第二話「枯れぬ向日葵畑」後編
海が真っ黒に荒れ、波が牙を剥く。大輔の姿が波間に遠ざかり、恨み言を吐かれる。親友を助けようとした腕を横から掴み、引き上げる金の眼の“彼”。そして島の景色が早送りになり――。
……またこの夢だ。
恭介は汗だくになりながら目を覚ました。古びた和室。手首には、熱を持つ男の手の跡。
未だ身体は微睡みの中におり、瞼がひどく重い。油断すればすぐにまた悪夢に沈んでしまいそうだ。
それだけは嫌だと必死で全身を伸ばす。そうして何とか上体を起こすと、真正面に“彼”がいた。思わず声を上げかける。
〈〈覚えてないのか? 俺との出会いを〉〉
黒い袴姿が闇に溶けて“彼”の輪郭は朧げだ。だがこちらを見据える金色の眼差しは真剣そのもので、ともすれば吸い込まれそうになる。
「……ない」
恭介は顔を背ける。すると“彼”は距離を詰め、その白い指で顎を掴んできた。
〈〈本当に?〉〉
問い詰める声はあまりにも低く、重い。“彼”の指は死人の如く冷たく、全身が縮みあがりそうだった。だが知らないものは知らない。保身のために嘘を吐く気も、ない。
「ない。本当に」
真っ直ぐに眼を見つめ返して言う。指の力が少しだけ緩んだ。
「君こそ、なぜ私を助けた?」
『思い出したら、教えてやるよ』
“彼”は「ふん」と鼻を鳴らして消えた。
一体何だったのだろうか。思い出せないから訊いているのに。
瞼を擦りながら壁時計を見やると午前二時。部屋の中も外もしんと静まり返り、窓は薄く凍っている。寝直す気にもあまりなれない。
……少し、散歩でもするか。
恭介はダウンコートを引っかけ、宿を出た。真っ白な息が空に溶ける。冷気を吸うごとに憂鬱が晴れていく。行き先は朧げだった。霜を踏み抜き、気付けば例の向日葵畑の縁にいた。
畑は無人で、いやに空気が重い。
畝には昼間、伊藤が置いていったと思しき鎌やスコップが散らかっていた。
なんとなしに向日葵を見上げる。畑を埋め尽くす黄色の花々は、長身の恭介よりも更に一回り高い。
――ふいに、何かがざわめく音がした。
風か?
だが今は無風だ。辺りに人影もない。
きょろきょろと辺りを見渡していると、突如向日葵の一本がこちらに“顔”を向け、喋りだした。
『向日葵ってなんか気持ち悪いよな』
『真ん中の黒いところが、人の目っぽくてさ』
大輔の声だ。向日葵が、海に消えた親友との思い出を一字一句違わず語っている。
「ひっ……やめろ!」
腰が抜けた。尻と手を不快なまでに柔らかい土が濡らす。ここにあるはずのない声で脳味噌がぐちゃぐちゃに掻き乱された。花は次々と恭介に黒い“顔”を向け、何重にも重なる声で思い出を容赦なく再生する。
『全部同じ方角を見てんのが不気味なんだよ。生き物ってより軍隊みたいでさ』
『お互い自由に動けなくなるな。その前に日本一周でもしようぜ』
「やめろ……! やめろやめろ!!」
激しい眩暈に恭介はその場でのたうち回る。脳内を暴かれる度に記憶が一つずつ抜けていった。親友の顔が揺らぎ、『だいすけ』の意味が繋がらなくなる。
『恭介っ、恭介!』
『なぜ俺を救わない!』
ついには海難事故の記憶が掘り起こされる。胃の奥から酸がこみ上げた。視界がぐるぐるに揺れる。花弁の黄色も、暗闇さえも白く霞んで認識できない。
『渡すものか。こいつは俺の“器”だ』
祟り神をも騙る向日葵。だが続く言葉を吐こうとした花が傾き、折れだした。
『こいつは俺のうつ、こいつは俺、のこいつはこいつはこいつは』
声が壊れたテープのように何度も巻き戻り、停滞する。その先が存在しないか、存在してはならないように。
吐き気が急激に遠のいた。代わりに頭を擡げたのは“彼”の気配だ。
