第9話 もう一つの真実
“朝比奈廉治”――その二文字四文字が、骨の内側でゆっくり鳴る鐘のように、廉の頭蓋の底面を叩き続けた。硬膜に当たるたび、遠い鈍響がひとつ、ふたつと増幅され、耳の奥で自分の名と混じる。廉。廉治。似ているのに、違う。違っているのに、重なる。三年前の事故のあと、倫理委員会の若手研究者が一人、突然姿を消した――そんな噂を、廉はたしかに耳で受け取りながら、目では追わなかった。追えば、何かの縁に指が触れ、そのまま切れると分かっていたからだ。触れた指先に残る血の温度を想像しただけで、肺の奥がひゅっと細くなった。
茜は写真の額縁の角をひとまわり指で辿り、低く言った。
「彼が、主催者」
廉は頷いた。喉仏がわずかに上下し、その動きが自分の意思とずれる。うなずくという行為が、自分の体に遅れて伝わる。
「そして、彼は復讐者じゃない。構造設計者だ」
復讐者なら、もっと簡単に、もっと派手に、終わらせられたはずだ。罪に名前を貼って、怒りの色で塗りつぶし、観客の拍手で幕を降ろす。それを彼は選ばなかった。終わらせるためではなく、続けるために装置を組む。物語を閉じる代わりに、開いたままにしておく。扉を一枚開けるたび、次の扉が現れるように。廉は写真のガラス越しに、自分の顔が薄く重なっているのを見た。重なった顔は、少しだけ若い。三年前の夜の自分に似た表情で、何かを黙って見ている。
観察室の奥の棚に、背の低い段ボールが積まれていた。湿りで柔らかくなった箱の隙間から、黒い背表紙が覗いている。海老原が箱をどけ、星野が埃を払うと、もう一冊のノートが現れた。表紙に、紙のラベル。そこには細いボールペンで“再演計画/倫理付記”とある。廉はラベルの端を指で押し、接着剤の乾いた音を聞いた。きしむような小さな音。ノートを開く。
冷たい字が並ぶ。活字ではないが、活字のように均された癖のない文字だ。最初の行は、宣言に近い。
「復讐は物語を閉じる。再演は物語を開く」
次の行。
「必要なのは、罪を語る場と、語った罪が世界の構造に影響する仕組み」
ページをめくるごとに、設計は具体になる。二つの館を設け、時刻を三十分ずらし、互いの“現在”を相手に“過去”として見せること。掲示板に予告を貼り、密室を作り、声のタイマーを壁の中に入れること。三十秒の通信を編集しやすい硬度にし、同時性を疑わせる程度にズレを残すこと。全ては“語らせるための装置”。人はだれかに見られていると知ったとき、黙るか、喋る。その喋りやすい方角に舞台を傾ける。告白は、観客に向けられたとき、世界を動かす。「声が扉を開ける」は比喩ではない。装置は実際に声で動く。倫理的にも、構造的にも――と、そこにはある。
海老原が口の中で何度か読み上げ、苦笑に似た吐息を落とした。「倫理付記、ね。倫理って言葉、こんなに冷たく書けるもんだな」
星野が短く言う。「“倫理”は温度を下げるための道具だから」
廉はページの端を押さえ、紙の表面に残る筆圧の妙なむらに気づいた。ところどころでインクの色が変わる。黒から青へ、青から薄墨へ。字の形も、すこし丸くなる。筆圧が軽く、線の端に躊躇いがにじむ。別人の筆跡――いや、見慣れた字だ。
「……茜」
呼ぶと、茜は逃げなかった。視線を鋭くするのではなく、柔らかく落として、廉の指先にある行への橋をかけた。そこには、鉛筆の薄い下書きが消しゴムで浅く消され、その上からペンでなぞった痕が確かに残っていた。
「私が、一部を書いた」
茜の声は平らだが、喉の奥に砂の粒が残っているように少しだけ荒れた。「命令されたの。“私の言葉で、鍵を開けろ”って。彼に」
彼――朝比奈廉治。
「私は、私が正しいと思いたかった。あの夜の私を、誰かの命令のせいにしたかった。だから、“命令”という言葉を台本に入れた」
廉はノートを閉じた。表紙の紙のすべすべした感触が、ひどく人工的な皮膚のように思えた。
「でも、今あなたは“命令”を自分の言葉に変えた。待っていたからではなく、待ったと認めた。“見殺し”だと自分で言った。それが鍵を回した」
