第12話 告白の部屋
順番は決めなかった。誰かが指を上げ、誰かが黙って立ち上がり、白い扉の向こうへ消えた。観察室の空気は熱を抱えて重く、ファンの回転が一息ごとに微妙な速さを変える。床に落ちた粉は足裏でざり、と鳴り、その音だけが生き物のように部屋を歩き回る。
白い小部屋の扉は、開くたびに同じ角度で揺れ、閉じるたびに同じ音で胸骨を叩いた。鍵の金属が軽く触れ合い、緑の小さな灯りが三つのうち幾つかを選んで点いたり、ためらったりする。その選び方を、誰も完全には読めない。読めないことが、逆に背中を押した。
最初に入ったのは星野だった。
彼女は白衣の袖を自分の手で外し、丁寧に畳んで椅子の背に置いた。袖口の布が指の関節で一度ひっかかり、その瞬間だけほんの少し眉が寄った。
「私は救助者の役を脱ぎます。私は人間です。怖くもなるし、迷いもする。そして、ときどき助けられる」
短い文の背中に、長い時間が折り畳まれているのが分かった。すぐに一つ、ついで二つ、三つ目の緑が点いた。緑は呼吸のように明滅せず、ただ一定の強度で光る。その静かな確かさが、ここにいる誰かの肩の力を少し抜いた。
扉の向こうで、別のロックが外れる音がした。見えない区画の金属音が観察室の壁を薄く震わせる。震えの輪郭は頼りないのに、心にはっきり残る。
海老原はカメラを床に置いてから入った。レンズにキャップをはめる手が一瞬止まり、彼は自分の指先を見て小さく笑った。
「俺は記録者の役をやめる。俺は見ることで安心してた。見てるだけで、何かをしている気になってた。――俺は、見ない」
彼の声はいつものように軽くなかった。言葉が床に落ちて、粉と混じり、足跡みたいに残った。緑が三つ、順に点き、扉が滑る。観察室の空気の圧がわずかに変わる。外気がどこかで入り込み、焦げの匂いが薄くなる。
木場は煙草を一本、ふつりと折ってポケットに戻し、扉の前に立った。
「俺は煽り屋の役をやめる。名前を出させて喜ぶやつの脚本に乗った。俺は、舞台から降りる」
彼は笑っていなかった。笑わない顔は、少し若かった。緑の灯りが二つ、間を置いて三つ目が灯る。その間が、彼の歯の裏で噛んだ何かの硬さと同じだった。
御子柴の名が、何も言わずに部屋を巡った。誰かが名前を出す前に、全員が黙祷した。黙祷には形式がいらない。ゆっくりと目を閉じ、それぞれのやり方で時間を細く折るだけでいい。粉の鳴き声が止まり、ファンだけが短く鳴った。
遠野は小部屋の椅子を見て、いつもの軽口を探したが、見つからない顔をしていた。
「俺は、自分の軽口を“距離の置き方”って呼んでた。ほんとは、逃げ方だった。距離を置けば痛くないと思ってた。……やめる」
彼の言葉は短く、後ろに長い影を引いた。緑が灯る。彼は観察室に戻っても軽口を探さず、ただ椅子の背を一度だけ撫でた。
鷺沼は扉の前で振り向かず、外の窓の方角を一度だけ見た。
「俺は“外を見る役”を捨てる。外はなかった。画面の外にしか、外はなかった。内側を見て、内側で選ぶ」
喉を通る声が低く、床板に沈んで四隅へ流れた。緑が灯り、観察室の奥のどこかでかすかな解錠音が応える。
役割を脱ぎ捨てる言葉は、不思議と短い。短くないと、自分をごまかせてしまうのだと誰もが分かっていた。短い言葉の後ろに、長い時間が畳まれている。畳まれた時間は、誰にも見せない傷の形をしている。
茜の番が来た。
彼女は椅子に座り、マイクの前で、今度は目を閉じなかった。視界の白を正面から受け止めるように、まぶたを上げていた。
「私は“命令に従う役”をやめる。私は私の選択で、彼を殺した。私は、殺した者だ」
言葉は彼女を壊さなかった。むしろ、彼女の骨を支える枠になった。緑が一つ、二つ、そしてためらわずに三つ目が点く。扉が開くと同時に、観察室の天井に薄く漂っていた煙が、少しだけ薄くなる。
