第6章「道場を守れ」【10】
緊張していると気が付いたのは、髪で溜まった汗が頬を伝って顎まで流れ、やがて滴り落ちた時である。
誰かの母親に会った経験が無いという訳でもなく、決して自分の恋人の母親という訳でもない。
落ち着かなければならないのは分かっている。
おそらく、マクミンはとんでもなく緊張してしまっているに違いないのだから。
なかなかユーメシアが入ってこない事に焦れたのか、インバイが中からちょこまかと駆け寄ってきた。
「ユーメシア姫、何をぼんやりなさっておられるのです? 皆様がお待ちでございますよ」
「中の様子は…?」
「そんなもの、ご自分でお確かめあれ!」
ユーメシアの背後に回ったインバイは、彼女の背中を両手で押した。
「やめてちょうだい。そんな事しなくても、私は中へ入ろうとしていたのだから」
果たしてそうだったか。
緊張していると分かっていても、まだ身体が動かなかったのではないだろうか。
インバイが背中を押してくれなかったら、今頃まだ玉座の間の前で立ち尽くしていたかもしれない。
「おお、おお、ユーメシアも参ったか。今は、ほれ、このような状況だ。さ、早くこっちへおいで」
父王と、妹姫と、その恋人と、恋人の母親がいる。
そういえば先程聞こえてきたのはセンティオロの母親の声だけだった。
きっとほとんど一人で喋っていたのだろう。
だから、父王と妹姫のホッとした表情が全てを物語っているのだろう。
「まあ、ユーメシア様でいらっしゃいますわね!」
波打つ黒髪を揺らし、彼女はユーメシアの前で両膝を絨毯の上につき、両の手のひらもつけて頭を下げた。
「私、センティオロの母、ムリューシアでございます」
やや遅れてセンティオロも、同じようにユーメシアの前でひれ伏した。
センティオロに言いたい事は山ほどあるが、顔を絨毯に埋めている母親から言い知れぬ圧力を感じ、心の中で遮った。
そしてユーメシアも片膝をつき、ムリューシアの肩に手を置いた。
「お顔をお上げください、ムリューシア様。私のような者にそのような態度は不要です」
「とんでもございません。ユーメシア様は次期国王になられるお方、フリエダク王と同じようにせねばなりません。ましてや私のような卑しい者が、こんな近くで顔を上げるなど以ての外にございます」
「では私も父上の近くに参りましょう。そしたら、お顔を上げてお話しくださいますね」
立ち上がったユーメシアは、言った通りにフリエダクの隣まで移動した。
それからもう一度促されたムリューシアは、ようやく顔を上げたのだ。
その後センティオロも顔を上げた。
あらためて自己紹介をしたムリューシアは、自らがヴェラ国王の側室である事も隠さなかった。
隠しても意味が無いと分かっているのだろう。
「私の両親は共に平民の出自であり、当然ながら私も平凡な学校を卒業し、ラスペリディ市の小さな食堂で雇われとして働いておりました。」
ラスペリディ市とはヴェラ国の首都である。
「そこへ突然お城の使いという方が現れて、国王が呼んでいると言われたのです。何の話か全く分からなかったのですが断る訳にもいかず、私はお城へ行きました。もちろん、エイドウナトゥラ城です」
エイドウナトゥラはヴェラ国の本城である。
「お城へ行き、国王様と謁見しました。するとそこですぐに私の部屋が決められて、私はそこで住む事を命じられたのです。家へ帰る事は許されませんでした」
残念ながら、ではなく、幸運な事にクルル・レアでは側室の制度が無い。
制度が有る無いに関係なく、フリエダクは妾や愛人を持たなかったとインバイもキューボもホッテテも口を揃える。
王妃、つまりユーメシアの母が亡くなってからも、他の女性とそのような関係になった事は一度もないのだとか。
隣国では当たり前のように側室を迎え、本城に住まわせているのに、本国では全く無いのは信じがたい。
とはいえ王妃が亡くなったのは、三女ニマジレが二歳の頃である。
独り身となった父が何をどうにかしていたかなど、詮索する気は毛頭無い。




