第14話 朝の鏡原
山道を下りる。靴底に湿った土が吸い付き、剥がれるたびに、ぺたり、という平たい音が残る。夜の色は薄く、木々の葉の表面で朝がうすうすと裏返る。葉脈に沿って白が広がり、白はやがて薄青に、薄青は、遠くで火が消えたあとのような冷たい青に変わる。鳥の声が少しずつ増え、最初は一羽の試し歌いだったものが、次第に応答を得て、山の斜面に小さな会話の網を張る。
生存者は十二。
数えるたび、数は同じでも重みが違う。ひとりが欠けるたびに、残りの人間が持つ温度は、なぜか増える。夜の階段では、その温度だけが手のひらの頼りだった。
疲れは全員の顔に等しく落ちている。頬の薄い塩と、目の下の影と、膝の抜けるような違和感。けれど、歩幅は昨夜より軽い。軽さは、薄情さではなく、決めたことの重心が体の真ん中に戻ってきたことの証拠だ。
先頭の茜が振り返った。額の汗が細い線になってこめかみへ落ち、その線は風に当たってすぐ乾く。
「ねえ、彼……本当に、死ぬのかな」
彼――朝比奈廉治。白衣の肩の線は、雨で少し沈んで見えた。あの背中は、舞台の奥に残った。
廉は答えない。生と死の境界は、今日ほど不確かに感じられたことがない。舞台の外に出れば、生は簡単に続く。信号が青になれば渡れるし、パン屋は朝に合わせて開く。死は簡単に過去になる。誰かのタイムラインで流れて、記憶の棚に入れられて、やがて別の話題の下敷きになる。
でも、舞台の内側で選んだ言葉は、しばらく外でも響く。扉の向こうの白い小部屋で、自分の声が緑の灯りを点けたあの感触は、喉の内側にまだかすかな痕を残している。水を飲んでも消えない種類の痕だ。
道は二度ほど大きく折れ、杉の間を縫って麓へと伸びる。夜明けの光は細く、木の幹に並ぶ苔の粒だけを選んで照らす。苔は緑というより、濡れた黒に近い。その黒さが、なぜか安心させる。黒は、夜の黒とは違い、朝の黒だからだ。
誰も話さない時間が続き、靴の音が四拍子のリズムに合う。ときどき、誰かの足が小石を蹴る。その小さな音にだけ、全員の耳がいっせいに動く。反射で、まだ舞台の耳をしている自分たちに気づく。茜が、わざと少し大きめに落ち葉を踏み、かさ、と音を立てる。緊張がそこへ吸い込まれていく。
やがて、木々の隙間から麓のバス停が見えた。屋根はトタンで、角が赤茶けている。ベンチは雨上がりの匂いがし、柱には古い路線図が貼ってある。印刷の黒は薄れて、地名のいくつかは読めない。自販機がひとつ。古いタイプで、缶ではなく年代物のペットボトルしか売っていない。赤と青のボタンは、押す指のために丸く凹んで、そこにだけ人の時間が蓄えられている。
廉はベンチに腰を下ろす前に、自販機の前で立ち止まった。お釣り口に、何かが挟まっている。銀色の受け皿と黒いプラスチックの境目に、薄いものの角。指先でつまみ、そっと引き出す。
SDカードだった。白いテープが貼られ、マジックで“LOG”と書かれている。字は癖のない、事務的な調子。けれど、テープの端の剥がれ方が、誰かの急ぎを示しているように見えた。
誰の手から、いつ、どうやって。
観察室で見た記録媒体の一部かもしれない。すり減ったモニターと、棚のプラスチックケース、ラベルの書き癖。手の汗で滑りそうになり、財布と一緒のポケットへ滑り込ませる。布の内側に当たるカードの角が、歩くたびに小さく存在を主張する。
中身は――きっと、外で開くべきではない。
いま開けば、また舞台に戻る。舞台の外で開けば、舞台の外に穴が開く。穴は、足を引っ掛ける。そこから落ちるのは簡単で、這い上がるのはいつだって遅い。
「それ、なに」茜が覗き込む。
「記録。たぶん。でも、いまは触らない」
「どうして?」
「ここは外だ。外に持ち出したものを、わざわざ“内側”にする必要はない」
茜はうなずき、ベンチの端に腰掛けた。濡れた木肌が冷たく、布越しに温度が移ってくる。「普通に戻れるのかな、私たち」
「戻らないんだと思う」廉は笑った。乾いた笑いではなく、力を抜くための笑い。「戻るんじゃなくて、続ける。普通は名詞じゃなくて、動詞だ」
「うまいこと言う」遠野がぼそりと挟む。挟んで、言ってから自分の言葉の角度を確かめるように少し眉を上げた。もう軽口は距離を作る道具ではない。
海老原は自販機の前で、小銭を探すふりをして、何も買わずに戻ってきた。「喉、乾いてるのに、買わないの?」と木場が訊くと、「俺はいま、見ない練習をしてる」と彼は答えた。「選べるときに、選ばない練習」
星野はポケットティッシュでベンチの濡れたところを一つ拭き、それを誰にも見せずに自分のポケットに戻した。ささやかな手当は、役の残り香ではなく、癖として残っていくのだと思う。癖は生きるのに役に立つ。役と違い、脱いだり着たりがいらない。
山を下りきる前に、廉は一度だけ振り返る許可を自分に出した。
