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第十話「裂都事変」

仙台を襲った大災害。その震源には、盗まれた国宝と水神の怒りが眠っていた。

崩壊を止めるため、恭介は自ら“彼”の力に手を伸ばす。

だが代償は、愛する者と自身の尊厳だった――。


※本作には災害表現が含まれます。閲読にはご注意ください。

 二〇二六年九月下旬。

 七月から続いた猛暑がようやく退き、天から虐げられる心地が和らいだ。恭介は白夜堂のポストを開ける。朝刊にチラシが挟まっていた。駅前の大型商業施設・イービルンズ仙台での催し物『隠岐諸島の秘宝展』の告知だ。壺、刀剣、勾玉類の写真が異様な光沢を放っている。

 『隠岐』の二文字を見た瞬間、喉が詰まった。禍澗島への渡航は諦めて久しい。その怠慢を、海の向こうから咎められた気がして……。


 だが、目下の悩みごとは別である。


 (僕は幽閉実験で何をやらかしたんだ!?)


 先日、青森県・県立北奥精神病院で河本が仕掛けた、祟り神“彼”を発現する実験。その最中の記憶が欠落したままだった。食事中も、店番中も、空白への不安が途切れずにいた。

 河本を問いただしても、彼は回答を濁した。「爆発事故で記録を失くしたんですわ」と。唯一提出した監視カメラ映像には、見えない何かに殴られ続ける恭介だけが映っていた。滑稽なまでに踊り跳ねる身体。なのに声は入っていない。無音が、更に胃を締めつけた。


 恭介はマスクとサングラスで顔を隠し、街へ出た。今や人相が割れすぎて、変装なしでは外を歩けない。

 歩道の人波が視界の端で揺れる。コンビニの自動ドアが開くと、過剰な冷房が肌を撫でた。ホットスナックの匂いが鼻腔に満ちても、食欲は湧かなかった。

 真っすぐ雑誌コーナーに向かい、週刊誌を棚から引き抜く。紙面には『県立北奥精神病院、爆発』の見出しが踊っていた。焦げた窓枠、黒い煙柱、緊急車両の赤。凄惨な写真が、あの無音の映像と重なる。

 だが事故と恭介、河本との因果関係はどこにも書いていなかった。次のページから芸能人の醜聞が始まり、欲しい情報は消える。

 程なくして子供に「テレビの人だ」と後ろ指を差され、慌てて雑誌を棚へ戻した。逃げるように店を出ると、まだまだ強い日差しがサングラスに弾ける。

 恭介は肩を落として来た道を帰る。と、交差点の向こうに小柄な青年が見えた。


 ――佐久間俊哉だ。


 予備校講師時代の教え子にして、比留野村殺人事件の証人。雑踏の渦でも幼げな輪郭は浮いていた。彼の手には秘宝展のパンフレット。紙を握る指が軽く踊っている。

 首の後ろが疼いた。俊哉の中で自分は、今でも恐ろしい殺人鬼なのだろうか。恭介は横断歩道の信号が変わるのを待ちきれずに手を振る。


「佐久間くん!」


 俊哉は一瞥だけ寄越した。次の瞬間、彼は無表情でノイズキャンセリングイヤホンを耳に嵌め、商店街方面へ消える。青になるまでの時間が永遠に思えた。信号が変わってすぐに追い縋る。


「来ないでください! 先生!」

「お願いだ! 話だけでも……!」


 俊哉の背は硬かった。恭介は半ば強引に彼の腕を誘導し、喫茶店の扉を押し開ける。

 ドアを閉めると、交差点の喧噪が遠ざかった。代わりに満ちるのは小洒落たジャズ。店内はアフタヌーンで混雑し、珈琲と甘い焼き菓子の香りが渦巻いていた。着席した恭介はようやく息を抜く。俊哉へ何でも奢ると申し出たが、彼はお冷すら飲まず、両膝をぴたりとくっつけていた。


