第8話「告解標の聖堂」
地獄を囁く看板が街に増殖し、住民が消えた。
《お前は選ばれない》――その言葉が、少年時代の傷を抉る。
祝福の皮を被った怪異に、恭介は“正しさ”そのものを試される。
《裁きは下っている》
《行き先は地獄》
《お前は選ばれない》
二〇二六年八月。宮城県名取市・ゆりが丘に、奇妙な看板が立った。黒地に白と黄色で、不穏な言葉が染め抜かれている。目撃した住民が相次いで行方不明――そんなネットニュースの見出しが踊る。
スマホに映る写真を見た瞬間、恭介の喉がひゅっと鳴った。
(あー……これ、昔怖かったやつだ)
子供時代の嫌な記憶が蘇る。神出鬼没な宗教看板。通学路の角に出現したと思えば、翌日には病院付近へ移っていたり。小学生の恭介は字面に怯え、いつも看板のある道を迂回していた。
五年生に上がる頃には、学校の前に聖書を配る女が現れた。傍らには天国と地獄を描いた張り出し。業火で苦しむ人間の顔がいやに精細で、帰宅後もしつこく網膜に残り続けた。
夕飯の匂いがしても苦悶の表情は消えない。北条少年は机に向かって悶々と悩んだ。自分も死んだら地獄へ行くのか? 死後の行き先は誰が決める? 審判の基準は? 永遠とはいつまで? 冥府を維持する仕組みは? 両親にまで哲学じみた問いを投げ、終いには泣いた記憶がある。以来、子供に『地獄』を植え付けるやり方が大嫌いになった。神や仏より、理屈を何より信頼するようになった。
外は快晴。ベランダの手すりが陽に熱い。恭介は気分転換に洗濯機を回し、真新しい服を干す。数々の『祓い屋』業務で生活はだいぶ潤っていた。家電一式を新調し、新車まで一括払いで購入できた。そんな自分が信じられなくて足が浮つく。不当とも言える豊かさが、地獄行きの切符になりそうで怖かった。
昼。白夜堂でいつものように暇な店番をしていると、綾子が入店した。半袖ブラウスが一段と整っている。
「正式な依頼です。ゆりが丘の看板を調査してください」
彼女は役所に苦情が殺到していると訴え、封筒を渡した。中の書類には事件情報と報酬額が明記済み。自分はいつの間にか、行政が認めるほど『祓い屋』として名を上げていたらしい。
「丁度いい。私も、作った奴の顔を拝みたいと思ってました」
恭介は鼻の穴を膨らませ、支度を始めた。
店を出た途端、酷暑が頬を殴った。アスファルトの陽炎と共に心中も過熱する。看板を置く目的は何だ。同じようにトラウマを抱く子供を増やす気か。そう考えると、とても設置主を許してはおけない。
車へ乗る足取りは今までで最も機敏だった。頭からは洗濯物のことなど、とうに抜け落ちていた。
***
名取市・ゆりが丘。
住宅街は澄んだ空気に満ちていた。恭介たちの車から街の匂いが薄れてゆく。生垣の葉は夏の光を弾き、車窓に青が流れた。
坂を上り切った瞬間、大聖堂が目に飛び込んだ。巨大結婚式場『クレール・ヴェール・カテドラル』。尖塔にアーチ、石壁を模した白磁の外装。中世ヨーロッパに丸ごと転移したような光景は、美しいのに異様だった。
看板設置の容疑者は施設責任者の久世であった。
問題の看板は敷地外周に点在。場内へ誘導するように設置されている。
入口の警備員へ名乗り、恭介と綾子は敷地へ入る。チャペル内で久世は二人を出迎えた。
「ようこそ。私、オーナーの久世出夜と申します」
彼はにこやかに名刺を差し出した。黒髪をオールバックになでつけ、上等なスーツに身を包む、いかにもスマートな美青年。職業欄には元外資系コンサルと添え書きしてあった。
「本日は式場の見学ですか?」
「いいえ、看板の件で話をお聞かせください」
恭介が単刀直入に問うと、反応が一拍遅れた。写真に目を落とした瞬間、端正な顔が歪む。
