第15話 真実の証明
数か月後。
東京の片隅にある小さな喫茶店。その店の名前は〈レンズ〉という。看板の木目は淡い灰色で、雨の跡が筋のように残っている。カウンター四席、二人掛けのテーブルが三つ。壁には、古い学園の写真。
写真の中で並ぶ生徒たちの笑顔は、時間に焼かれて少し滲んでいる。まるで“観察”されることに疲れた顔だった。
観葉植物の葉の縁は白く乾き、午後の光が窓を斜めに切る。廉はドリッパーから落ちる一滴に集中していた。
湯の温度、粉の粗さ、抽出の速度――そのすべてをわずかに変えながら、香りの層を積み上げていく。
推理と似て、少し違う。
推理は結論のために淹れる。珈琲は、過程のために淹れる。
結論は、飲む人が決める。
カウンターの奥で、お湯が細い糸になって落ちる。落ちるたびに、過去の音がひとつ溶ける気がした。
再演の夜のことは、いまでも夢に見る。
だが、夢の中の火は熱くない。
人の声も届かない。
ただ、光と影の境に立つ自分だけが、淡く呼吸している。
ドアベルが鳴った。
入ってきた女性は、濡れたコートの袖を軽く払ってから席に座った。
B館の生存者――高科。
彼女はメニューを見ずに言った。
「ブレンドを」
廉はうなずき、静かに豆を挽く。粉が砕ける音は、記憶を削る音に似ている。
カップが置かれるのを待たず、高科が口を開いた。
「次がある。街で“再演”が始まってる」
「……再演?」
「掲示板、予告、声。装置は、外に出た」
廉はポットを傾けながら、静かに問う。
「誰が設計者?」
高科は肩をすくめた。
「誰でも、誰でもない。やり方が出回った。真似され、変形され、拡散してる。あの構造を、ゲームやアートに使う連中もいる。……止める?」
「止める、か」
廉はカップに注ぎ、香りを閉じ込めるように一度蓋をする。
窓の外で、小学生の笑い声が通り過ぎた。
日常の音は、舞台の暗転のように一瞬だけ静寂を照らす。
「止める、というより、考える時間がほしい」
廉はそう言いながら、カウンターの下から小さな黒いケースを取り出した。
SDカード。
白いテープには、まだ“LOG”の文字。
数か月前、山の麓の自販機で拾ったものだ。
まだ開けていない。
開ければ、設計図の完全版が見つかるかもしれない。
開けなければ、彼はただの珈琲屋でいられる。
高科はカップを指でなぞりながら、呟いた。
「開けないの?」
「いまは、開けない」
「茜さんは?」
廉は少し笑った。
「別の街で教師をしてるって。子どもたちに“言葉は鍵だ”って教えてるそうだ」
「皮肉ね」
「そうかもしれない。でも、正しい皮肉だ」
彼はカードを掌の上に置いた。
「鍵は喉にある」
自分の言葉を反芻するように呟く。
「開けるかどうかは、いつも声次第だ。装置があっても、語らなければ動かない」
高科は目を細める。
「やるなら?」
「舞台は選ぶ。観客を選ばせないように。告白が鍵になる場所を、僕たちが選ぶ」
窓の外の風が揺れ、ガラス越しに街路樹の葉が擦れた。
それは雨でもなく、嵐でもなく、ただ季節の音だった。
「ラノベの続きみたいね」高科が笑った。
廉は肩をすくめる。「現実が、物語の続きを欲しがってる」
「現実って、そんなに物語が好きなの?」
「たぶん、観察が好きなんだと思う。人は、他人の罪を観察することで安心する」
「あなたは?」
「俺は……もう観察者じゃない。観察される側でいい」
壁の写真の中で、古い校舎がこちらを見ている。
曇った窓に、かすかに人影があるように見えた。
廉は一瞬だけ息を止める。
そして、そっと笑った。
「錯覚だ」
だが、笑いの奥で別の音がした。
あの夜、炎の向こうで聞いた“息を吸う音”。
誰かが生きようとする音。
それが、また近づいてきた気がした。
「……ねえ、廉」高科が言う。「あの時、私たちは本当に“生き残った”のかな」
廉は答えなかった。
答えられなかった。
生きる、という言葉は曖昧だ。
生きるとは、呼吸することだけじゃない。
“語り続ける”こと。
“忘れない”こと。
“見てしまった”ことを、無かったことにしないこと。
それを、彼は知っている。
「彼――朝比奈廉治は、何を望んでいたんだろうね」
「罪の告白、かな。でも、それだけじゃない」
廉はコーヒーを注ぎ足しながら言う。
「彼は“構造”を作りたかった。人が自分の言葉で、世界を動かす装置を」
「倫理じゃなくて、構造」
「そう。倫理は個人の中にあるけど、構造は共有される。だから危うい。だけど、それが社会ってものなんだと思う」
高科は静かにうなずいた。
「ねえ、あなたは、まだ怖い?」
「怖いさ」廉は笑った。「でも、その怖さがないと、誰かを観察する資格も、語る資格もない。怯えは、鍵になる」
彼はポケットから封筒を取り出す。
古びた茶封筒。宛名はない。
中には白い紙が一枚。
明朝体の活字で、短い文が印字されている。
〈舞台:市立文化会館地下。鍵穴は、あなたの喉に〉
廉は紙を二つに折り、胸ポケットにしまう。
「……また、呼ばれた?」
「たぶん」
「行くの?」
「行くよ。行かないと、他の誰かが行く。どうせ誰かがやるなら、俺がやる」
「あなたは、まだ演者だね」
「そうかもな。でも、今度は舞台を燃やさない。灯りを整えるだけにする」
店のドアベルが、再び鳴った。
次の客が入る。
若いカップル。会社帰りのような服装。
テーブルの端でメニューを広げ、控えめに笑い合う。
その笑いは、観察とは無関係な音だった。
世界は、少しずつ戻る。
だが、完全には戻らない。
“再演”の構造が外へ出た以上、どこかで誰かが同じ台詞を繰り返すだろう。
そのとき、廉はまたドリッパーを握るだろう。
湯が、粉に落ちる。
一滴、また一滴。
音が重なり、深く沈む。
彼は抽出の速度を少しだけ変えた。
香りが変わる。
変わることが、進むことだ。
窓の外を、夕暮れが流れる。
街灯が点き始め、歩道の影が長く伸びる。
どこかでサイレンの音がする。
その音は遠く、けれど確かに近づいてくる。
高科はコートを羽織り、立ち上がった。
「また連絡する」
廉はうなずく。
「次の舞台で」
彼女が出ていくと、店内の静寂が戻る。
時計の針が、午後五時三分を指す。
カウンターの上、コーヒーの表面に、光が揺れる。
廉はエプロンの紐を締め直し、軽く息を吸った。
息は、声になる前の準備だ。
――声は、鍵だ。
外で子どもの笑い声がした。
それはもう、観察の音ではない。
ただの生活の音。
舞台の幕間に似た、短い安息の時間。
廉は小さく笑い、カウンターを拭いた。
店のドアの上で、風鈴が鳴る。
音は高く、澄んでいる。
次の客の影が、ドアの外で動いた。
「いらっしゃいませ」
その声は、穏やかに響いた。
喉に残る古い痕が、微かに温まる。
真実の証明は、まだ途中だ。
だが、それでいい。
幕は上がる準備を続け、客席ではまだ誰も気づかない。
彼は再びポットを持ち、湯を注いだ。
――物語は、終わらない。
<了>




