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『対面する館』 ──推理が遅れた方が、消える。  作者: 妙原奇天


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第2話 二つの館、十五の秘密

 夜の残り香は、体温の抜けた部屋にしつこく居座った。

 佐久間の体は、もう言葉を閉じているのに、皮膚の下だけが微かに湿っている。息ではない。さっきまで血が通っていたという、ただの事実の熱だ。


 廉は床に片膝をついた。指二本で頸の痕に触れる。ロープか、幅のあるベルトだ。鋭く食い込ませてから引いた跡。途中で手を緩めた気配はなく、均一に力がかかっている。抵抗の爪痕は浅い。

 逃げる暇もなかった、というより──背中を見せる相手だったのかもしれない。あるいは、自分の死を、芝居の台詞みたいに喉へ差し出したか。

 廉は目を上げた。食堂の窓は内側から鍵が下り、出入口は一つ。足跡は乱れているのに、奥の隅で唐突に途切れている。まるで、そこから犯人ごと空気が抜けたみたいに。

 天井からは、昨夜と同じ声が落ちてきた。抑揚の薄い男の声。

 「時間、二十一時十二分」

 何度か繰り返され、やがて止まった。時計の針は、音を立てないで進む。進んでいるはずなのに、耳が捉えられない。音を誰かが食べているのか。


 御子柴が鼻をすする音がした。星野は救急カバンから薄い白い布を取り出し、死者の顔へそっと被せた。木場は笑うのをやめ、煙草をもて余した指を握りしめた。

 「もう、触るな。現場が汚れる」

 廉の声は、自分のものより低く聞こえた。夜の底に落ちてから戻ってきた人間の声だ。

 遠野が壁に寄りかかる。「警察は……来ないよな」

 来ると思っているのか、と廉は思った。ここは誰かの舞台で、観客は壁の向こうにいる。拍手の代わりに、沈黙で笑う連中。あのレンズ。天井の黒い目。

 「……片付けるのは朝だ。今は記録をまとめよう」

 廉は紙ナプキンに描いた表を広げた。罫線は夜の震えで波打っている。二十時から二十二時。名前欄、目撃欄、場所欄。鉛筆の芯が折れ、短い罰点が二つ、黒く沈んだ。


 眠りは誰にも与えられなかった。

 非常灯は夜のあいだじゅう明滅した。光が点くたび、壁の古い写真の人物が、別の人にすり替わっていくのを誰かが見た気がした。

 朝は、雨上がりの匂いでやってきた。土と鉄と、藻のような湿りの匂い。スピーカーが乾いた声で言う。

 「三十秒の通信タイムを開始します。代表は各館一名。準備してください」

 扉がカタンと鳴った。A館の皆が同時に廉を見た。

 「いや、待て」木場が言う。「三十秒で何がわかる。向こうが渋るなら、こっちも同じだけ渋れ」

 「渋ること自体が情報になります」海老原は頬杖をついたまま、スマホの画面を押さえるように指先を重ねた。「順番、抑揚、沈黙。相手が何を怖がっているかは、言葉の形に出る」

 「死人のそばから離れよう」鷺沼の声は低かった。視線を床から上げない。「匂いがつく」

 廉は頷き、名札を胸に留め直した。A‐07。数字は冷たく、だが、温度を持った視線だけは背中に貼り付いたままだ。


 外廊下の中程、鉄柵で仕切られた連絡所は、檻の中に作られた小さな檻のようだった。柵と柵の間に、人間がすれ違えるほどの隙間がある。上は吹き抜けで、空の白さが落ちてくる。