「ああ、祓い屋の方でしたか。これは失敬」
だがすぐに笑顔へ戻った。
腑に落ちない。
今回の依頼は役所の公的案件だ。書類上の正式職業名は『特異現象調査・封鎖技術員』であるし、従業員に伝えたのもその呼称だ。『祓い屋』とは一度も言ってないのに、彼はそんな俗称を自然と口にしていた。大体『北条恭介』を見たら、ほとんどの人間は殺人犯だと驚くのに……。
久世は事件に関して曖昧な証言を繰り返した。問うたびに「確認中です」「部下が勝手に」と濁す。苛立つ恭介を尻目に、彼は完璧なビジネススマイルを崩さない。
「折角ですので、式場を見学していかれませんか?」
しょうがないから応じてあげた。
回廊は真新しく、天井は突き抜けて高い。ステンドグラスの極彩色は眩暈がするほど壮麗だ。
それにしても、調査とはいえ、女性と二人で結婚式場を見て回るのはあまりに気恥ずかしい。綾子とはずっと依頼人以上、恋人未満の関係を続けてきた。式場を見学するのは彼女を『恋人』と確定し、プロポーズするようなものである。
ふと、遠くで人の呻き声がした。祝福の場に似つかわしくない低音。すかさず辺りを見渡した。
……気のせい、だよな?
いつか見た地獄の景色が蘇る。つい連想してしまったのは、ここが宗教施設だからか。綾子は肩をすくめ、恭介の袖を掴んだ。女性の手前、なんとか背筋を伸ばし直す。
嫌疑の張本人は完璧な案内を続けた。披露宴会場、控室、中庭。どこもセンチ単位で整い、生気を感じない。美しい非日常も過ぎれば『異界』である。
……自分もいずれ、彼女と結婚するのだろうか。
早すぎると首を振った。ドレス姿の綾子はともかく、タキシードを着た自分は一切想像できない。第一、まだホテルにも行ってないのだ。久世の値踏みするような目線も気に入らない。オーデコロンの濃い匂いすら悪質な客引きの一環に思えた。
悶々とする傍ら、久世と綾子の会話は何やら込み入り始めている。
「お二人は良い夫婦になれますよ。是非、私にお力添えをさせていただきたい」
「でも、ジューンブライドの時期は過ぎましたし……」
「夏はリゾートウェディングの最盛期です。豊穣の秋の花嫁も、またお洒落ですよ」
勧誘に頬を染めて俯く彼女。髪の隙間から仄かに赤い耳朶が覗いた。敵意にいきりたつのは自分だけで、ひどく居心地が悪かった。
「……綾子さん。まさか御世辞を真に受けてないですよね?」
久世が退席した隙にこっそりと耳打ちする。
「うん……でも本当だったら、どれだけ素敵かしら」
割と本気にしていた。
これもイケメンパワーの成せる技か。
なんとなく敗北感に襲われる。
結局、久世から有益な証言は得られなかった。
夕方、綾子を家へ帰し、恭介は高台の公園から一人街を見下ろす。缶コーヒーがいやに苦い。無数の屋根が夕陽を跳ね返し、彼方には水平線が見えた。海は遥か遠いのに、胃が縮む。
禍澗島への渡航はすっかり諦めていた。先日、湖のボートで予行演習をしたのだが、離岸した直後に眩暈を起こして卒倒。隠岐諸島までの船旅など、とても無理だと悟ったばかりであった。
恐怖に負け、真実を求めに行けない自分。
綾子との関係を進められない自分。
祓い屋業でも“彼”に頼りきりの自分。
……今のままで、本当にいいのか?
爪が缶に食い込み、息が浅くなる。
問いかけても、誰も答えてくれなかった。
***
ゆりが丘の地に粘り続けて日が暮れた。
祓い屋業務は夜が本番、と意気込み、恭介は式場を再訪する。電柱には見知った黒地のトタン看板。だが、文面が反転していた。
《お前は英雄》
《行く先は天国》
《おめでとう!》
《君は選ばれた》
背中に冷汗が滲む。賛美の言葉が道路いっぱいに貼られ、矢印は全て結婚式場を指していた。
……悪徳宗教の勧誘かよ!
