第一話「呪われた日記」後編
翌日。恭介は白夜堂を閉じ、大学の図書館に足を運ぶ。専門書の背表紙を指でなぞりながら、江戸から明治にかけての民俗誌を引き出した。
黄ばんだ頁には「怨霊を筆に封じる」という記載が点在していた。村落で病死や水死が続いた際、災厄を日記や帳簿に書き写すことで霊を移し替えた。やがて帳面そのものが「封印の器」と化し、後世に伝わったという。記述は断片的だが、令和まで日付と人名を追記した例もあった。
……まさか三十一歳にもなって、妖怪日記を調べる羽目になるとは。
思わず苦笑いが浮かんだ。
それでもページを閉じられない自分が、いちばん奇妙である。
更に地方史の文献を渉猟した。そして――日本海側の沿岸部で祟り神を祀る事実を見つけた。当該の村では、祟りを「記録に縛る」習俗が明治初期まで残っていた。骸骨じみた人間の挿絵が凄惨さを物語る。綾子の持ち込んだ帳面は、怨念の「器」だったのだ。
書見台に突っ伏しながら、恭介は唇を結ぶ。本件は自分自身とも関係ある気がしてならない。誰もいない静寂の中、ページを繰る音が妙に大きく響いた。筆録の行間に潜むものが、今も息をしているかのようだ。
白夜堂へ戻れば綾子が待っている。だが、何と伝えるべきか――。
推理は整っても、寒気はますます強まっていた。
夜。綾子は一昨日と同じ時間に来店した。蛍光灯が紙と埃で白く霞む。カウンター越し、彼女は膝上で指先を組み、おずおずと口を開いた。
「いかがです? 進展……ありましたか?」
「中間報告でよろしければ」
恭介は店主として、要点だけを述べる。和紙は嘉永末頃の製法らしく、繊維に古い膠の痕があった。墨の質は変色しており、後半にかけて色調が濃くなる。筆跡は少なくとも三人分ほど。末尾では筆圧が乱れ、書き手が追い詰められていた気配がある。
「江戸時代の日本海側に、祟りを筆で縫い留める習俗があった。日記は、その器ですね」
「弟が、村から持ち帰った……?」
「記事にはせず、裏資料として。あなたの家族に起きた事象と記載日は、偶然の符合とは言いがたい」
綾子の喉が鳴った。自分の指先も落ち着かない。
「一つだけハッキリしているのは、この日記が危険だということです。明日外部機関と提携し、より高度な調査を――」
説明を遮るように空気が冷えた。レジ横の卓上気温計がふっと数値を落とす。蛍光灯が激しく明滅し、施錠済みの小窓から“風”が吹いた。パァンという異音と共に陳列棚がガタガタと揺れ始める。
「きゃあっ、地震!?」
綾子は怯えて机の下に隠れる。だが漂う腐臭が天災でないと告げていた。心臓の拍が一拍ごとに鈍く伸び、体内の血が“別の律動”で動き出す。
頁が見えない指で捲れてゆく。店奥の棚がレジに向かって倒れ出した。空白の行へ紅が滲み、字を成す。
『二〇二四年 十二月十四日 北条恭介 圧死』
視線が吸い寄せられる。背筋が硬直した。棚が唸りを上げる。木ねじがきしみ、列が、連鎖の角度でこちらへ傾いた。埃と熱臭が鼻腔を突く。商品を満載した総重量百キロ超の本棚が、質量の塊となって迫る。
(殺される――)
四肢から力が抜けた。死を覚悟した瞬間、声が割って入る。
――身体を貸せ。退けてやろう。
夢の底で聞きなれた低音。思わず身を委ねた。意識がぷつりと途切れる。瞬き一つ。次に開いた恭介の瞳は、金色に煌めいていた。
「ナメるな!! 雑魚風情が!」
恭介の姿をしたものが嗤う。
足裏が床に踏みしめ、両掌が棚の側板を噛む。
本の重みごと圧を受け止め、筋肉が弾んだ。
押す。跳ね返す。
倒壊の連鎖が逆流し、木柱が折れ、鉄製の支柱が鳴った。
棚列がまとめて斜めに砕る。
木屑が散った。ちりりと空気が焼ける。
“彼”は棚を壁へ叩き付け、反撃した。
背後で綾子が叫んでいた。
狂笑は、彼女の怯えすら糧にする。
「器を害するなら、例え怨霊とて殺すッ!」
日記を片手で引き裂く。