天井裏の換気の音が一瞬強まり、また静まる。静まり方に癖がある。誰かが向こうで、手動で風を通した。
廉の番が来た。彼は喉を一度整え、言葉を短く切るために唇をゆっくり閉じた。
「俺は“正しさの役”をやめる。俺は怯え、逃げ、嘘をついた。俺は、見殺しに加担した」
その文は観察室の白に引っかからず、まっすぐ壁を抜けた。抜けて、どこかの金属に当たり、短い高い音になって戻ってきた。緑が三つ、等間隔に灯る。扉が開く。遠くで外気の匂いが濃くなる。土と濡れた葉と、電気の冷たい匂いが混じり、焦げの匂いをゆっくり押し返す。
残りは多くなかった。だが、重さは残った数とは比例しない。
最後に、藤巻が小部屋に入った。
彼は笑っていた。笑いは役者の笑いで、観客席の影を意識した笑いだ。彼は椅子に座り、マイクに近づき、笑いを少し強めた。
「俺は観客だ。俺は見てる側にいたい。見てるやつは安全だ。俺は、役をやめない」
緑は点かない。
扉は開かない。
彼は笑いをやめ、マイクに顔を近づける。
「見ないなら、死んでるのと同じじゃないか。俺は、生きたい」
沈黙が三十秒ほど続いた。観察室の別の場所で、警告音が一段高くなる。計器盤の赤が、針の先で揺れた。
廉治の声が落ちる。「選ばなければ、舞台が選ぶ」
藤巻は扉を叩いた。乾いた、しかし細い骨の音が混ざる叩き方だ。笑いとも泣きともつかない声を漏らす。扉は、開かない。マイクが拾う呼吸が荒くなり、緑のランプは何も返さなかった。
観察室の壁で、メインロックの機構が一斉に外れる音がした。重なった金属音が短い和音になり、体の内側に鳴り響く。連絡所に続く扉、非常口のランプ、上階へ向かう階段の踊り場。あちこちで細い光が灯る。薄い風が流れ込み、紙の角がふっと持ち上がってまた落ちた。外が、近い。
同時に、計器盤のひとつが赤に跳ねる。温度が上がる。回路の一部が焼ける匂い。焦げの匂いは、さっきまでの人工の粉っぽさに比べて重く、油の気配を含む。モニターの角が一瞬暗くなり、すぐ復帰する。復帰の早さが逆に不安を増す。
出口は開いた。だが、舞台はまだ燃えている。
出るか、残るか。救うか、置いていくか。誰もが同時に同じ問いを持った。
茜が扉の方を見、それから藤巻の閉ざされた白へ視線を戻した。
「……彼は?」
廉は答えを持たないまま、呼吸を整えた。答えを持たない呼吸は短く、肺の中で弾む。
「選ぶまで、開かない」
海老原が計器盤に目を走らせる。「この温度、上がり方が早い。上階で誰かが回路をいじったせいで、冷却のラインが死んでる」
星野が非常口の方向に一度だけ顔を向け、すぐに戻す。「出れば助かる。戻れない可能性がある」
木場が短く舌打ちした。彼は自分の舌打ちが苛立ちの演技にならないよう、唇を噛んで音を小さくした。
「舞台を置いていけば、楽だ。……だが、楽だけが、正しいわけでもない」
廉治は天井の開口部の縁に手をかけ、ほんの少しだけ首を傾げた。耳で回路の音を聴く癖が残っている。
「選ぶのは、君たちだ。僕は設計者として、道を示すことしかできない。道の先は、いつも二つ以上ある」
彼は白衣の袖を軽く押さえ、観察室の中央に視線を落とした。「ここは舞台だ。舞台は燃えやすい。燃えるのは、終幕の方法のひとつだ。だが、君たちが燃える必要はない」
茜が一歩、藤巻の扉へ近づいた。ドアの面は白く、指紋の跡が薄く曇りのように残っている。彼女はマイクの穴の位置に合わせて、壁に口を寄せた。
「藤巻。私は、外に出る。君を連れていきたい。けれど、役を選ぶのは君だ。私は命令しない。私は君の“観客”にならない」
沈黙。マイクの向こうで、体の向きを変える衣擦れの音。扉がほんのわずか、内側から押され、また戻る。
「……見ないのは、怖い」
「怖いよ」茜は即答した。「でも、怖いからやめるんじゃない。怖いことを“役”にするのをやめる」
扉の緑は点かない。だが、赤も点かない。何かが天井裏でためらい、ためらいの形のまま止まった。