「……で、あれから『奴』は出してないですよね?」

「え?」

「とぼけないでください! 先生の中のあいつですよ! また誰か殺したりしてませんよね!?」

「佐久間くん、こ、声が大きい!」


 周囲の視線が刺さる。慌てて人差し指を唇に当てた。幽閉実験のせいで、殺してないと言い切れないのが辛い。


「先生。お願いだから金輪際ボクに関わらないでください。怖いし迷惑です」


 俊哉は関節が白くなるほど両手を握り締めた。恭介は笑顔を作る。


「……それでも、まだ私を『先生』と呼んでくれるんだね」

「別に。……ただのクセですよ」

「先生呼びに免じて、名誉挽回のチャンスをくれないか」

「イヤです」

「お願いだ。この通り」


 恭介は頭を下げた。髪が垂れ、額がテーブルに付く。『返せ』店内BGMに男の声が混入した。俊哉は視線を逸らしつつも唇を開く。


「……そ、そこまで言うんなら……」


 言葉の途中で床が鳴る。カップが震え、スプーンがかちりと跳ねる。畳みかけるように臓腑を揺るがす地鳴りが走った。店内が騒然とし、あちこちで椅子が倒れる。

 窓の外、大通りのアスファルトから、水蒸気と黒煙が噴出した。熱気がガラス越しに膨らむ。


『返せ』


 恭介の脳髄へ直に響きが叩きつけられた。背中が沈み、平衡感覚を失いかける。俊哉は勢いよく席を立った。


「この揺れ、ただの地震じゃないですよ!」

「私も……そう思ってたところさ」


 二人は押し合う人波を縫い、喫茶店を飛び出した。



***



 主要道路が、布じみて裂けてゆく。

 路面に亀裂が走り、断面の奥から紺碧の海面が覗いた。金の燐光が煌めき、津波じみた波動が地中で蠢く。粉塵の中には潮の匂い。まるで仙台が、昏い海へ沈没しかけているようだった。


 恭介と俊哉は、群衆に逆らい震源へと駆けた。人々の靴音が雪崩れ、誰かの泣き声が混じる。上空では看板が軋み、遠くでガラスの割れる音が連鎖していた。恭介は耳を塞ぎかける。水が見えるたびに冷や汗が流れた。だが足は止まらなかった。


「先生、この揺れ……イービルンズ仙台の方角から来てます!」


 俊哉は怯えながらも視線は冴えていた。恭介は頷き、亀裂を跳び越える。アスファルトの縁が砕け、靴底に小石が噛んだ。背を叩くのは熱気。二人はイービルンズ仙台へ向けて駆けた。


 逃げ惑う群れの中に、亮がいた。警備員の制服がひときわ目立つ。焦げ茶のマッシュヘアーを乱し、細い身体で人々の肩をすり抜けてきた。恭介を視界に入れた瞬間、亮は口角を上げた。


「恭ちゃん、また祓い屋案件かよ!」


 軽口の形をした確認だ。恭介は笑顔を作り、首を横に振った。頬が引き攣る。


「違うよ! 本物の災害だよ!」

「ボクら、この異変の震源を探してるんです!」

「ならオレも行くよ! 怪異には慣れっこだぜ!」


 三人は、崩れた入口の隙間から地下へ潜った。


 地下鉄・仙台駅構内は見るも無残な有様だった。電光掲示板は割れ、死に損ねたように明滅している。天井材が垂れ、配管が破れて水を噴き上げていた。水滴が照明を散らし、床のタイルは黒く濡れて滑る。焦げとコンクリの臭いが鼻を突いた。