 B館側の扉が開き、一人、影が現れた。

 茜だった。

 目はまっすぐで、言葉を選ぶまでの沈黙が短い。廉はあらかじめ用意した最短の文を舌の上で転がし、吐き出した。

 「A館で一名死亡。窒息。現場は食堂」

 茜は一拍で、必要な音だけ返してきた。

 「死亡者なし。ただ、二十一時台に女の悲鳴が複数。出所は未特定。あと──時計がずれてる。B館はA館より“遅い”気がする」

 背後の赤いランプがカウントダウンを終える。ゼロ。柵が、ためらいもなく閉まった。

 廉は言葉の余韻を飲み込み、最後の視線で茜の表情を読み取ろうとした。焦りはない。だが、額の髪が一本、湿って額に貼りつき、そこだけ時間が遅れて乾きそうにも見えた。


 戻るなり、木場が言った。「やっぱり渋ったな。情報を小出しにして、こっちの焦りを増やす。誤差を作る側が勝つんだよ、こういうゲームは」

 「……誤差?」御子柴が眼鏡を押し上げる。

海老原はスマホの画面に映る真っ黒な圏外マークを撫でた。「誤差とは、つくられるものであり、観測されて初めて意味を持つ。向こうが言った“遅い”は、向こうの主観。それを敢えて口にする時点で、こちらに時間の基準を疑わせたいんだ」

 「あるいは、本当に遅れている」遠野が壁の時計を見上げる。「同じ学園内なのに?」

 「同じではないのかもしれない」廉は言った。声に出した瞬間、仮説は形を持つ。形を持てば、壊れる可能性もまた生まれる。「同じ敷地に見えて、別のルールに切り分けられている」

 「迷信の話か?」木場は首の後ろを掻く。

 「運用の話だよ」廉は微かに笑った。「迷信は、ルールを知らない側の言葉だ」


 午前は、全員の昨夜の所在確認に費やされた。廉はナプキンの表を清書し、名前の横に矢印を走らせる。

 遠野は階段踊り場で電話。

 「誰に?」と問うと、遠野は一秒の沈黙を置いてから、「学校の同僚だ」と答えた。

 星野は倉庫で救急セットを探していた。「足がつるから、湿布が欲しかった」

 御子柴はシャワー。水圧が弱く、五分は出しっぱなしにしないと温度が安定しないと言い訳のように笑う。

 木場は喫煙所。「ここで吸うなって言われてないから」と、悪びれもせず肩をすくめる。

 鷺沼は廊下を歩いていた。誰も見ていないと言い張り、見られていないことを誇るような口ぶりだった。

 被害者の佐久間は、食堂で缶詰を開けていた。「音がしてた。缶切りの、こすれる音」星野と御子柴が別々に言った。

 音は、嘘をつけない。だが、聞いた人間は簡単に間違える。


 廉は赤ペンで二十一時十二分に波線を引いた。非常灯が落ち、暗さが一段深くなった瞬間を複数が覚えている。暗闇で人がどこにいたか、本人でさえ説明がうまくできない。人は自分が見ていない時間を、後から言葉で埋め合わせる。その埋め合わせに小さな嘘が混ざる。

 「停電の瞬間、あなたは?」

 廉が順に問い詰めると、誰もが、ほんのわずかに自尊心を傷つけられた顔をした。暗闇の自分を説明するのは、なぜか恥ずかしいのだ。

 星野は「しゃがんで靴紐を結び直していた」と言う。

 遠野は「階段の踊り場で外の雨を見ていた」。

 御子柴は「鏡の前で曇りの具合を指で拭っていた」。

 木場は「ベランダに出ようとして足を引っかけた」。

 鷺沼は「廊下の突き当たりで壁を見ていた」。

 壁を見ていた? 廉はそこだけを赤丸で囲った。壁を見るのは自由だ。だが、なぜ“突き当たり”で? 逃げ道のない場所で、人は何を見る。


 昼は、ぬるいスープと硬いパンが廊下の台車で配られた。誰も口を開かない。スープの表面には薄い油膜が張っていて、光を細く千切っていた。

 食べ物に毒はない。それを証明しても、誰の腹も安心しなかった。

 「B館の時計が遅れている件、どう思う?」御子柴が紙コップを握りしめながら囁いた。

 「遅れている」と誰が言った? 廉は自分に問い返した。茜だ。茜は、すぐに役立つ具体的な嘘はつかない。だが、抽象的な真実を、こちらの神経に刺さる角度で差し出すことができる人間だ。