頭皮がぴりりと張った。眼前を歩く、小学校高学年くらいの子供が門をくぐって消える。恭介は後を追い、聖堂へ乗り込んだ。
「来たねぇ!祓い屋殿!」
無人のはずの空間に久世の高笑いが跳ねた。オルガンの厳かな音が背筋を硬直させる。
「久世!やはりお前の仕業だったか!」
「恐怖は人を従わせる。私は告解標の力を手に入れた。人間を選別し、理想郷を作り上げる力をッ!」
脳裏に地獄のビジョンがみたび浮かんだ。
「さっきの子供はどこだ!」
「知らぬ!弱者の行方など!」
血液が沸騰する。数々の事件を解決してきたが、悪意をもって怪異を使う人間は初めてだった。
「私には君が必要なのだ。人も怪異も、等しくねじ伏せる君の力がッ!」
「黙れ!!あの子たちを返せ!」
叫んだ瞬間、背後の扉がひとりでに閉まった。空気が更に冷える。
「返してほしくば挑むがいい。我が“選別”の試練になッ!」
躊躇なく駆け出した。
聖堂内に壮麗なる旋律が満ち、勇気を不吉なまでに後押しする。
恭介はスタッフ扉をこじ開け、配電盤を探り当てた。音響系統を全て落とす。だが音は止まない。矢継ぎ早に床下から別の名曲が溢れ出る。賛美の音色は、耳を塞いでも響き続けた。
……あの子はどこだ!?
彼に幼き日の自分を重ねて身が詰まる。階段を登ると高い廊下。空中に聖歌隊の幻影が浮かび、称賛の歌声を降らせた。
《素晴らしい正義だ!》
《お前は正しい!》
《英雄を称えよ!》
床板が抜けた。欄干に爪を立て、靴紐を結んで命綱にする。力を振り絞るごとに合唱の音量が上昇した。何とか這い上がり、足元を確かめる。腕が笑い、腿が痙攣した。
敵なのに賛美の嵐。迷い続けていた自分にレールを敷かれている心地だ。心が揺らぎかける。それでもあの子――あの頃の自分は捨て置けない。
披露宴会場の一角で床タイルが浮き、空中に再配置された。美辞麗句が滲み、踏む順番を迫る。迷うほど賛美が濃くなり、喉の渇きが増した。今や式場全てが巨大な怪異の巣窟だった。試練の数々で判断が乱れてゆく。
……ダメだ!先に久世本人を叩かねば!
沈む足場を見分け、落ちていた銀食器で危険箇所を先に処理する。最低限の体重移動だけで渡り切った。膝が擦れ、熱い痛みが走った。
前室は玻璃の壁。色ガラス内の聖人たちが一斉にこちらを向いた。“視線”は光線となり、床を焼く。
「目からビーム!?嘘だろ!?」
最早体裁を投げ捨てた攻撃だ。恭介は消火器を噴かし、射線を濁らせた。うっかり粉を吸い込んで咳が止まらない。袖が焦げ、焦臭が鼻に刺さった。最後は扉へ肩をぶつけて強引に開けた。
息は切れ切れ。大聖堂型チャペル内、祭壇の上で式場の主が待ち構えていた。
「素晴らしい!やはり私の目は正しかったッ!」
ガラス状の結界の中から拍手を送る久世。踏破したはずの仕掛けが蘇り、悍ましい称賛が満ちた。こいつを討たねばあの子を、住民を救えない。だが勝てば試練を突破し、彼の思い通りになってしまう!
