第1章「私は翻訳家じゃない」【6】
「私に翻訳をしろって事ですか? 素人の私に?」
天から地へ真っ逆さまに叩き落とされた顔のアミネがいる。
「結論から言えば、時間がかかり過ぎる。それが問題だよ」
大地に身体を放り出されて大怪我を負っているが、周りに助けてくれる人はいない。
「例えば、君たちが運んでくれた教科書、あれくらいの分量であれば、時間を割いても構わない。二日もかからないだろう」
ハモリオ印刷所で、運ぶ前に教科書を見せてもらった。
『大いなる呪術』とはページの大きさも、ページ数もまるで違う。
更に言うと、一ページに記されている文字数も『大いなる呪術』の方が断然多く、文字の大きさも『大いなる呪術』の方が小さいのだ。
「君の本は、一体何百ページあるのだろうね? それが十三冊も! 教科書を運んだ礼に費やす日数を遥かに超える。とてもじゃないが無理だ」
ヤレンシャも同情の面持ちでアミネを見守っている。
「大学の教授というのも結局は雇われの身でね、朝から晩まで学生に講義を行わなくちゃならんし、大学が指定した期日までに論文を発表しなくちゃならん。その合間にも、やれ会議だの他の大学への出張だのと仕事が山積しているんだ」
つまりは、そんな事にかまけている時間は無い、という訳だ。
エルスとしては、納得出来ない事もない。
しかし、問題はアミネである。
エルスが彼女と初めて会ったのは、今から五、六年前である。
彼女への第一印象は、“綺麗な人だ”と思ったのを今でも覚えている。
きっと、ゼオンも同じように思ったのだろう。
その彼女が絶望に打ちひしがれ、すっかり老けてしまったように見える。
もしもゼオンがここにいたら、アミネをこんな風に落ち込ませてしまったテキュンドを許さないだろう。
「もちろん、礼はするよ」
それが、『大いなる呪術』の解読法の伝授という事。
「…私は、文字の読み書きは出来ますけど…翻訳だなんて、そんな…」
「もしも、君が明日をも知れぬ老人だというなら、話は別だが。だけど君はずっと若い。ヤレンシャたち学生とさほど変わらないよ。時間はかかるだろうが、きっと出来る。約束しよう」
とにかく今日は遅いから、明日の朝もう一度来なさいとテキュンドは言った。
空が色付き始めている。
学生たちも帰宅の為にぞろぞろと校門から出て行く所であった。
エルスは肩を落とすアミネの前を歩き、彼女の隣にはヤレンシャがいた。
「私もびっくりしました。まさかアミネさんに自分で読めって言うだなんて」
彼女は呆れているようだ。
「そりゃあ、『大いなる呪術』は凄い量ですけど。私、中身までは拝見してないんですけど、ひょっとしたら先生の専門の年代とはズレているかも知れません。だから嫌がったのかも。だけど、他に方法はありそうですよね。例えば翻訳してくれそうな人を紹介してくれるとか」
それって、かなり時間を持て余している人なのではないかと、テキュンドの言い分を踏まえるとそう思わずにはいられない。
「そうね…」
とにかくアミネは心ここにあらずといった様子であった。
「おーーーい!!」
校門の近くまで来ると、アミネを目ざとく見つけたゼオンが大きく手を振っている。
待っているだけのはずのゼオンだったが、何故か汗だくであった。
ここで稽古でもしていたのかとエルスは思った。
暇を持て余していたのだなと。
「どうした、アミネ? 元気が無いじゃないか」
あっ、とエルスは焦った。
「疲れたんじゃないですか。普段やらないような、あんなに重い箱を幾つも運んだんですから。トズラーダも拒否するくらいだし。僕も腕が結構ぱんぱんに張ってます。もちろん、一番運んだのはゼオンさんですけど」
今からテキュンドの書斎へ怒鳴り込むような真似をされたら、大変である。
「エルス、よく喋るな」
「うー…」
「でも何だか、本当に疲れたわ」
アミネの一言で助かった。
「そうか、じゃあ宿へ戻って休もうぜ」
事情は宿で落ち着いてから、多少脚色を加えてでもゼオンに説明すればいい。
ヤレンシャに校門で見送られ、エルスたちは宿への帰路に着いた。