茜は頷かなかったし、否定もしなかった。ただ指先で机の角を二度、軽く叩いた。音が短く、乾いて、消える。彼女の目は、写真の中の廉治の目と同じ高さにあった。画面の中の男は遠くを見ていて、現実の彼女は近くを見ている。その差は、今夜の闇よりも濃い。
外の空気が、急に騒がしくなった。A館の廊下を風が走り、B館の方角から押し寄せる叫びが、やがて個人の声に分解される。混乱の音はいつも、群衆の塊から、誰か一人の喉へと線のように細くなっていく。足音が走り、名前が呼ばれ、呼び返す声がない。
「誰がいない」
木場が荒く吐き捨て、海老原が指を折って数える。近くにいる顔、いない顔。B館の列に穴がある。A館にも、一つ。
「鷺沼がいない」
いつも窓の外を見ていた男。夜の山の呼吸を数えていた耳。廉は観察室の操作卓に手を伸ばした。切り替えボタンを押し、B館の談話室の映像を引く。鏡の前に、鷺沼が立っている。照明は弱く、鏡の中の彼は現実の彼より白い。背後に影が近づく。輪郭で、それが藤巻だと分かる。眼鏡の反射が一瞬だけ画面を撫で、すぐに闇へ沈む。
ふたりは短い言葉を交わす。声は小さく、ノイズに削られているが、口の動きと音の切れ端から、廉の頭の中に文が埋まっていく。
藤巻の笑いは、冷たい。温度ではなく、湿度のない笑い。彼らは鏡の中の自分を指さし、同じものを二度指さす子どものように、意味を増やそうとする。
廉は録画レバーを引いた。映像が巻き戻り、くぐもったノイズの奥から、藤巻の声が浮く。
「消そう。外へ出たことにすれば、消える。見てるやつは、消える人間がいちばん好きだ」
海老原が小さくうめく。「“消える画”は視聴維持率がいい。だから、誰かが消え続ける」
星野の声は低い。「消そうとする側は、消した“証拠”をつけたがる。証拠がある方が、観客は安心するから」
「矛盾しているようで、矛盾していない」茜が言った。「“証拠”があるとき、人は何も見ない。証拠だけを見る」
廉は映像のコマ送りを止めた。鏡の縁に藤巻の指が触れて、指紋の輪郭がほんの一瞬だけ映る。すぐに照明がずれ、跡は消える。鏡の中の鷺沼は、笑っている。笑いながら、どこにも焦点を合わせていない。まるで、自分が映っていない鏡を見ているように。
「追う」
廉が言うと、木場がうなずいた。短い。もう言葉の輪郭で判断する段階ではない。速さが、次の扉の位置を決める。
廊下を走る。山の湿気が床に貼りつき、靴底が薄く鳴る。連絡通路を抜け、鉄の匂いのする角を曲がる。非常灯はまだ死んでいるのに、どこからか淡い光が壁に降りてくる。B館の談話室のドアは半開きで、人の通ったばかりの温度が、取っ手の金属に残っていた。
「上か」
海老原が顎で示す。廉は頷き、階段を二段飛ばしで上がる。鏡の前の廊下は空で、鏡は空を映す。誰もいないのに、誰かの息の跡が鏡の内側に曇りを残し、その曇りの縁に、指で払った半月形の筋が付いている。鏡は、口ほどにものを言う。言うのはいつも、遅れてだ。
廊下の突き当たり、小さなランプの下で、扉がわずかに開いていた。白い小部屋――“告白の部屋”。扉は内側から開けてあり、蝶番の油が薄く光る。廉は扉に触れず、耳を近づけた。中から、低い声。鷺沼の声だ。マイクの前で響く声は、いつもより重い。重さは、言葉の密度に比例する。
「俺は見た」
間。
「火の向こうにいたのは朝比奈じゃなく、別の誰か。白衣の、背の高い男」
その言葉に反応するように、天井の隅の穴から、薄い粉がふっと降りた。白い、きめの細かい粉。音はしないが、空気が一瞬だけ硬くなる。観察室のカメラの映像がわずかに震え、ノイズの線が走る。装置が反応している。語の組み合わせに反応している。“朝比奈ではない”“白衣”“背が高い”。それは、鍵が別の鍵穴にも合うということだ。鍵穴は一つではない。
扉の内側で、金属が軽く触れる音。鷺沼の呼吸が乱れ、マイクが息を拾う。彼は続けようとするが、喉が乾いて音の粒が崩れ、言葉の輪郭がぼやける。崩れた文字は映像に弱い。だが、崩れる直前の鋭さだけは、画面の端に残った。
