第13話 再演の終わり
階段を駆け上がる。踊り場ごとに空気が変わり、上へ行くほど煙は低く濃く、床の近くに溜まって波打っていた。非常灯の緑は、薄い雲母の板みたいにふわふわ揺れて、視界の端で実体を失う。誰かが咳き込み、誰かが手すりに額を当て、誰かが足先をもつれさせる。茜は先頭で振り返り、短く頷いてまた一段上る。廉は最後尾で、人の背中を一つずつ数えた。十五のうち、十二。口に出さずに、頭の中の声で数える。御子柴はもういない。藤巻は扉の向こう。三年前の夜より、今回は手が多い。支える手、引く手、押す手。数は少なくなっているはずなのに、手の温度は増していた。物語の体温は、人数ではなく、手の数できまるのだと、いま初めてわかる。
踊り場で一瞬、換気の流れが変わった。天井裏のどこかでダンパーが開き、煙が帯のように引かれていく。星野が息を吐き、短い声で合図する。「いま。上へ」木場が鷺沼の肘を支え、遠野が海老原の背中を軽く叩く。叩く指は、安堵と焦りの中間で、叱責にならない強さを探していた。
最後の踊り場を曲がると、廊下は暗く、雨の匂いが薄く入ってきた。非常口のランプが小舟のように浮かび、その下に積まれた段ボールの影が黒い島になっている。茜が島を跨ぎ、扉に手をかける。金属の把手は湿って冷たい。押し開けた外気は針のように肺へ刺さり、刺された場所から内側の熱が湯気になって抜けた。廉は振り返り、最後の二人を促してから敷居を跨ぐ。屋外の雨は弱い。雨粒は少なく、代わりに濡れた風が運ぶ音の層が厚かった。杉の梢の軋み、遠い道路のタイヤの唸り、山肌に落ちる水滴の微かな跳ね。音はすべて「終わり」の方へ向かって流れている。
A館の玄関を抜けると、夜気が肺に痛いほど透明だった。校舎の壁は濡れて鈍い黒、窓は曇った鏡になって自分たちの動きを浅く返す。敷地の外へ向かう道は一本だけ、柵は内側から外れる仕掛けになっている。錠の金属が乾いた声で笑い、支柱が少し震えた。廉治は扉の手前で立ち止まり、白衣の袖口を指で押さえてから、短く頭を下げる。お辞儀というより、開演前の安全確認のような角度だった。
「ここで僕は役を終える。設計者の役。君たちが外に出たら、ここは閉じる」
木場が吐き捨てる。「勝手に幕を引くのか」
廉治は微笑まない。目だけが、揺らぎのない水面のように静かだった。「幕は引かない。幕は燃える。残り火は、君たちが持っていけ」
「あなたは、裁かれるべき?」茜がまっすぐ訊く。問いは鋭いが、刃物の冷たさではない。体温のある、実用の道具の硬さだ。
廉治は首を横に振るとも縦に振るともつかない仕草をして、「語られるべき」と言った。「裁きは言葉の形のひとつだ。だが僕が欲しいのは、君たちが自分の語りを持つことだ。僕個人がどう扱われるかは、あとでいい。先に、君たちが外へ出ること」
その時、出口付近の壁に埋め込まれた配電盤が、虫が鳴くみたいな高い音をたてた。短い火花。廉は直感で動く。ふたを開け、手の甲で熱を読み、ブレーカーを落とす。指の腹に振動が伝わり、回路が切り替わる時のわずかな吸い込まれ感が手首の骨を通る。火の筋が断たれ、配線の奥で小さな赤が消えた。煙はすこし薄くなる。安堵が喉の奥で膨らみかけた、その瞬間だ。
壁のスピーカーが、あの声を流した。もう使い果たしたはずの台詞、観客のための口上。「参加者諸君、ようこそ」録音の音質はさっきより劣化していて、子音の角が丸い。誰かが鼻で笑い、誰かが涙の音を押し殺す。再演は、ここで終わる。観客のいない再演は、ただの機械の痙攣だ。声は続ける。「君たちは互いに推理を競う。まもなく、この館で――」廉は配電盤の下段、予備系のブレーカーを二つ落とし、最後に非常回路以外の主幹を落とした。スピーカーが途中で噛み、テープが飲み込まれたような音を立てて沈黙する。沈黙の方が、よほど生々しい。