「恭ちゃん、水、大丈夫?」


 亮が振り返る。恭介の指先は無意識に拳を作っていた。


「うん……」


 吐き気は確かにある。脚がふらつき、視界の端が霞む。なんとか呼吸を保ち、歩幅を整えた。目線は水浸しの床を避け、壁のラインだけを追う。


「ところで恭ちゃん、この子、誰? なんかテレビで見たことあるけど」

「ええっと……佐久間くんだよ。私の元教え子で……」


 恭介は比留野村の件を飲み込んだ。俊哉は神妙に会釈する。暗い照明の下でも、頬に薄い赤みが浮くのが分かった。


「初めまして……。佐久間俊哉です」

「オレは村瀬亮。こいつの犬だよ」


 亮は胸を張った。冗談のはずなのに、言い切りが謎に重かった。


「ちょ、やめてよ亮!」

「あはは……確かにそんな感じですね……」


 俊哉が笑ったので、恭介は良しとした。今は言葉を選んでいる余裕がない。


「オレ、イービルンズ仙台の近くで警備のバイトしてたんだけどさ、地下がものすげー揺れたんだよ。思わずバックれたけど大丈夫かなぁ」

「絶対大丈夫じゃないですけど……。ボクは秘宝展を見に来てました。その途中で先生と会ったんです」

「私は……コンビニ帰りかな」


 自分の理由が一番薄い。恭介は気恥ずかしさを噛み潰し、通路の奥へライトを向けた。瓦礫の影に、展示会場から流れ着いたらしい木箱が転がっている。割れた陶器の破片が散り、金箔が剥げた札が濡れて張り付いていた。


 ゴミ山の中に、一つだけ無傷の品があった。刀身一尺ほどの小刀。波紋が淡く、鞘は古い漆の黒。秘宝展の目玉展示品、国宝《潮断》だった。


「国宝が捨てられてる。ヤバくね?」


 亮は瓦礫の間へ手を突っ込み、慎重に引き抜く。刃が空気を切る音が細く鳴った。俊哉は展示解説パネルへ視線を滑らせ、眉を寄せる。


「……変ですね」

「変、とは?」


 恭介が尋ねると、俊哉は指先で濡れた紙面をなぞる。白い欄が妙に多い、逃げ腰の文章だ。


「伝来経路が書かれてません。国宝展で来歴ぼかしは、まずあり得ないのに」


 亮が舌打ちする。


「じゃあ盗品ってこと? ガチでヤベーじゃん」


 恭介の脈も強まる。理屈が先に立った。展示は見せるために整えるもの。空白は、隠す意志だ。

 唐突に《潮断》の刀身が蒼白く輝く。


「わぁっ!」


 恭介の肩が跳ねた。光は単なる反射ではない。心音に合わせてどくどくと明滅していた。


「刀が先生と行きたがってるみたいです……」


 俊哉の呟きは、本気だった。恭介は恐る恐る《潮断》を鞘に収める。鞘走りの感触が、硬い。懐へ入れた瞬間、服越しに冷たさが染みた。


 構内はまだ不安定で、余震が断続的に続いた。天井から砂が落ち、遠い場所で崩れる音が絶えない。三人はすっかり疲れ果て、階段に腰を下ろした。恭介は鞄に入っていたカロリーメイトを分け合い、食す。乾いた粉が喉に絡む。飲み込むのに唾液が足りなかった。