心の臓から熱いものが拡がり、別人の脈を刻み始める。
〈〈その先は俺の領域だ〉〉
氷点下の夜よりもなお冷たき声。
右手が勝手に、足下の鎌を掴み上げた。
◆
手が、血塗れだった。
よく確かめれば血ではない。血よりも更に黒く、冷たく、ぬめっていた。
周囲には茎から両断された無数の向日葵。手には、黒い液体塗れで刃が折れかけた鎌。筋肉という筋肉が軋み、息が、勝手に切れていた。
一体なんなんだ。これは。
日記の時と同じだ。怪異に襲われて、“彼”が現れたかと思えば、全てが終わっていた。
何が何だか、わからない。
だが尋常でない疲労感と、手に付着した植物の残滓が「何かに取り憑かれていた」と思い知らせている。
たまらずその場に片膝をついた。肺に刺さる冷気が、痛い。
“彼”はなぜ、自分を必死に生かしたがるのか。
考えようとしても頭が回らない。
帰りたい。
ここは、さむい。
畑の隅に向日葵が一本だけ生き残っていた。花を人形の首のようにガタガタと震わせながら、尚も親友の声で喋る。
『旅行、やり直そうぜ』
腕が再び鎌を振り上げた。
***
翌朝。
全身の痛みで恭介は覚醒した。
酷使されすぎた身体には毛布の感触すら不快に響く。和室の窓からは白い朝日が差し込み、雀の愛らしい鳴き声が聞こえる。
手には、ひどい肉刺ができていた。
畑に入ってから宿に帰るまでの記憶が曖昧だ。昨晩の出来事は、どこまでが現実だったのだろう。
布団の中で一人唸っていると、枕元のスマホが震えた。どうにか手を伸ばして着信に応じる。
『先生、大変です! 畑から死体が出てきました!』
電話の向こう、伊藤の声は怯え切っていた。
「……え」
『向日葵が駆除された跡を掘ったら出てきたんです。今警察が調べてるんですが、どうも沖田さんなんじゃないかって……』
「沖田さん……?」
『行方不明のおじいさんですよ。図書館に張り紙が出てたじゃないですか!』
言われてようやく、恭介は痩せこけた顔を思い出した。
『それにしても見直しました。先生はやっぱり霊能者だったんですね!』
「はい?」
『先生が夜通し、向日葵を狩ってるところを見かけたって人がいましたよ』
「えっ」
『よろしければご紹介しましょうか?』
「え、遠慮しておきます……」
恭介は声を萎ませた。通話を終えると、再び筋肉痛が襲い掛かった。
痛みから逃避するように、怪異の正体に思いを巡らせる。
認知症はあらゆることを忘れてゆく病だという。その苦しみを埋めるために姿を変えて生まれ変わり、思い出を喰らっていたのかもしれない。
『お互い自由に動けなくなるな。その前に日本一周でもしようぜ』
親友の言葉は、今や問題なく思い出せる。だが、一つだけ引っかかることがある。
『旅行、やり直そうぜ』
最後の向日葵が吐いた言葉。記憶の中の彼は、こんなことを言っていただろうか。
まるで帰った後で語ってるような口ぶりだ。
もしかして大輔は、まだ……?
彼の生存を無意識の内に諦めていた。けど、希望は捨てないでおこうと思った。
朝食を終えても全身は針金のように固く、一挙手一投足ごとに痛みが走る。これでは運転などとてもできそうにない。そんな時に頼れる人物が一人だけいた。恭介は電話をかけた。
「もしもし、亮? 悪いけど、丸森まで車を引き取りにきてくれない?」
『いいよ~。で、賃金いくら?』
「電車賃にガソリン代。食費も必要なら付けるさ」
『マジでっ!? じゃあ駅弁食いまくっちゃお~』
「おいおいおい」
恭介は丸森に来てから初めて笑った。
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