警告音が一段、さらに高くなった。壁の小窓から、今度は目に見える薄い煙が入ってくる。白さは薄いのに、匂いは濃い。油と塩素のような鉱物の匂いが混じる。
星野が短く判断した。「下の観察室から外へ出れば、風下に抜けられる。上階は今、熱が上がってる。連絡所を通るなら、時間はない」
海老原がカメラを一瞥し、置いたままのまま首を振った。「持たない。俺は見ない」
鷺沼は一度だけ窓の方角を見る癖が顔に出て、すぐに扉の列に視線を戻した。「外は、こちら側の選び方にしかない」
遠野は笑いの角度を探す指を止め、唇を閉じた。「逃げ足は、悪くない。けど、逃げ方は選べる」
廉は藤巻の扉の横に立ち、指先で冷たい金属の縁を一度だけ叩いた。叩いた音は乾き、すぐ消えた。
「藤巻。俺は、役をやめた。推理で逃げない。だから、君に結論は言わない。……ただ、扉の向こうで君が死んだら、それは“観客としての死”じゃなく、君の“選択の死”だ。俺はそれを、君の代わりに語らない」
言葉は硬くなかった。硬くすると、彼の耳には届かないと分かっていた。
扉の内側で、爪が金属をひっかく音がした。低く、小さい。
「……怖い」
「知ってる」
「生きたい」
「生きろ」
緑は、まだ灯らない。
非常口のランプが一段と明るくなり、階段の踊り場に風が通った。風に押されるように、天井の粉が外へ向かって流れる。その流れの中に、細い紙片が一枚混じって舞い、廉の足元に落ちた。拾うと、油性ペンで「A.L.」とある。封筒ではない。切り取られた手紙の片。裏に鉛筆の押し痕。「君はまだ、正しく怯えているか」。
廉は紙片を折り、胸に入れた。怯えは鍵になる。鍵は、ためらいの隙間へ差す。差した楔は、抜けにくい角度を持つ。抜けにくい角度で差したものは、時間に耐える。
「行こう」
茜が言った。
星野がうなずき、木場が踵を返す。海老原はカメラを置きっぱなしにし、遠野は軽く舌を鳴らして自分の足を叱るように前に出た。鷺沼は一度だけ深呼吸して、窓ではなく扉を見る練習をする子どものように、視線をまっすぐに保った。
廉は最後に藤巻の扉を見て、小さく言った。「俺は出る。扉は開いている。君の扉も、いつか」
答えはなかった。けれど、内側の空気がわずかに動いた。動いた空気は、粉の匂いを運ばず、代わりに何も持たなかった。何も持たない空気ほど、後で思い出す。
階段へ向かう。非常口のランプは緑で、緑は草の色ではなく、機械の色だった。足音が重なり、汗の匂いが増し、焦げの匂いと交じり合う。踊り場で一度だけ上を見ると、天井板の隙間から熱が見える気がした。目には見えない熱の影が、白い板の裏を走る。
観察室の扉は背後で閉まり、鍵が落ちる音を立てなかった。落ちない鍵は、まだどこかで仕事をしている。
外気が近づく。土の湿りと、山の冷たい水の匂い。雨は細く、皮膚に触れるとすぐ消える。外は広くない。外は、選び方の幅のことだと、誰かが言った。選び方の幅は、ここから先で広がるか、狭まるか。広がる前に狭まることもある。狭まった先で、別の幅が見えることも、ある。
背後で、短く、しかし確かな金属音がした。藤巻の扉ではない。観察室の別の扉。ロックが一つ、遅れて外れる音。遅れて、でも確かに。
廉は振り返らなかった。振り返らないことが、いまは正しいと分かっていた。正しいという言葉を役から降ろしても、体は覚えている。
彼らは走った。風は外から内へ、内から外へ、薄い往復を繰り返し、粉の匂いを淡く洗った。
舞台はまだ燃えている。燃える舞台の上で、幕は落ちない。幕を落とすのは、舞台の外に立つ誰かではなく、舞台から降りる誰かだ。
出口は開いた。
そして、問いは残った。
出るか、残るか。救うか、置いていくか。
誰もが同時に同じ問いを持ち、その問いを胸に抱えたまま、緑の灯りの下へ、一歩、また一歩と進んだ。