「白衣の、背の高い男――」
写真の中の、朝比奈廉治。あるいは、写真の外側に立っていた誰か。朝比奈という名が罠なのだとしたら、廉治という姓は、扉の別名かもしれない。
藤巻の影が廊下の手前で揺れ、扉の開口部からこぼれる光に斜めの線を落とした。彼は入ろうとして、入らない。入らないという選択も、装置の一部だ。外側で待つ者がいるから、内側の声は震える。
観察室に戻ると、モニターには複数の画面が分割で映っていた。A館のラウンジ、B館の廊下、白い小部屋、観察室の壁。四つの窓の中で、時間はそれぞれ別の速度で流れている。A館では秒針が速く、B館では遅い。白い小部屋では止まり、観察室では巻き戻る。巻き戻ると、音が先に戻り、映像があとから追う。タイムラインの継ぎ目に、薄い皺が生まれ、その皺は観客の目でも拾えるほど深くなる。
茜が机に肘をつき、指の背で額を押さえた。「彼は、復讐では飽き足らない。再演で、倫理を動かすつもりだった。“語った罪が世界の構造に影響する仕組み”。倫理は、世界の骨組みに触るための工具だもん」
「倫理は、観客の言い訳になる」海老原が苦く笑う。「“倫理に沿っている”って言葉は、刃先に貼る安全カバーだ。刃は刃のまま」
木場が短く言う。「刃なら、握り方を変えればいい」
廉はノートの最後のページを開いた。今日の日付に近い日付けが、薄い筆圧で記されている。そこには短く、赤いインクでこう書かれていた。
〈第二鍵:否定〉
赤の上に、鉛筆でなぞるように書き込みがある。丸い字。茜の癖に似ていて、少し違う。ゆっくり書いた、練習の跡。
〈喉は鍵穴ではない〉
廉は息を吸い、吐いた。今日の三十秒で言うと決めた言葉が、ここにすでにある。装置の側は、否定も計算に入れている。否定が鍵にもなることを、先に知っている。なら、二重否定にするか。否定の否定は、肯定ではなく、別の形の罠になる。
「言葉の形を変える」廉は自分に言い、自分たちにも言った。「“鍵穴”という比喩から離れる。“喉”からも離れる。彼が用意した辞書の外に、単語を置く」
B館の白い部屋のマイクが、低く唸った。鷺沼の声が、もう一度だけ芯を持った。
「俺は、外を見てた。外は、なかった。外は“画面の外側”にあった。朝比奈じゃない誰かは、画面の外にいた」
その瞬間、白い粉がもう一度降り、今度は光を乱反射して、部屋の中に小さな雪のような軌跡を作った。雪は、音がしない。音のしない雪ほど、よく燃える。天井の換気口に近い小さな円形の穴から、薄い風が流れ出る。粉はその風に乗り、音もなく回転し、床に薄く積もった。靴底がその上を通るなら、滑るだろう。滑れば、倒れる。倒れれば、マイクが拾う。拾えば、編集できる。
「やめろ」星野が吐く。「入るな」
しかし、藤巻は、ギリギリのところで止まっている。外で待つ。外にいることが、彼の役割だ。入らない者がいるから、入る者は“選ばれた”ように見える。
廉はモニターから目を離し、写真の前へ戻った。額の裏から微かな空気の吸い出す音がする。観察室の壁の向こう側で、誰かが息をしたのだ。息はすぐ止まり、残ったのは、冷たく乾いた匂いだけ。紙と金属と、古い薬品の匂い。三年前の夜、実験室の棚の上でこぼれた液体の、酸っぱい残り香まで、今ここに反響している気がした。
「朝比奈廉治」
廉は声に出して、写真の下のプレートを指でなぞった。指先が冷える。金属の上に刻まれた名前は、少し削れている。削れた部分は、誰かが何度も触ったからだ。触ることは、祈りに似ている。祈りは、扉を開けたりはしないが、扉の前に人を留める。
茜が壁にもたれたまま、視線だけで廉を見た。「彼は、いまもここにいる。声は、録音じゃない。録音にしては、呼吸が生きすぎてる。笑いが、編集の切れ目に乗らない」
「うん」
「でも、彼は“個人”ではない。個人であることをやめた。設計に自分を埋めた。だから、設計を崩せば、彼は崩れる」
その言葉は、希望のようでいて、刃の裏側みたいに薄かった。設計はすでに骨格に入り込んでいる。二つの館の時間差、三十秒の通信、声のタイマー、告白の部屋。装置は人の習性を利用し、人の倫理を逆手にとる。崩すには、習性を変えるか、倫理を捨てるか。どちらも、簡単ではない。