 「時計は、信じるためにある。疑い始めた時点で時計ではなくなる」廉はスープを口に含み、鉄の味を誤魔化すように言った。「だからこそ、ずらしには効く」

 「ずらし?」

 「同じ出来事を、違う時間の箱に入れられる。箱を誰が作ったかを見失えば、出来事は比較できなくなる」

 御子柴はうなずいた。「観測者が複数いて、各々の箱に自分の時刻を書き込んでいる。なら、箱の境界をまたぐ瞬間に、誰かの手が必ず触れている」

 廉は、彼の声の端に引っかかった硬さを見逃さなかった。御子柴は理屈を早口で組み立てるとき、自分の恐怖から視線を逸らす癖があった。


 午後、廉は単独で廊下の端に立ち、壁の上部──天井との境い目を見上げた。

 目地が不自然に新しい。古い壁紙の端をわずかに持ち上げると、薄い配線がのぞいた。

 「触るな」

 背後で鷺沼が言った。気配を殺し、影のように立っている。

 「壊すと、怒るやつがいる」

 「怒る?」

 「観客」

 廉は笑わなかった。笑える種類の冗談ではない。「お前は、見えるのか」

 鷺沼は答えない。代わりに、壁に耳を当てた。

 「呼吸してる音がする。壁の中で」

 息を飲む音が、二人分重なった。俺と、鷺沼。いや、もっとか。

 壁の向こうから微かに、人間の吐息のリズムがした。吸う、吐く、吸う、吐く。

 廉は耳を離し、「配管だろ」と言い直した。言い直しは、恐怖を論理の皿に移すための動作だ。

 鷺沼は、そうか、とだけ言った。その言い方は、肯定にも否定にも聞こえた。


 夕方。スピーカーが、また無表情に時刻を告げた。

 「二十一時十二分」

 もう一度? 廉は眉をひそめる。昨日と同じ刻印を、わざと重ねるように発音する。音が時間を縫い直す。

 「わざと、だな」木場が舌打ちした。「耳に残る数字は、脳に残る。次の“合図”も、その前後に来ると思わせるための」

 「合図が来るとして、誰のため?」遠野の背筋が固い。「犯人のためか、観客のためか」

 「観客が犯人をも兼ねることもある」海老原は窓ガラスに指で〇を書いた。「箱庭では、撮る者が触ることは珍しくない」

 言葉は、夜の底で鈍い音を立てた。


 夜の入口で、事件は音もなく立ち上がった。

 A館の掲示板に、白い紙が一枚貼られていた。誰かの目をすり抜けるように、いつの間にか。

 明朝体で一行。

 次の被害者:木場

 空気が固くなる。木場は最初に笑った。「良い趣味だな。どの演出家だ」

 笑いは、喉から出た瞬間、濁って止まった。

 紙の下辺に、鉛筆の押し痕が残っている。廉は角度を変え、非常灯の弱い光を斜めから滑らせた。

 薄い、だが確かにある文字。

 二十一時三十分。

 「時間指定か」御子柴が言い、すぐに飲み込む。「……A館の時計で? B館で?」

 「どっちとも読めるようにしてある」廉は紙から目を離さずに答えた。「わざとだ。時間の基準を曖昧にするほど、人は早く走り出す。早く走るほど、転ぶ」

 「俺は転ばねえよ」木場は胸ポケットからカッターナイフを出してみせた。「道具があれば、転ばない」

 「それ、しまってください」星野が小さく言う。彼女の手は震えていたが、声はまっすぐだった。「誰かが持っていると、誰かが安心して、誰かが不安になります」

 「哲学の授業か」木場はナイフを回し、慣れた手つきで刃を引っ込めた。


 二十一時。非常灯がまた落ちた。

 闇が一段、深くなる。

 ポンプの止まった水のように、空気が部屋に沈む。

 廉は耳を澄ました。誰かの呼吸が、また壁の向こうから寄ってくる。

 A館の時計は、二十一時二十三分を指して止まった。

 いや、止まっていない。秒針だけが透けて見えるほど遅く進む。

 「こっちが遅れてるのか?」遠野が囁く。

 「遅れているように“見せられている”のかもしれない」海老原は壁の鏡の縁を指でなぞった。「鏡の厚みがいつもよりある」

