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『対面する館』 ──推理が遅れた方が、消える。  作者: 妙原奇天


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第11話 主催者の声

 観察室のスピーカーが鳴った。いままでのどの音よりも、近い。耳の内側へ直接落ちてくるみたいな距離感。壁の中でもなく、天井裏のもっと手前、蛍光灯の金属枠のすぐ下で、声帯が震えている気配がした。

 声は感情を抑えようとして、押し切れなかった分だけが漏れる。抑えきれないのは怒りではなく、熱だった。乾いた白の中に、微かな体温の色がある。

 「君たちは、よくやっている」

 息を整える間。電源ファンの音が一段強まり、また元に戻る。

 「僕は、君たちの物語に介入しないと決めた。だが、設計者としての責任は果たしたい。鍵は、あと一つ」

 茜が一歩、前へ出た。光が彼女の頬の小さな傷をなぞり、寝不足の影が目の下に薄く落ちる。

 「廉治さん。私は――」

 声はかぶせた。柔らかいが、容赦はない。

 「茜、君は十分だ。君は命令を持ち出し、命令を捨てた。あと一つは、見殺しを“名前”に戻すこと」


 見殺しを、名前に戻す。

 言葉の意味を、場にいる全員がそれぞれの文脈に引きずって考えた。星野は脈の測り方みたいに、文を分割して確かめている顔。木場は煙草の箱を握り、指先の癖で蓋を三度弾く。海老原は視線を宙に上げ、見えないテロップを頭の中に置き、編集点を探すような目つき。遠野は笑う角度を見失った口元のまま、笑いそうに固まっていた。

 見殺し――行為の名前。誰かの死を、自分が選んだ結果として語ること。恐怖のせいでも、命令のせいでも、倫理のせいでもなく、選択として。言い切ること。

 茜は振り返らず、小部屋へ入った。扉が静かに閉まり、内側の空気の圧がわずかに上がる。蛍光灯の白が肌から反射し、その反射で壁の四隅に小さな影が生まれる。

 彼女はマイクの前に座り、唇を濡らし、言った。ゆっくり、しかし足下に迷いを落とさない速度で。

 「私は朝比奈を見殺しにした。理由は恐怖でも、正義でもない。私の選択だ」

 吐息。マイクの小さな緑ランプが一つ、灯る。

 「私は、彼を、殺した」

 緑が二つ目まで灯り、三つ目の灯りが迷う。赤と緑の間で、色が少し揺れた。扉は半分だけ開き、金属が軋む。押せば開く。だが、押すのは誰だ。押した指に、意味が残る。

 廉は扉に手を添えた。鉄の冷たさが掌に張りつく。湿った空気が隙間から流れ、外の空気と混ざる。軋みを少しずつ広げる。

 観察室の奥で、別のモニターが自動で点いた。白い廊下。天井の角からの視点。光に縁を切り取られた足が一歩、もう一歩。白衣の裾がすれる。影が伸び、縮む。

 「来る」

 茜が扉から出ながら、短く言った。声は震えていない。ただ、体温が少し上がっている。緊張のとき、人は冷えるか熱くなるかのどちらかになる。いまの彼女は後者だ。


 影は天井の開口部から降りた。梯子の金具がわずかに鳴り、白衣が床にふわりと触れる。足音は軽いが、歩幅は大きい。白衣の胸ポケットにペンが一本、ペン軸に薄い傷。額にも一本、古い傷が横切っている。写真の角度より、少し痩せて見えた。

 朝比奈廉治。

 声と顔と、歩き方。三つが同じリズムでそこにあり、三年前の夜から濁ったままの時間が、いまやっと息を吸い直した。

 彼は目を細め、十五人の顔を順番に見た。目の動きは早いが、焦ってはいない。見落としを出さないための速度。

 「よく来た」

 短い挨拶は、礼儀というより、安全装置の作動確認に近い音に聞こえた。

 「――ここの設計は、僕一人のものではない。君たちの“罪”と“恐れ”が部品になっている。僕は組み立てただけだ」

 木場が一歩、踏み出した。声は低く、歯の裏で尖っている。

「人の死で遊ぶのが、設計か」

 廉治は首を横に振る。緩い角度ではなかった。はっきり、断ち切る角度。

 「遊びではない。君たちに“語らせる”ための舞台だ。語られなかった罪は、世界の裏側で増殖する」

 「増殖ね」海老原が鼻で笑う。「観客を増やすって意味なら、まあ同意する」

 「観客は必要悪だ」廉治は淡々と言った。「だが観客の数を増やすことが目的ではない。言葉の場所を作ることが目的だ。言葉がない場所に、倫理は生まれない。倫理がない場所に、火は簡単に燃える」