 亮が、我慢できない顔で切り出す。


「……恭ちゃん、アレを使ってよ」

「アレって?」

「あー、何て呼べばいいの? ……いつも怪異をぶっ飛ばしてる、あの力」


 つまりは”彼”を解放しろと言っていた。恭介はわなわなと震える。俊哉が即座に割り込んだ。


「そ、そんな! ダメですよ! 先生がまた人を殺したらどうするんですか!?」

「そうだよ! 戦う私の身にもなってよ!」

「悪い、悪いって!」


 亮は両手を合わせた。彼の目は焦っている。地下の閉塞感が、軽い声から冗談を剥いだ。


「でもこの先、何があるかマジでわかんないぜ。警備の先輩が『東西線工事の時にヤバいモン埋めた』って噂してたんだよ」

「だから、私がなんとかしろと……?」

「……うん。ごめんだけど」


 恭介は返事の代わりに、鼻から息を抜いた。懐の《潮断》が、呼吸と共に冷たさを広げる。

 探索を再開した瞬間、俊哉の耳が何かを拾った。彼の首がすっと傾く。


「あっちから人の声がします! 逃げ遅れたのかも……!」

「助けよう!」


 俊哉と亮が駆け出す。恭介も追おうとして、亮に腕を押さえられた。


「恭ちゃんは異変を見つけて。オレらの代わりに!」


 胸の奥が、つきりと疼いた。託された重さが双肩に乗る。恭介は頷き、逆方向へ歩んだ。

 ひとり、駅のホームへ降りる。降下するごとに空気が冷え、外の気配が遠のく。崩れた線路の向こうから、大いなる呼び声が届いた。


『返せ』


 音と呼ぶには、あまりに厳めしい響き。進むごとに懐の《潮断》が光を増す。鼓動も釣られて高まった。足下が海面じみて揺らぎ、瞬きを打つ。恭介はひどく戸惑った。


 ――なぜだ。なぜ、こんなにも“理解”してしまうんだ。


 誰かの怒り。刀が盗品である確信。災いが日本全土へ波及する予感。知らないはずの事実が、脳内で既に整列していた。呼応が強まるたび、自分の輪郭が少しずつ薄れてゆく。爪を掌に食い込ませた痛みで、辛うじて思考を保った。


 ――でも、行かなければならない。


 亮と俊哉に託されたから。

 何より、自分自身が真実を知りたいから……。

 瓦礫を越え、ジャンクション最深部へ辿り着く。そこに、あり得ないものが露出していた。

 コンクリートの隙間から、水神の祠が覗いている。融解した炉心のごとく、あまりに生々しい。しめ縄は破れ、紙垂が濡れて貼り付き、金の水泡が脈打っていた。


 悲鳴を上げかけた。頭痛が鈍器のごとく走る。


 ――まずい! 手遅れ、だ……。


 祠から神力が膨張する。音が消え、圧が押し寄せた。光の泡が視界いっぱいに弾け、恭介の身体はそのまま飲み込まれた。



***



 暗い海に、沈んでいた。

 遥か頭上で水面が揺らめいている。海越しの銀河から星光が降り、蛍のような燐光が宙を漂っている。恭介は海底に倒れ伏し、星空をぼんやりと眺めていた。水中のはずなのに空気があり、冷たいはずなのに温かい。夢にしては鮮明で、現実にしては美しすぎる。


 ……ついに死んだのか、僕は。


 終わってしまった無念に打ちひしがれた。天穹の下、胸の奥で言い損ねた言葉たちがひしめく。


〈〈……遅かったじゃねぇか〉〉


 傍に、知らない人物が佇んでいた。

 自分と似た顔に、含み笑いを湛えている。金色の瞳に、肩まで伸びて右側で結えた黒髪。厳かな漆黒の紋付袴に身を包む、冷たい存在感の男である。


「……君は、あの祠の神……なのか?」


 口にしてすぐに、心の内で否定する。彼とは初対面だが、何年も一緒にいたような馴染みがあるから。彼も首を横に振る。


〈〈いいや。あいつはあいつで、俺はお前だ〉〉


 答えになっているようでなっていない。だが、距離の近さが既に“答え”だった。男は微笑む。


〈〈お前って本当に甘えん坊だよな。女を抱く時も俺を呼ぶのかよ〉〉


 女?

 どういう意味だろう。

 疑問は生まれた側からぬるく溶かされていく。

 彼の声は穏やかで、どこか妖しいから。


〈〈まあ、叶えてやるよ。お前の望みなら何でも……な〉〉


 意識がゆっくりと浮上する。水泡が弾け、闇が晴れる。あやふやな認識の中で、一つだけはっきりと理解できた。


 ――ああ。この男こそが、“彼”の本体だ。


「恭介さんっ!」


 はっと目を覚ました。

 白い蛍光灯が視界を刺し、耳鳴りに襲われた。口内は乾いて苦い。綾子が泣きながら手を握っていた。指は冷えているのに、涙は熱かった。


「……ここは……?」


 恭介は辺りを見渡す。地下鉄を探索していたはずが、いつの間にか無機質な商業施設のバックヤードにいた。シャッターの向こうから崩落音と遠い叫びが断続的に響き、床が微細に振動する。