門は開いている。柵の外は暗いが、山道の先に白い気配がある。夜と朝の境目は、紙の端のように薄く、手荒に触ればすぐ裂けそうだ。廉は一歩進み、足元の土の感触を確かめ、ふと振り返った。
校舎の窓のひとつに、灯りが戻った。白い四角が、雨の線の向こうに薄く浮かび、揺れない。観察室ではない。B館の中ほど、鏡のある談話室に近い窓。誰かがいる。藤巻か。あるいは、別の誰か。
戻るべきか。戻れるのか。戻ることが正しいか。正しいという言葉を役から降ろしても、体はまだ正しさの方向を探す。茜が腕を掴む。「行くの?」その指は冷えて、力は弱いが離さない。
廉は短く首を振る。喉の筋肉が、乾いた音で動く。「彼は役を選んだ。舞台は彼のものだ」言いながら、自分の声が薄く震えたのを感じる。冷たい言葉の中心に、薄い尊重が残る。選ばない選択をした彼に、選ばれない救助を押しつけるのは、別の暴力だ。救助の衣を脱いだ星野が、ほんの少しだけ目を閉じて頷いた。
「出よう」海老原が、置き去りにしたカメラの方角を一度も見ずに言う。鷺沼は窓ではなく門を見ることを覚えた目で、頬に当たる風の温度を測っている。遠野は冗談を探さず、舌打ちを飲み込み、唇を引き結んだ。木場はポケットに折った煙草を入れたまま、両手を空にして、誰かの肩に軽く触れた。
柵の蝶番が細く鳴り、外の道が口を開ける。濡れた土は柔らかく、踏めば小さな音を出して沈む。沈んだ跡はすぐに雨に洗われ、輪郭を失っていく。足跡は残らない。残らないことが、いまは安堵だった。
門を出る線上、誰も話さない。言葉は背中の皮膚に吸い込まれて、筋肉の奥で小さく震えるだけだ。背後で音が変わった。何かが大きく崩れ、内部の空気が押し出され、雨粒の網目にぶつかって砕け、風に散る音。誰も振り返らない。振り返らないことを、許す。振り返らないという選択が、逃避ではなく「いまを選ぶ」ことだと、全員がそれぞれの言葉で理解していた。
道は杉の並木を抜け、斜面のゆるいS字を描いて下る。油と鉄の匂いが薄れていき、代わりに土と苔の匂いが濃くなる。喉の奥に残っていた煤の味も、雨で薄まる。茜は先頭で速度を少し落とした。振り返らずに、最後尾の気配を確かめるためだ。廉は数をもう一度、心の中で正確に並べる。十二。声にせず、うなずく。数が揃っていることの奇跡を、いまは声にしない方がいい。
踊り場の代わりに、山道の緩やかな膨らみが二度続き、三度目の膨らみで視界が開けた。低い雲の縁がわずかにほぐれ、東の端に白が差す。白は冷たい。だが、冷たさは敵ではない。温度の低さは、考えるための余白だ。余白は、燃えない。
「ここで、いったん止まろう」星野が言う。脈を測る親指が無意識に動き、すぐ止まる。「もう、誰の脈も測らない」と彼女は自分に言い聞かせるみたいに付け加えた。
全員が道の端に寄り、息を整える。海老原は膝に手をつき、肩で息をしながら、空を一度だけ見上げた。「外の空って、こんなに浅かったっけな」誰も笑わないが、空気の密度が少し変わる。遠野は苦笑の角度を見つけられず、代わりに肩をすくめた。木場は手のひらを一度こすり合わせ、声を出さずに「生きてる」と言った。
廉治は柵のところで止まり、こちらを見た。白衣は雨で重くなり、肩の線がほんの少し下がって見えた。「ここで閉じる」と彼は言った。「君たちが外にいる間だけ、ここは舞台ではなくなる。舞台を外から見る自由を、短い時間だけ君たちに渡す」
「あなたはどうするの」茜が問う。
「僕は語られる」廉治は、初めて、ほんのわずかに笑った。「君たちの言葉の中で、増えたり減ったりするだろう。僕が何者だったかは、僕の言葉では決まらない」
「逃げないの?」木場が意地悪に見えない角度で訊く。