廊下の方で、短い悲鳴がした。遠くから、近くへ。廉は反射的に走り、扉を開け放って角を曲がる。白い部屋の前で、鷺沼が膝をついていた。肩で息をしている。粉が髪に薄く積もり、彼の黒い瞳に白の粒が映る。藤巻は一歩離れ、足元だけを見ている。茜が鷺沼の肩を支え、星野が瞳孔の反応を確認し、脈をとる。
「脈、速い。過呼吸の入り口。でも大丈夫」
星野の声が戻るたび、廊下の空気が温かくなる。医学の言葉は、冷たいようで、体に触れる。触れられた体は、自分が体だと思い出す。装置ではなく、人間だと。
鷺沼は口を開いた。粉っぽい息がこぼれ、声は低く掠れている。
「鏡の中、俺が笑ってた。俺は笑ってないのに。笑ってる俺の後ろに、背の高い白衣が、立ってた」
廉は彼の目の高さに腰を落とした。鷺沼の眼球は細かく震えている。外を見続けてきた目は、内側を見ようとすると、震える。見たくないからではなく、見えるものが多すぎるからだ。
「見えたのは、影か、輪郭か、顔か」
「輪郭。顔は、見てない。背の高さと、白衣の線。肩が細くて、首が長い。背中が、まっすぐ」
「朝比奈廉治の背は?」
「写真では、分からない」
鷺沼の返事は正確だ。彼は見たものだけを言う。見ていないものは言わない。だから、彼の言葉には穴が空く。穴は、編集者にとって甘い。埋められるからだ。埋めるために、物語が生まれる。埋めないために、倫理がある。倫理は、穴を穴のままにしておく訓練だ。
観察室へ戻ると、赤ランプの一つが消え、代わりに壁の端の小さな緑が点いた。緑は、合図でもあり、罠でもある。扉が開いたときも、この緑は点いた。緑は、前へ進めと言う。進めば、別の扉が待っている。進まないなら、現状は続く。続くこともまた、罠の一種だ。
海老原がモニターを切り替え、音声の波形を横に並べた。茜の告白の波、星野の謝罪の波、藤巻の囁きの波、鷺沼の証言の波。波には温度がある。冷たい波は直線に近い。熱い波は、上下に大きくふるえる。編集で繋ぐなら、同じ温度を並べるのが楽だ。違う温度を並べると、継ぎ目が目立つ。目立つ継ぎ目は、観客が見つける。
「明日の三十秒、否定は言う。でも、否定だけでは足りない」廉が言う。「“名”を奪う必要がある。鍵が“彼の名”だというなら、“彼の名”を“彼の名でない”場所へ移す」
茜が眉を寄せた。「名前を、別のものにする?」
「呼び方を変える。“朝比奈廉治”を“写真の男”に戻す。“写真の男”を“設計”に押し込む。人から構造へ、構造から環境へ、環境から習慣へ。責任の場所を、個人の喉から装置の隙間に移し替える」
「それは、逃げじゃないのか」
「逃げだよ」廉は正直に言った。「でも、装置の側からすれば、いちばん厄介な逃げ方だ。装置は個人を喋らせるために設計されてる。装置の外を喋る声は、編集しづらい」
海老原が薄く笑う。「“画角に入らないもの”は、切れない。切れないものは、観客にとって退屈だけど、不気味だ。退屈と不気味は、隣り合ってる」
そのとき、白い部屋の天井で、わずかな軋みがした。粉が、三度目に降ったわけではない。降りようとして、やめたような、ためらい。装置にも、ためらいがあるのか。ためらいに見える演出か。廉は音の長さを測り、星野は換気の流速を耳で測った。茜は言葉にしなかった。彼女は、ためらいの気配そのものを見ようとする。ためらいは、装置の弱点だ。人が人であることの名残りだから。
モニターの端に、新しい文字列が浮かんだ。
〈第三鍵:置換〉
置換――言葉を入れ替える。主語を入れ替える。矢印の向きをひっくり返し、因果の順番をねじる。朝比奈廉治という主語を、装置に置き換える。観察者を、観察されるものに置き換える。声を、黙の側へ押しやる。
廉は喉に指を当て、自分の声の高さを半音落とした。母音を短く、子音に重心を置く。自分の声の輪郭を、自分で削る。明日の三十秒、最初の十秒は数字、次の十五秒は差、最後の五秒で否定と置換。短い言葉で、扉の枠をずらす。