「エスタル仙台です。あなたが道路で倒れているところを、通りすがりの方と助けたんですよ」


 仙台駅直結、イービルンズ仙台に程近いデパートのことだ。自分の手足には包帯が巻かれている。擦過傷の痛みが遅れて走った。

 救助の途中で落としたのか、《潮断》は懐になかった。周囲に人影はなく、恭介と綾子の二人きり。徐々に胸の奥から感情が溢れ出した。


「綾子さん……!」


 恭介は彼女の身体を抱き締めた。崩れ落ちる瓦礫の陰で、二人は生きている確かさを求め合う。唇同士が触れ、抱擁が熱を帯びた。


「あぁぁ……無事でよかった……!」

「怖かった……あなたが、死んでしまいそうで……!」


 綾子は涙を滲ませ、震える声で漏らした。彼女の温もりに触れるたび、愛おしさが込み上げる。恭介は何度も何度も名前を呼んだ。


「綾子さん……、綾子さん……!」


 今こそ想いを伝えたい。現在(いま)を逃せば、永遠に言えない。


「この異変が終わったら、僕と……」


 僕と結婚しよう。

 その告白を、別の声が上書きした。


「――俺“達”と結婚しよう」


 “彼”だ。

 “彼”が恭介の肉体を乗っ取ったのだ。

 一瞬で背筋が凍り付く。


「あなた……誰……?」


 綾子は後ずさる。だが手はほどけない。

 戸惑う彼女に“彼”は囁く。声が密着し、空気がとろめいた。


「お前は結ばれたかったんだろう? この――()()と」


 ――おい、やめろ!!


 恭介の視界が引き剥がされた。瞬く間に『座敷牢』へ閉じ込められ、綾子に触れる“彼”を眺めさせられた。闇は濃く、逃げ場はない。


「来いよ。うんと優しくしてやるから」


 “彼”の微笑みは、恭介の目から見てもたまらなく蠱惑的だった。ゆっくり、温度を確かめるように白い頬を撫でる。その指が自分の指であることに、吐き気を催した。


 ――やめろ! やめろ! やめろ!!


 恭介は鉄格子に飛び掛かり、叫ぶ。

 だが格子はびくともしない。絶叫しようが、体当たりしようが、二人はこちらを一瞥もしない。


 ――頼む! 拒め! 拒んでくれ!!


 必死の願いも虚しく、綾子は頷いた。


「……は、い……」


 瞳を潤ませ、“彼”の口づけを受け入れる綾子。そのまま、彼女は愛撫する指へ身を預けた。息が乱れ、恭介の世界は黒く点滅する。


 ――暴力に留まらず、こんな真似までっ……!


 恭介の絶望は届かない。届かない。届かない。

 代わりに、“彼”の思念が流れ込んだ。脳髄へ水飴を垂らすように、甘く、冷たく……。


〈〈お前の願いは、全部俺が叶えてやる〉〉


〈〈この女を、俺からお前へ捧げてやろう〉〉


〈〈全ては、俺とお前のものだ〉〉


 ――やめろおおおおおおぉぉぉぉ!!