 廉は一歩進み、距離を測った。二歩で詰められる近さだが、まだ詰めなかった。声は距離の計測器だ。近づき過ぎれば熱で歪む。離れ過ぎれば意味が薄まる。

 「解放の条件は?」

 廉治は少しだけ視線を落とし、また上げた。答えを思い出しているのではない。言葉の置き所を選んでいる。

 「最後の鍵は、“役割の放棄”」

 観察室の空気が微かに沈む。分かっていた言葉だったのに、実際に聞くと、体のどこかが重くなる種類の重さ。

 「君たちは、被害者、加害者、観客、救助者、記録者――それぞれの役を着てここまで来た。その役を自分の口で脱ぐこと。役を脱がない限り、扉は外へ続かない」

 海老原が笑った。笑って、すぐ笑わなかった顔になる。「記録やめろってのか? 俺の役を捨てたら、俺は俺じゃない」

 「では、君はここに残る」

 廉治は目を細めた。非難の光ではない。確認の光だ。

 「役は檻になる。檻に住むのは自由だ。出口はないが、屋根はある」

 海老原は返事をしなかった。代わりに、波形の画面を一つ落とした。画面が黒になり、その黒が壁に吸いこまれる。黒は編集できない。彼は編集者だ。編集できない黒を、自分で置いた。彼の指が、ほんの少し震えた。


 星野が、手の甲で目尻を押さえ、深く息を吸った。「私は、救助者をやめる」

 全員が彼女を見た。星野は肩を落とすのではなく、肩の力を抜いた。力を抜くことは、弱くなることではない。立っているための筋肉を、必要な分だけ残す。

 「私はこれまで、救う側でいた。救う側であることが、私の倫理だった。けれど、救えないとき、私は役の陰に隠れて、救えなかった理由を言った。救助者でいたい私が、見殺しにした」

 彼女の口から“見殺し”が“名前”として出た瞬間、観察室のどこかで金属が一つ、乾いて鳴った。緑の小さな灯りが、壁際の下にひとつだけ点く。目立たない位置。だが、確かだ。

 鷺沼が続いた。窓の外を見続けてきた目が、いまは部屋の中央に焦点を合わせている。

 「俺は観察者をやめる。外を見てた。外はなかった。画面の外に外があると信じていた。外にいないと信じていた俺が、内側のやつらを楽に殴れた」

 彼の声は震えず、しかし低く沈んだ。低音は床で広がり、床のすみずみまで行く。床は嘘をつけない。

 木場は手の中の箱を見て、蓋を閉じ、ポケットに戻した。「俺は、疑われ役をやめる。俺は俺を舞台の便利小道具にしてた。疑われて怒る顔を、鏡で練習してた。俺の怒りは、役の怒りだった」

 遠野は笑顔の角度を探し、見つけられず、笑わずに言った。「俺は、逃げる役をやめる。苦手だって言い続けることで、苦手を守ってた。苦手は守るものじゃない」

 それぞれの声が、役の衣をほどく音を連れていた。布が裂ける音ではない。糸を一本ずつ抜く音。時間のかかる音だ。抜いた糸は床に落ち、粉と混ざる。粉は、足跡を刻み、また消す。


 廉は自分の喉に手を当てた。自分の役が何か、嫌というほど分かっている。記録者でも、救助者でも、観客でもない。推理する者。整理する者。整頓で世界を救えると信じてきた者。

 「俺は、推理する役を、やめる」

 言ってから、足下が少し揺れた。推理は廉の骨格だった。やめることは、骨から一本、抜くみたいな痛みを持つ。だが、それは折れる痛みではない。新しいバランスを探す痛みだ。

 「俺は推理で逃げた。整理で逃げた。正しかったことだけを拾って、正しくなかった自分を残さなかった。残さないことで、誰かを残した。俺はその誰かの重さを、棚に移した」

 喉の奥の煤の味が、ふっと薄くなった。味が薄くなると、匂いが立つ。皮膚にへばりついていた焦げの匂いが、少しだけ剥がれる。

 茜は廉を見、そして自分の胸に片手を当てた。「私は――」

 そのときだった。


 上階、B館側から鈍い爆ぜ音。電気の焦げる匂いが、細い管を通ったみたいに、遅れて観察室へ流れ込む。モニターが二、三枚、黒に落ち、警告音が短く鳴って止んだ。壁の小窓の隙間から、薄い煙。煙は灰色で、しかし光を含んでいない。人工の煙の匂い。