 「鏡?」

 「裏に空間がある規格。病院や学校の改修で使う。配線や小型機器を隠すために」

 廉は、鏡に自分を映した。

 目の下の影が濃い。

 口元が、知らない人のように固い。

 そのとき、背後の掲示板が、かすかに鳴った。紙が震えた音だ。誰も触っていない。

 廊下の端で、風がないのにカーテンが動く。

 廉は動かない。動かないことが、唯一の選択肢になる瞬間がある。


 時刻。二十一時三十分。

 耳が数字を待つ。

 待つ耳は、音を作る。

 廊下の向こうで、金属が床を叩く音が一度。

 人の影が、ベランダのガラスを横切った。

 「木場!」御子柴が叫ぶ。

 ベランダの戸は内側から施錠されていたはずだ。廉は走り、鍵をひねり、戸を開け放った。夜気が喉に刺さる。

 そこに、誰もいなかった。

 ベランダの端、手すりの外側に、細い紐が垂れている。

 紐の先は、暗闇へ沈んでいた。

 下を覗く。

 闇は覗き返さない。

 代わりに、スピーカーが言う。

 「観客の皆さん、見ていますか」

 抑揚のない男の声。それでも、笑いの尾が確かに残った。

 「時間、二十一時三十分」

 廉は手すりを握り、金属の冷たさを掌に押しつけた。

 「木場!」

 返事はない。

 だが、床の上に、彼のカッターナイフが落ちていた。刃は出ていないのに、そこだけ血がついていた。

 誰の血だ? 自分の舌が、鉄の味を思い出した。


 A館の内部は、急速にざわめいた。

 「自作自演か?」

 「隠れてるだけだ」

「ベランダから下へ?」

 「降りられる長さじゃない」

 「そもそも、紙の“予告”を本人が書いたなら、時間に現れないのも演出のうち……」

 言葉が互いの喉に引っかかり、刺のように出入りする。

 廉は一つずつ折り畳んだ。「検証する。ベランダに出ていた者、三人。俺、御子柴、星野。鍵は内側。開けたのは俺。開ける前、鍵は下がっていた。外側から触れる形跡はない。紐は……」

 紐を引く。手応えが軽い。途中で何かに結ばれている感触もない。

 「カメラで釣ったんだ」海老原が言った。「映るために垂らした紐。映らなくなる瞬間だけ、現場は“空”になる」

 「自分で何を言っているのかわかってるのか」遠野が苛立つ。「映って、誰が得をする」

 「観客」

 やはりその言葉か。

 廉は、茜の顔を思い浮かべた。B館も、この時間に何かを経験しているのだろうか。遅れて、あるいは先んじて。

 通信は、明日の朝までない。

 夜は長く、壁は薄い。

 薄い壁の向こうで、誰かが寝返りを打つ音がした。

 寝返り。人が眠っていればの話だ。眠っていないなら、それは“寝返りの真似”だ。真似をする人間は、演技が上手いか、もしくは観客がいると信じている。


 掲示板の紙を剥がすと、裏にもう一枚、透けるような薄紙が貼られていた。

 御子柴が息を詰め、「待って」と囁く。

 廉は角を捉え、爪で持ち上げた。

 すぐに破れそうな弱い紙だった。

 そこに、鉛筆の硬い線で、小さな数字の列が並んでいる。

 0.47

 何の数字だ。

 「誤差だ」海老原が言った。「B館の時計との差。さっきの“遅い”が、もし具体なら」

 「0.47分?」御子柴が即座に換算する。「約二十八秒」

 「三十秒の通信タイム」星野が小さく続けた。

 通信は、いつも三十秒。B館が二十八秒遅いなら、同じ“時刻”に同じ事象を起こしても、互いはズレたものを見る。

 「ずらして見せれば、同じ事件でも別の事件になる」遠野が呟く。

 「事件は一つのようで、二つに見える。二つのようで、三つにも見える」廉は言った。言いながら、自分の恐怖を数式に置き換える。数式は、恐怖の輪郭を与えるが、恐怖そのものを小さくするとは限らない。「数字を書いたのは誰だ」