 叫びが鉄格子に吸われる。

 “彼”は、あまりにも悍ましい存在だった。

 恭介はあの時、内なる神を受け入れたことを心の底から後悔した。



***



「うっ、……ぅっ……」


 事が終わった後、恭介は嗚咽していた。肺の奥が攣れ、息が薄く途切れる。

 最中の出来事は、全て“彼”と感覚を()()していた。自分の知らなかった声、死にたいほどの羞恥。指先には、まだ綾子の温もりが残っている。


 ――彼女を奪われた。


 涙が止まらない。

 抑えていた欲望を“彼”に見抜かれた。

 ずっとしたかったことを、取って代わられた。

 心の奥底にあった願いが、最悪の形で実ったのである。

 綾子は既に避難所を立ち去っていた。行き先は知らない。知る権利はない、と自分で断つ。


 ――“彼”はもう、僕の手には負えない。


 このままでは“彼”はあらゆるものを奪ってしまう。「恭介の望みだから」と称して……。外からの瓦礫の音が、鼓膜を叩き続けた。

 仙台の街が、再び沈み始めている。

 崩壊の音色が嗚咽を止めた。ここで折れれば、街の悲鳴も“彼”の餌になる。


「僕が……僕“達”がやらなければ」


 仙台が、日本が滅ぶ。

 バックヤードを出ると、亮と俊哉が駆け寄ってきた。地下で逃げ遅れた人を引き上げ、恭介を探し回ってここへ辿り着いたのだ。二人とも煤で顔を汚し、息が荒い。


「先生、助けてください! ボクらではもう無理です……!」


 眼前、イービルンズ仙台から光の柱が聳え上がっていた。水神の怒りは今や霊力の奔流と化し、街を呑み込もうとしている。裂け目の先から海の匂いが吹き、金の燐光が泡立った。


「恭ちゃん! これの力で止めてくれ、頼む!」


 亮は光り輝く短刀《潮断》を恭介へ手渡した。二人に託され、祠へ立ち向かう。柄を固く握り締め、己の内へ呼びかけた。


「……おい。僕の願いは全部叶えるんだろ。だったら止めろよ。この崩壊を」


 答えは、力強かった。


〈〈当然だ〉〉


 刀を振り上げる腕に、紋付袴の手が被さる。温度はなくとも、重みは確かだった。

 恭介は叫び、御神体たる鏡へ刃を突き刺した。金の水泡が爆ぜ、風圧が全身を叩く。

 凄まじい爆風。

 蒼白い霊光が街を洗った。

 世界の断層が、縫い合わされるように閉じていった。


「っ……あぁ、っ……!」


 《潮断》を行使した副作用は激しかった。自我まで揺るがす振動が骨髄に走り、膝が砕けそうになる。それでも這い出すように地上へ戻った。


 外は夕暮れ。

 廃墟の向こうに、綾子がいる。

 そうだ。僕は彼女のために頑張ったんだ。

 身体は“彼”に奪われてしまったけど、心なら引き留められると信じて異変を封じた。

 凍りかけていた口角を上げ、手を伸ばす。


「……綾子。君のために、僕は……」

「来ないで!」


 だが、綾子は恭介の手を跳ねのけた。乾いた音が弾ける。


「覚悟はしてたつもりだった……。でも、“ああなる”とは思ってなかったの!」


 彼女の黒い瞳は怯えきっている。


「私、あなたと結婚したいと考えてた。だけど“二人とも”なんて……と、とても受け入れられない」


 綾子は小さな背を向けた。


「だから……ご、ごめんなさい……」


 最後に一度だけ振り返った顔には、軽蔑と、ほんの僅かな未練が浮かんでいた。


「……あああぁああぁぁぁっっ!!!」


 恭介は地に伏せ、慟哭した。


 ……それでもなお、都市の崩壊は止まった。

 停止した時が少しずつ動き出す。

 亮は人々の救助に加勢した。


「恭ちゃん、泣くのは後! まだ生きてるやつがいる!」


 俊哉は家族の身を案じて帰路に就いた。


「……先生。ボク、帰ります。家が無事かを確かめないと……」


 河本も即日、莫大な復興支援金の寄付を決定したとラジオが報じた。


『河本輝政氏は「損害額は兆単位。だが命あれば希望はある」と述べ……』


 綾子も、きっと近くて遠い空の下で生きている。


 止まっているのは恭介の時間だけだ。

 綾子と別れてから、白夜堂に帰宅するまでの記憶がなかった。

 気づけば夜。

 瓦礫の街路に冷えた風が流れている。

 天の川が煌めく廃都の中央で、恭介はひとり呟いた。


「“彼”を滅す。例え世界を引き換えにしてでも」


 裂都は鎮まったが、心の海では荒波が渦巻いたばかりだ。

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