鏡原学園の向こうに、薄い煙。風にちぎられ、山の背で白が解ける。消防車のサイレンはまだない。世界は、彼らの物語に気づいていない。
気づかれない物語は、長く生きる。誰かの口の端や、紙の余白や、ログの片隅で、静かに増殖する。
気づかれた物語は、早く燃える。誰かの注目の熱で、筋書きが柔らかくなり、手垢で切り込みが増える。その切り込みは時に正義の形をして、時に興行の形をして、いずれにせよ燃えやすくする。
廉はポケットのカードに指を置く。「どちらにする?」自分に問う。声にせず問い、喉で受け取る。喉は、鍵穴ではない。けれど、問う声は喉を通る。通るものは、そこに痕を残す。
茜は横で、空を見ている。「私たち、どうやって普通に戻るんだろうね」
「だから、戻らない」廉はさっきと同じ答えを、さっきより少し柔らかく言った。「続ける。続けると、いつか普通になる。たぶん、どこかで」
バスの白い車体が坂の上に現れた。朝の光の方から下ってくる。運転手の帽子の影がフロントガラスに短く揺れ、ブレーキの音が近づく。停留所の標識の文字は剥げているのに、バスは迷わない。決められた場所に停まり、決められた秒数だけドアを開ける。
乗り込む瞬間、茜が振り返る。山ではなく、廉に。「再演、終わった?」
「第一部は」廉は答える。
「第二部がある?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない。あるとしても、客席からは見えないほうがいい」
茜は笑った。夜の間に磨かれた笑いで、無理矢理ではない。笑ってから、うしろを見ないでバスに乗った。
座席に腰を下ろすと、背中に布のざらつきが伝わる。バスのシートは、だれかの通学の汗と、だれかの買い物帰りの湿った野菜の匂いと、だれかの夜勤明けの眠気の重さを吸っていて、どれも薄く混ざっている。窓の外で、朝の光が背中を押すように増える。
ポケットのSDカードが、軽い。軽さは、重さの別の形だ。持っているだけで、天秤は傾く。傾きは目には見えないのに、体幹はそれを正すために小さく動く。その微細な動きが、いまは心地よい。自分の重さを自分で調整している実感が、眠気より先にやってくる。
車内は静かだ。車体の振動の下に、ディーゼルの小さな唸り。前方の運賃表示が、一定のテンポで数字を更新する。運転手はサイドミラーで一度こちらを見て、すぐに前へ視線を戻した。彼にとって、乗客はいつも誰かであり、特定の誰かではない。その非人格性に、救われる。ここは舞台ではない。舞台ではない場所にいるという事実が、体の芯をひとつ分、長く伸ばす。
バスは坂を下り、アスファルトの幅が広くなる。ガードレールの白が濡れて光り、側溝の水が薄く流れる。信号、横断歩道、コンビニの看板。街は、眠っているのではなく、じっとしていただけだとわかる。
世界は“観察”に向いている。
交差点にはカメラがあり、店にはレジがあり、改札にはセンサーがあり、ポケットには記録媒体がある。視線はどこにでもあり、記録は間違え、時々、正しい。舞台はどこにでも立てるし、どこででも壊せる。
廉は目を閉じた。
その直前、窓に映る自分たちの顔が、ガラス越しの街に薄く重なって見えた。信号の赤と青が頬を通り過ぎ、看板の白が額の汗に乗る。重なったそれぞれが、一秒のうちに別の誰かへ変わる。
眠りに落ちる直前、写真の男の声を思い出す。「鍵は、喉にある」
喉にあるのは、言葉を出す道だ。鍵穴は別の場所にあっても、鍵を運ぶのは声だ。誰かに聞かせるためだけではない。自分に聞かせるために、出す声。
カードの角が、布の内側でまた小さく主張する。LOG。記録。再演。
開くなら、どこで。
開かないなら、どこまで。
眠りと目覚めの境目で、問いだけがゆっくり浮き沈みし、浮かんだまま、薄い光に溶けた。
バスが峠を越え、街の輪郭がはっきりする。通学路の旗を持つ老人、通りを掃く店主、新聞受けに手を突っ込む人影。彼らの物語は、こちらに気づかない。気づかれない物語は、長く生きる。
廉は、眠りに落ちる。落ちる直前まで、喉の内側に残った痕の温度を確かめていた。温度は微かに上がっている。上がることを怖がらないよう、呼吸の数を数え、数えながら、自分が数を数える役をもう降りていることも確認する。
目を閉じた奥で、白い部屋の緑の灯りが遅れて点滅した気がした。錯覚だ。外では、緑は点滅しない。緑は、行っていいの合図として、ただ静かに灯るだけだ。
行っていい。
続けていい。
息を吐き、吸う。
声は、まだ使える。
車体が小さく揺れ、ブレーキがふたたび鳴いた。朝は近い。近いことを、誰も言わないまま、座席の布が体温を受け取り、受け取った温度は窓の曇りへ薄く移った。曇りに指を当てれば、文字が書ける。その文字は外からは読めない。内側だけに見える言葉で、今日の一行目を書く。
「第一部は、終わった」
誰にも見せずに、指先で。
そして、眠った。




