第一話「呪われた日記」後編
翌日。恭介は白夜堂を閉じ、大学の図書館に足を運んだ。
書架から民俗誌を引き出す。黄ばんだ頁に、目当ての記述があった。死者の名と死因を帳面へ書き写せば、災厄は紙の側へ移るという伝承。出どころは「海の向こう」とだけ記されていた。
地方史を辿ると、実践した村が一つ見つかった。北陸の海沿い、明治初期。海難と流行り病が重なった年の、鎮めの痕跡。
……まさか、いい年して妖怪日記を調べる羽目になるとはね。
思わず苦笑いが浮かぶ。それでも閉じられない自分がいちばん奇妙だった。頁を繰る音だけがやけに大きく響く。
この一件は、自分自身とも関係ある気がしてならなかった。何か理屈を超えた引力を感じる。だがすぐに打ち消した。そんなものは非科学的だ。
綾子には何と伝えるべきか――。
利用者は他にいないのに、背後から視線を感じる。
背筋に、うすら寒いものが貼り付いた。
翌日の夜。綾子は一昨日と同じ時間に来店した。
カウンター越しの彼女はおずおずと口を開く。
「いかがです? 進展……ありましたか?」
「中間報告でよろしければ」
恭介は学者として、要点だけを述べる。
「明治の北陸に、災厄を帳面へ移す伝統がありました。これはその実践記録です」
「じゃあ……本当に呪われているんですか」
「断言はできかねますが……」
「弟は、一体何のためにこんなものを……?」
「それは、私も知りたいところです」
生前の大輔は、何も語らなかった。それこそ家族の方が事情に詳しいはずだ。
「旅行の前、弟さんに何か変わった様子はありませんでしたか?」
「……そういえば、自分のルーツを気にしているようでしたね。倉持の苗字の由来や、『俺たちの先祖はどんな人だったんだろう?』って……」
「なるほど……」
ならばこの日記は、彼が家系調査の過程で入手したものだ。誰にも言えない、個人的な理由で……。
「一つだけ確かなのは、この日記が危険だということです。明日外部機関と提携し、より高度な調査を――」
話を遮って空気が冷えた。蛍光灯が激しく瞬き、密室に風が渦を巻く。破裂音と共に陳列棚が揺れ始めた。
「きゃあっ、地震!?」
すかさず机の下に隠れる綾子。
だが、漂う腐臭が天災ではないと告げる。
日記の頁が見えない指で捲れた。店奥の棚がレジに向かって倒れ出す。空白の行へ紅が滲み、字を成した。
『二〇二四年 十二月十四日 北条恭介 圧死』
背筋が凍った。商品を詰め込んだ本棚がドミノ倒しで迫る。総重量は二百キロを下らない。
殺される――
四肢から力が抜けた。
刹那、背後にもう一つの気配が立つ。
〈〈どけ〉〉
鈴の如く通る声。
時間の感覚が異様に伸びた。目だけで振り向くと、夢で見たあの紋付袴の男がいた。黒い結い髪と袂を揺らし、冷たい怒りを露わにしながらこちらに向かってくる。終わった。怨霊と祟り神の挟撃なんて助かるわけがない。この生は今度こそ幕引きだ。視界が昏く落ちかける。
“彼”の身体が背面に触れた。
そのまま溶ける。
重なる。
目の前が金色に弾け、意識が飛んだ。
次に瞼を開けると――全てが終わっていた。
「ぇ……?」
店中に崩れた棚。あちこちに商品たる本が散らばり、木屑が宙を舞っていた。大地震でも来た後のような惨状。尻もちをついたまま、その光景を眺めた。
いや、地震ではありえない。
最奥の書棚からレジ側へ倒れたはずが、逆向きに壁へめり込んでいた。石膏ボードが砕け、棚板が壁の内側の柱まで達している。天井にも幾筋か黒い擦過痕が走っていた。
なんだこれは。私がやったのか。
右手が微かに焦げている。皮膚がちりちりと縮れ、嗅げば油の匂いがした。掌の中には、日記の一部と思しき和紙の紙片。呪いの器は今や無残な燃えカスと化し、握り直せば儚く崩れた。
……やはり、やったのは私だ。
だが記憶がない。袴の男が現れた時から、何一つ。眠っていたのとも違う。その瞬間だけ、恭介という人間がこの世から消え去ったようだった。
この手はまぎれもなく自分の手。なのに感触は借り物のよう。
呆然と座り込む恭介へ、綾子が駆け寄った。
「大丈夫ですか!? 北条さん!」
彼女の顔は青い。ようやく意識が鮮明になり始めた。静かに、荒れた呼吸を整える。
「私は一体、何を……?」
「あなた、倒れる棚を全部投げ返したんですよ! そして燃える日記を素手で破いて……!」
信じられない。
そんなの人間の所業ではない。
「その……北条、さん……」
綾子は口ごもる。まずい。怖がられる。
「ありがとうございますっ!」
「え?」
「呪いを調べるだけでなく、祓ってくれるなんて。私、北条さんがこんなに頼りになる人だとは思いませんでした!」
「はぁ……」
彼女の瞳は、無垢なまでに輝いていた。かなり肝が据わった人間だ。元気な様子を前に、恭介はようやく埃を払って立ち上がる気になれた。
「しかし、これでは調査を続行できません。代金を頂くどころか弁償モノです。一体いくらお支払いすれば……」
「いいんです。不幸が止まるのなら……」
綾子は微笑んだ。凛とした姿にしばし見惚れる。弟を亡くし、異変に遭いながらも、その目は前を向いていた。
ふいに、机の端から一枚の紙が滑る。
『姉さんへ。俺が戻らなかったら、本は読まずに焼いてくれ』
それは大輔直筆のメモだった。ボールペンの線はところどころが急き立ち、痛々しく掠れる。だが確かに、かつての親友の筆跡だった。胸が締まる。
「……なぜ、遺言の通りにしなかったのですか」
「どうしても日記の正体が気になって。弟の友人で、古物に詳しいあなたなら何とかしてくれると思ったんです。でも、弟への冒涜でしたね。……すみません」
「いいえ……」
こちらこそ差し出がましいことを、と頭を下げた。
綾子はトレンチコートを着込み、背筋を正す。散乱した本を気にしながらも、深々と一礼を返した。
彼女を店の入口まで送る。ガラス戸を開けた瞬間、清浄な夜気が一気に流れ込む。綾子が背中を向けて一歩、夜の街に踏み出した。
半分開いた戸に、店内の灯が反射する。
自分の肩の上へ、もう一つ顔が乗っていた。
あの紋付袴の男。
射抜くような金色の瞳。
薄い唇が吊り上がる。
その冷たさに、ぞっとする。
――所有者の笑みだった。
生かすも殺すも俺次第、お前の人生は丸ごと俺のもの――そう告げられた気がした。
「……今回は、本当にありがとうございました」
綾子の声で我に返る。視線を外す。
さっきの男は、幻だったのだろうか。
「また、お願いします……」
彼女の微笑みは、柔らかく温かい。
だが網膜に焼き付くのは、直前の神の笑みの方だった。
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