和紙は肉の手応えだ。墨の湿りが爪に絡む。
断面からボッと黒煙が立ち、熱気が渦巻いた。
火なき炎が紙片を包む。
絶叫。
人のものではない。
しかし意味を持つ断末魔。
書物は塵も残さず燃え尽きた。
「大丈夫ですか!? 北条さん!」
綾子の声色が鋭く届く。肩の力が途切れた。膝で身体を支え、荒れた呼吸を整える。恭介が目を覚ますと、店は崩れた棚が散乱していた。大地震でも来た後のような惨状である。
なんだこれは。私がやったのか。
右手の指先が焦げている。黒く煤け、皮膚がちりちりと縮れ、触れれば油の匂いがした。掌を開閉し、痛みの形を確かめる。
やはり、やったのは私だ。
握っているのはまぎれもなく自分の手。なのに感触は“借り物”のよう。呆然としている内に綾子が駆け寄ってきた。
「さっき、あなた……」
今度こそ罵られる。身構えたその時。
「すごかったですね! いざとなれば、弟みたく腹を括る人なんだ」
興奮を帯びた称賛が降った。綾子の瞳には怯えより無垢な憧れがあった。砕けた棚や本の山が店中に散乱しているのに、である。
「え?……いや、やったのは……」
喉の奥に重いものが詰まる。
違う。さっきの暴走は自分ではない。己の内の“何か”が目覚め、窮地を救った。そうとしか考えられない。
だがあまりにも嘘臭い話だ。凄まじい力が覚醒し、敵を消し飛ばした――なんて、まるで稚拙な妄想ノートの一節だ。彼女に話せば失笑するに決まってる。なんなら自分自身が一番信じていない。
仕方がないので、笑って誤魔化した。
「困ったなぁ。調査を続行できませんよ」
大袈裟にセミロングの髪を掻く。燃え落ちた日記の欠片は、どこにも見当たらない。腐臭や熱臭もごっそり消えている。棚の下や畳の隙間を探しても、灰の一粒すら残っていない。おそらく現世から完全に消滅したのだ。“彼”の力によって。
「代金を頂くどころか弁償しなければなりません。いくらお支払いすれば……」
「いえ、いいんです。不幸が止まってくれるのなら……」
綾子はまっすぐに言い放つ。弟を亡くし、異変に遭いながらも前を向いていた。
凛とした姿にしばし見惚れた。同時に、胸中に温かいものが芽生える。生き残ってしまった自分が、誰かを救えた。あまりに深い闇、その底がようやく見えた気がした。
呼吸を整え終えると、机の端から一枚の紙が滑った。拾い上げた指先に触れたのは、怪異の炎を免れた唯一の断片。大輔直筆のメモだった。
『この日記の正体を突き止める。もしもの時は恭介に託す』
墨の線は急き立っている。ところどころが痛々しく掠れる。だが確かに、親友の筆跡だった。
胸が締まる。彼の遺志が、二年越しで目の前に現れた。嵐に呑まれ、消息を絶ったはずの人間の声が、今も側で残響している。
「大輔……君はまだ、どこかで……」
祈りめいた言葉は、誰にも聞かれずに消える。
店内は騒乱が嘘のように静まり返っていた。恭介は指先の焦げ跡を凝視し、疼きを押し殺す。白夜堂の崩壊。その静寂の向こう側で、更なる怪異が手招いている――気がした。
「……今回は本当にありがとうございました」
綾子は散乱した本を気にしながらも、深々と頭を下げた。トレンチコートを着込み、背筋を正す。恭介は入口まで彼女を送った。ガラス戸を開いた瞬間、一気に夜気が流れ、淀んだ空気を清めた。
「また、お願いします……」
微笑みは、温かかった。
恭介は綾子の再訪を心から願った。
まだ「生きていい」と思うには足りないから。
声の余韻もやがて途切れ、外界は沈黙した。
シャッターを閉め、恭介は一人店内を見渡す。惨状を前に脳を支配したのは「片づけに何日かかる?」という極めて現実的な問題だった。この規模じゃお手伝いさんが必要である。早速募集チラシを作らねば。
十二月の宵は深い。だが、明け方へ向かいつつあった。
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