 「書いた者が、全員を見下ろす場所にいた」海老原は鏡の方を見た。

 鏡は、薄く曇り、そこに映るこちら側だけが鮮明だった。向こう側は、いつも少し遅れて動く。いや、そう“見える”。

 鏡の裏で、誰かがペンの先を走らせる音がした気がした。

 廉は一歩、鏡に近づいた。

 「君が見てるなら、俺も見る」

 呟くと、口の中で鉄の味が濃くなる。自分で噛んだ舌から、血が出ていた。


 夜更け。

 スピーカーが、低く笑ったように聞こえた。

 笑いは錯覚かもしれない。だが、耳は一度覚えたものを何度でも拾う。

 「観察は続きます」

 声はそれだけを言って、ふっと止んだ。

 観察は続く。

 誰の、何の、ために。

 部屋の隅の鏡に、遅れて動く自分の口元が、やはり他人のようにわずかに笑った。

 笑ったのは、鏡のこちらか、向こうか。

 どちらでも、同じことだ。

 観客が欲しがるのは、笑いそのものではない。笑いに沿って並び直される、事実の順番だ。

 順番が入れ替われば、真実は別の顔をする。

 廉はナプキンの表に、最後の線を引いた。

 二十一時十二分──第一の死。

 二十一時三十分──予告。

 0.47──誤差。

 線はつながりそうで、つながらない。

 つながらないように作られている。

 外の廊下で、誰かの足音がした。

 裸足。

 小さな足の裏が、床板の冷たさを数えるみたいに音を刻む。

 星野が顔を上げる。「……また」

 廉は立ち上がった。ドアノブに手をかけ、開ける前に深く息を吸った。

 吸う。吐く。吸う。吐く。

 壁の中の呼吸と、自分の呼吸が、不意に合う。

 扉を開ける。

 廊下は空だ。

 ただ、突き当たりの壁に、湿った手形が一つ。

 小さな手。

 指が長く、掌が薄い。

 誰のものとも、言えなかった。

 見たことがある気がするのに、思い出せない。

 手形の下に、鉛筆で線が引かれていた。

 四本。

 等間隔。

 廉は指先で確かめた。

 四本の線。

 五本目が、ない。

 欠けた一本を、誰かがどこかへ持っていった。

 あるいは、はじめから描かれていない。

 五本目は、明日の朝、誰かの喉に刻まれるのかもしれない。

 その誰かの名前が、舌の上で、言葉になる前に溶けた。


 夜は、まだ終わらない。

 鏡の縁で、目に見えない爪が、小さくガラスを叩いた。

 カン、カン、と二度。

 昨日と同じ音。

 音が同じなら、意味も同じだと思いたい。

 同じであることを利用するのが、観客の仕事だ。

 廉は思った。

 明日の三十秒で、茜に伝える言葉は、もう決めておくべきだ。

 数字を一つ。

 0.47。

 すべての会話の最初に置く、針のような数字。

 刺されば血が出る。

 血が出れば、匂いがする。

 匂いがすれば、どこかで息を潜めていた獣が、動く。

 獣の足音は、床ではなく、壁の中から聞こえるだろう。

 壁の中の呼吸と、獣の足音。

 それを、観客はきっと、笑い声に変換する。


 廉は目を閉じ、ゆっくり開いた。

 明滅する非常灯が、また一段落ちた。

 闇は、見慣れても怖い。

 だが、怖さは、道具だ。

 使うか、使われるか。

 彼は紙の上で、もう一度、二十一時三十分に線を引き足した。

 線は、やっと一つの形になりかけていた。

 なりかけの形は、壊れやすい。

 壊れる前に、誰かに見せる必要がある。

 明日の三十秒は、文字どおり、命取りになる。

 命を取りにいく側であると、信じなければならない。


 そして夜は、やっと静かに沈んだ。

 沈むふりをしながら、どこかで薄く揺れていた。

 揺れの主が誰なのかは、まだ、名前を持っていない。

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