白い部屋の扉が、内側から少しだけ閉まり、止まった。鋼の蝶番がきしみ、粉が床で静まる。鷺沼は廊下でまだ息を整えている。藤巻は、携帯の画面を見つめていた。電波はないのに、彼は画面を見る。画面は、ないと分かっていても、見てしまう。画面の向こうに、外を見たような錯覚が生まれる。錯覚は、装置の親友だ。
「“外に出たことにすれば、消える”」廉は藤巻の言葉を反芻した。「消えるのは、誰だ。人か。罪か。責任か」
「“見てるやつ”は、消える人間が好き」海老原が繰り返す。「“見てるやつ”は、誰だ。観客か。装置か。ここにいる、俺たち自身か」
茜が目を閉じた。長い睫毛が頬に触れ、影が薄く揺れる。「“見てるやつ”が“彼”だとしたら、“彼”は観客を育ててる。倫理で。再演で。罪の言語で。観客を観察者に、観察者を記録者に、記録者を設計者に。そうやって、彼は個人であることをやめた。だから、彼はどこにでもいるし、どこにもいない」
写真の中の青年――朝比奈拓真の笑顔が、時間の中で薄くなる。廉は指でガラスをそっと押し、反射する自分の顔を少しずらした。ずれた顔は、悲しそうにも、怒っているようにも、ただ疲れているようにも見える。表情は、見る側のものだ。見る者が決める。装置は、それを知っている。だから、装置は鏡を使う。鏡に映るのは、いつも見る者の顔だ。
背後から、低い、しかしはっきりした男の声が落ちた。
「鍵穴は、君たちの喉にある。鍵は、僕の名だ」
廉は振り向かなかった。振り向けば、声は“彼”の顔を持つ。振り向かなければ、声は“装置”の顔を持つ。どちらの顔を選ぶかで、明日の言葉の角度が変わる。
「鍵は、名ではない」廉は小さく言った。「鍵は、名を置き換えることだ」
音は、壁に当たり、薄く返って消えた。消えた音ほど、長く残る。
観察室の壁で、緑のランプがもう一つ点いた。進めと言う。進まなくても、進んだことにされる。進んだことにすれば、消える。装置の文法は、覚えたつもりでも、いつも逆手に取られる。逆手に取られることを、逆手に取るしかない。安い言葉の反復だが、反復は骨を太くする。
遠くで雷が鳴った。稲光の残像が、連絡通路の窓ガラスに短く書かれ、すぐに消えた。非常灯はまだ息をしていない。暗闇は、相変わらず、想像力の形を忠実に拡大する。だが、いまの廉は、その拡大の中にひとつだけ、細い線を見ていた。線は、粉でできている。鉛筆の粉と、天井から降る粉。廊下に落ちた粉、掲示板の押し痕、ノートの筆圧。粉は、装置と人間の境目に溜まる。掃除される前に、集めて、指でつまんで、光にかざす。
「まだ、終わらない」
廉は独り言のように言い、しかし全員に聞こえる声量で置いた。言葉は、置き方で刃にも楔にもなる。今は、楔でいい。扉の縁に差し込むための、小さな、しかし抜けにくい角度で。
茜が、ゆっくり頷いた。「終わらせたくない誰かがいる限り、終わらせ方を、こっちが決める」
海老原がモニターの電源を一つ落とした。画面が黒くなり、焼け跡だけが壁に残る。黒は、編集できない。編集できない黒の前で、人は自分の息を聞く。
白い部屋の扉は閉じ、粉は床で静まり、粉の上に残った靴の跡が、廊下の灯りを待っていた。跡は、嘘をつけない。向きは、嘘をつけない。向いている先に、次の扉がある。
扉の向こうの、さらに向こう。そこに、白衣の背の高い男の、背中だけが立っている。顔は見えない。見えないから、いつまでも見える。
そして、観察室のどこかで、写真の裏からもう一度、誰かが息をした。息は短く、ためらいの形をしていた。ためらいがあるなら、そのためらいを鍵にできる。鍵穴は喉ではなく、ためらいの隙間にある。ためらいは、装置の言語では翻訳しづらい。翻訳しづらいものが、いつも、真実の側に残る。
もう一つの真実は、そこにあった。名前の外側、装置の外側、倫理の枠の外側。そこに気づくために、彼らは今夜、粉を拾い、声を削り、否定を並べ、置換の場所を探す。
まだ、終わらない。終わらせない。
終わらせ方は、こちらが決める。




