだ。その三十秒に、互いの時間を“擦り合わせる”」
「擦り合わせ?」星野の声は弱いが、芯がある。
「合わない音叉を、強引にぶつける。波が乱れる。その乱れの縁に、嘘が泡立つ」
木場は舌打ちした。「比喩は結構だ。俺はどうすりゃいい」
「一人にならないこと、だ」廉は言った。「そして、自分の動線を自分で説明できる言葉にしておく。観客用ではなく、俺たち自身のために」
その瞬間、廊下の奥で小さな音がした。
紙の破れる音。
掲示板の前へ行くと、角に挟まれていた薄い紙が、二つに裂けて床に落ちていた。昨日の「次の被害者」告知の紙の、裏打ちに使われていた薄紙。
破れ目の縁に、微かな鉛筆の粉が残っている。
誰かが、指で触れたあと。
触れる必要のないものに、触れる人間。
触れずにいられない人間。
通信の時間が来た。
連絡所の柵の向こうに、B館の扉が開き、茜が現れた。
顔色は悪い。目の下に薄い影ができている。だが、視線は真っ直ぐで、言葉を選ぶ沈黙は短いままだった。
赤いランプが点滅し、背後で秒の表示が小さく呼吸する。
廉は一気に言った。「御子柴。食堂密室。窒息。指には紙片、英字で“KIBA”。チェーンに糸の痕。鏡の厚み。今、こっちは二十一時四十二分だ」
茜は頷き、短く返す。「B館、一人が見えない。足取りは部屋から廊下、外扉の方。外への道はないはず。でも足跡が途切れてる。そっち二十一時四十二分? こっちは二十一時十二分」
廉は息を飲んだ。
三十分。
遅れている。
茜の声が続く。「“悲鳴”は二十一時台、女の声の複数証言。出所は未特定。私の体感でも、時間が二重に進む。誰かが“前の時間”を再生しているみたいに」
ランプが一回、強く光り、数字がゼロになった。
柵が音もなく閉じる。
山の冷気が濃くなり、廉の皮膚を内側から撫でた。
時間が二つある。
どちらか、あるいは両方が演出だ。
廊下を戻る途中、壁の鏡の縁を何かが軽く叩いた。
カン、カン、と二度。
昨日と同じ音。
反復は、安心のふりをした恐怖だ。
同じ音が二度鳴れば、人は三度目を待つ。
三度目を待つ耳は、音を作る。
音を作る心を、誰かが使う。
廉は歩を緩めず、鏡に背を向けた。
自分の背中がガラスに映り、ガラスの向こうの背中は、ほんのわずかに遅れて、別の方向へ曲がった気がした。
部屋に戻ると、海老原が薄い笑いを浮かべて言った。「時間が三十ずれた。通信は三十。誰かが“会話の長さ”を、時計の差に埋め込んだ」
「会話は、時間を削る刃物だ」遠野が壁にもたれながら吐き捨てた。「しゃべればしゃべるほど、向こうは俺たちの言葉を素材にして彫刻する」
「素材がなければ、彫れない」星野が顔を上げた。小さな声だが、夜の底まで届く。
「素材を断てば、私たちも沈む」
沈黙が、短く、深く落ちた。
沈黙の底から、鷺沼の声が上がってきた。「……御子柴のPC、電源を落としてやれ。画面に写るもんは、鏡とそんなに違わない」
廉は頷き、そっとPCの蓋を閉じた。液晶に残った自分の影が、遅れて消える。
消えたはずの影が、消える前の位置に一瞬戻った気がした。
その違和感を言葉にする前に、非常灯がまた一段、落ちた。
薄闇が、また少し濃くなる。
濃くなるたび、誰かの呼吸が壁の中で整っていく。
観客の呼吸か、演者の呼吸か、それとも自分たちの恐怖の音か。
区別は、すでに意味をなくしている。
意味をなくしたものから、舞台は作られる。
舞台の骨は、密室の骨より硬い。
折るには、もっと多くの嘘と真実が必要だ。
廉は、紙片を折りたたみ、ポケットにしまった。 KIBA。
この四文字は、指し示すふりをしながら、こちらの眼球を掴んで引っ張る。
引っ張られた視線の先に、何がある。
鏡か、穴か、あるいは舞台の幕の継ぎ目か。
彼は、唇の内側を噛んで血の味を確かめ、目を閉じた。
次の三十秒で、何を切り出し、何を切り捨てるか。
その順番を間違えた者から、舞台の外へ落ちる。
落ちた者を、観客は顔も見せずに数える。
数える指は五本。
さっき突き当たりの壁で見た湿った手形には、指が四本しかなかった。
欠けた一本は、誰の喉へ残されるのか。
誰にも言わず、廉はその問いだけを胸の幕の裏へ押し込み、もう一度、廊下の時計を見上げた。
二十一時四十五分。
時間は動いている。
けれど、動いているのは、誰の時間か。
彼は呼吸を数え、数えた呼吸の数を忘れた。
忘れる速度が、今日の彼を生かすか、殺すか。
ここでは、そのどちらも、同じ顔をしている。