オルガンが讃美歌を奏で、聖歌隊も歓喜する。何人もの聖人が自分を見て笑顔を咲かせる。舌が乾いて唾が飲めない。
「さあ、来い!共に理想の世を築きあげようではないかッ!!」
やめろ。こんなつもりじゃないのに。
魂が抜けかけた瞬間、別の声が喉を破った。
「黙れ」
祟り神の金光は全てを否定した。
“彼”は拳で結界を砕く。
「お前なんかに……恭介は渡さねぇ」
祭壇と共に背後のステンドグラスも粉砕された。極彩色の雨が喝采じみて降り注ぐ。
久世は歪んだ笑みのまま昏倒した。怪異を“使う者”と“征服する者”の差を、ただの一撃で証明した。
***
夜明け。
豪華絢爛なる式場は廃墟と化していた。
ガラスの破片が床一面に散り、踏むたびに乾いた音が返る。近隣住民の通報でサイレンが近づく。恭介のLINEを受け、綾子もタクシーで現場に駆け付けた。
「すみません。起きてから確認していただくつもりで送ったのに」
「いえいえ……一刻も早く、あなたの無事な姿を見たかったんです」
彼女の眼が細められる。恭介の拳は切り傷まみれだった。熱さも怒りも冷めやらない。久世を殴った感触が、いつまでも脈と同期していた。
赤色灯で崩れた回廊が明滅する。警察の捜索は迅速で、すぐさま地下への隠し扉を発見した。警官隊がこじ開けると、埃っぽい空気と共に行方不明の住民が次々と這い出た。先の子供も救助され、泣きながら恭介へ抱きついた。
現場検証の合間、警官は看板――《告解標》について淡々と語る。元凶は土地に染みついた宗教勧誘の怨念。数十年前、悪質な宗教団体が地域に根を張り、社会問題になりかけた。直接的な犯罪こそなかったが、周辺の児童に「地獄行き」の恐怖を植え付けたという。団体が退去した後も、看板だけは不定期に出現した――恭介は全てを自分事として受け止めた。
……それにしても、あんなに褒められたこと、なかったな。
雇用主の河本は勿論、綾子、亮ですら『英雄』とまでは言ってくれなかった。耳がむず痒い。怪奇なる甘い響きは、以降の説明を次々と追い出していった。
久世出夜はオーナー就任後の調査で異変を知った。だが解決はさせず、寧ろ選民思想の道具にしてしまった。
彼は利益のために国内外の宗教理論を漁っていた。ゆりが丘へ進出するや否や、霊能者を雇って現象を改変。昼は住民を恐怖で縛り、夜は称賛で釣る。そして地下へ誘導し、帰れぬよう幽閉した――
「いやはや、祓い屋殿の力を見誤っていました」
久世はボロボロの姿で手錠を掛けられ、連行されていく。怪異、人脈、土地、端正な容姿。全てを失っても、彼は尊大だった。
軽薄な笑みは唐突に綾子へ向く。
「結婚するならご用命を。我々はいつでもお待ちしておりますよ」
「生憎、式場はごまんとありますので!」
綾子はぷいと顔を背ける。
「……まあ、出所したらまたお会いしましょう」
拒絶されても久世の目は輝いていた。なぜこうまで自信を保てるのか、逆に興味が湧いてきた。遠く太平洋からの風が事件の空気を払ってゆく。
「挙式するならもっと静かな場所がいいです。ね、恭介さん?」
「えっ!? あ、そうですね!」
慌てて頷く。綾子の中では既に『結婚』という選択肢ができあがってるらしい。だが彼女とヴァージンロードを歩く光景は、やっぱり想像できなかった。諸々を誤魔化すべく脳味噌をフル回転させる。彼方の水平線を見て思いついたのは――
「そうだっ、お寿司でもいかがですか? ……解決祝いに、僕のおごりで」
海、西洋への対抗策、和風で連想した結果であった。流石に突飛すぎたか、と顔が赤くなる。
「……ふふ、似合ってますね。『僕』って」
綾子は微笑んだ。
ようやく息がほうっとほどけた。
看板は撤去、久世は逮捕。住民は全員救助された。またしても事件は完全解決。そう言い切りたいのに、拳に残る熱は深い。彼を倒した瞬間、世界が自分を肯定した感触が確かにあったのだ。
――私は、どこまで正しくいられるんだ?
問いは胸中で空回りする。
内なる神はとっくに黙している。
それでも戦わねば、人々を救えなかった。
感謝の声と、廃墟の冷えた空気を背負い、恭介たちはゆりが丘を後にした。
誤字報告などはお気軽にどうぞ。
感想・ブクマ励みになります。