「逃げない。舞台監督が最後にするのは、電源を落とすことだ」
廉は胸ポケットから、濡れて柔らかくなった紙片を指で押さえた。「君はまだ、正しく怯えているか」。あの行は、いまも温度を持っている。怯えは注意深さの別名だ。怯え方を間違えると、人が死ぬ。怯え方が正しければ、選ぶ時間が延びる。延びた時間に、言葉が入る。言葉が入った場所は、燃えにくい。
「廉」茜が呼ぶ。「あなたの怯えは、まだ鍵になる?」
「なる」廉は短く答えた。「鍵穴が喉じゃないことも、やっとわかった」
風が頬を撫でる。風の冷たさは、外の証拠だ。証拠を信じすぎると嘘になるけれど、いまは信じていい。証拠は、出発の形をしている。
門を完全に出た瞬間、背後の音がもう一度変わった。さっきより低い、長い崩落の響き。柱が折れる音、梁がずれる音、ガラスが粉になって雨に混じる音。振り返らない。振り返らないことを、許す。誰かが心の中で「ごめん」と言い、誰かが心の中で「ありがとう」と言い、誰かが心の中で何も言わなかった。
道端の水たまりに丸い波紋が落ち、広がる。広がった輪はすぐに壊れ、壊れた破片はまた小さな輪になる。輪は、外へ行こうとする。外は、輪の外にあるのではなく、輪が広がる方向にある。輪を広げるのは、踏み出しの重みだ。重みは人数ではなく、覚悟の数で決まる。
誰も言葉を持ち出さないまま、歩幅がそろっていった。そろうのは危険だ。だが、いまは危険が味方をする。等間隔の足音は、山の斜面に等しい間隔で刻まれ、雨の細い拍子に合う。拍子は過去と未来を繋ぐ紐になり、紐は切れにくい。
やがて、入口の石標が雨の幕の向こうに見えた。〈鏡原学園〉。彫られた字に水が溜まり、細い銀の線がそこだけ光る。茜が足を止め、石を見上げる。「名前は、重いね」と彼女は言った。「でも、持てる」
「持てるものは、置ける」廉が続ける。「置けるものは、持ち運べる」
山の裾を曲がった風が、彼らの背中を押した。押す力は弱く、しかし一定だ。一定の力は、体の奥に残る。残ったものが、あとで鍵になる。再演は終わった。終わったから、語りが始まる。語りが始まれば、燃えた舞台の残り火は、見えないところでゆっくり冷え、灰になり、土へ混じる。土は湿って、匂いは冷たく、しかし生き物の匂いがした。
廉は、最後にもう一度だけ振り返らないという選択を確認した。選択は、確認し続けないとすぐ古くなる。古くなった選択は、いつのまにか役になり、檻になる。檻の鍵穴は喉にはない。喉にあるのは、楔を運ぶ声の通り道だ。
朝は、まだ遠い。けれど、夜は終わりかけている。終わりかけの時間は、どちらにも転べる。転び方は、自分で決められる。決められるという事実が、冷たい空気よりもしっかり肺に入って、胸を広げた。
彼らは歩いた。足跡は雨ですぐ消えた。消えるたびに、軽くなった。軽くなるたびに、何かが背中に戻ってきた。戻ってくるのは、重さではなく、温度。体温は分け合える。分けたものは減らない。減らないものを、物語は「灯」と呼ぶ。
風が頬を撫でる。頬の皮膚が新しい空気を覚え、指先がそれに追いつく。だれも振り返らない。振り返らないことを、いまは許す。いまを選び続けるために。
柵の影が背後に短く、前方に長く伸びた。伸びた影は、すぐに薄くなる。薄くなった影の先に、白が広がる気配がある。白は怖い。だが、その怖さを役にはしない。怖さを、選びのための余白にする。余白があるところに、言葉は置ける。置いた言葉が、やがて鍵になる。
再演の終わりは、拍手ではなく、沈黙で知る。沈黙が、やさしく、長い。沈黙の長さは、誰かの呼吸の長さに似ている。呼吸は、生きている限り続く。続くもののそばにいることを、誰も言葉にしなかった。ただ、歩いた。夜が終わりかけている方角へ。