 廉治は短く息を吐いた。驚いてはいないが、顔に影が一つ載った。

 「急いだ方がいいようだ」

 彼は天井を見上げ、耳を傾け、音の層を分ける。そこで何が壊れ、どの回路がショートしたか、彼は知ろうとしている。設計者の耳だ。

 「最後の鍵は、誰が回す?」

 茜が手を挙げた。迷いは、手が上がる前に終わっていた。

 廉はその手を握った。体温が掌に乗る。震えは小さいが、確かだ。震えは恐怖だけのものではない。決めたときも、人は震える。

 掌の熱が伝わる間に、上階のどこかで人の足音が走り、何か重いものが床でずれ、止まる音がした。誰かが勝手に装置に触れ、見えない配線が焼け、観客席の照明が二割落ちたのだろう。影の濃さが少し変わる。黒が濃くなる。濃くなった黒は、装置の目を鈍らせる。鈍った目は、こちらに味方することがある。

 「役を脱ぐ鍵なんて、どこに差す」木場が吐き捨てるように言った。

 「喉じゃない」廉は静かに返す。「喉は鍵穴じゃない。ためらいの隙間に差す」

 「ためらい?」

 「人間の言語だ。装置が翻訳しづらいところだ。そこに楔を打つ」

 海老原が嗤い、すぐ嗤わない顔に戻る。「言葉は刃じゃなくて楔、ね。抜けない角度で差し込むって?」

 「そうだ」

 廉治は頷いた。観察室の壁で緑のランプが一つ、また一つ、間を置いて点く。点灯箇所は観察室の外――連絡所に近い区画。扉が開きつつある。開く速度は遅い。遅いのは、誰かが未練を捨てていないからだ。

 廉は茜の手を握ったまま、白い小部屋の扉の前に立った。扉の金属がまだ温かい。内側の蛍光灯の音がわずかに高く、バラストが疲れている音だ。

 茜が言う。「私は、研究者をやめる」

 廉は驚かず、ただ彼女の横顔を見る。

 「私は知ることで守られていた。知らない人を軽く見た。知らない人を軽く見たから、知らないまま通り過ぎることを“偶然”と呼べた。私は知る役を脱ぐ。私は“分からない”と言う。そのうえで、選ぶ」

 マイクの緑が一つ灯り、扉のロックが半段落ちた。

 廉は続ける。「俺は、証明をやめる。証明は正しさを呼ぶが、間違いを殺す。間違いが死ぬと、人が死ぬ」

 二つ目の緑が灯る。

 観察室のスピーカーが短く音を立て、廉治の声が、低く、近い位置で囁いた。

 「君たちは、いま“名前”を外している。良い速度だ。役の名前が剥がれれば、見殺しは行為ではなく、選択として手に残る。手に残ったものは、手で持てる。持てるものは、置ける」

 扉の上で、最後の緑が点いた。金属のロックが落ち、扉が軽くなる。

 外――連絡所の方角で、別の扉の開く音が微かに重なった。設計は複数鍵。ここが開けば、あちらも動く。ずれた時間が、いまだけ重なる。

 「走るか」木場が言う。

 「走る」

 廉は茜の手を離し、しかし肌に残った熱を指先に留めたまま、観察室を飛び出した。廊下に出ると、焦げの匂いに風の匂いが勝ち始めていた。雨は細く、山は短く息を吐く。粉は足元でわずかに鳴り、鳴ったあとの静けさが、次の一歩を促す。

 背後で、海老原が最後の画面を一つ落とす音がした。真っ黒な矩形が壁に吸いこまれ、残ったのは人の呼吸の音だけ。呼吸は編集できない。呼吸は生だ。生は、いちばん怖い。いちばん、やさしい。

 「最後の鍵は、誰が回す?」

 さっきの問いが、観察室の白に残響している。答えはもう決まっている。

 茜が手を挙げ、廉はその手をもう一度、強く握った。二人の掌に、熱と震えが同時に乗る。震えが導線になり、熱が灯りになる。灯りが細い線を作り、線が扉のへりに沿って伸びる。

 扉はまだ、完全には開いていない。だから、いま、開けに行く。役を脱いだ声で。ためらいの隙間へ、抜けにくい角度の楔を打ちに。

 鍵は、あと一つ。

 鍵穴は、喉ではない。

 それでも、声でしか届かない場所がある。そこへ届く声を探すために、二人は同時に、走り出した。

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