第1章「私は翻訳家じゃない」【4】
エルスは筋肉はあるものの見た目に細く、アミネに至っては身体も手足も本当に細いのだ。
ヤレンシャが自分を含めての三人では全く足りないと感じるのも無理はない。
アミネにも彼女の顔からその不安はすぐに読み取れた。
「大丈夫よ! こんな時の為に、腕力だけは誰にも負けないのを用意してるから!」
ちょっとだけゼオンの事が可哀想に思えたエルスである。
エルスたちにヤレンシャを含めての四人は、一旦大学を後にして町の中心部へ向かう。
もちろんトズラーダも一緒である。
「つまり、その教科書を運び終えなくちゃ、テキュンドって教授は話も聞いてくれないって訳なんだな?」
「そうなのよ。だからね、その為にはゼオンの力がどうしても必要なの。私の細腕じゃ、日が暮れても終わらないでしょう?」
珍しくゼオンに対するアミネの声が、一つ高い、間違いなく。
そう思うエルスだが、どうやらゼオンはまんざらでもなさそうなので、そのままにしておく事にした。
「あの、お三人さんはどういった間柄なんでしょうか?」
ヤレンシャがこっそりとエルスに尋ねてきた。
「僕とゼオンさんは、アミネさんが目的地に着くまでの護衛、といった所です」
「ああ、なるほど。町の外にはまだまだ危ない人も多いって言うし。ゼオンさんって、凄く強そうだものね」
アミネには凄く弱いけど。
ハモリオ印刷所。
さほど大きくはないが、寂れた感じはなく、入り口辺りの掃除も行き届いている。
ちゃんとしてそう、という印象を受ける。
「いやいや、本当に申し訳ない! ご注文通りに昨日出来上がるはずだったんです、はい!」
社長のリドべが平身低頭の姿勢を崩さず、後ろにいた社員を一人引っ張り出した。
「こいつなんです、こいつが何を勘違いしたのか、急ぎじゃない仕事を急ぎだと思い込んで、テキュンド教授の教科書の印刷を止めてしまったんです!」
間違いの張本人としてリドべの前へ突き出されたのは、中年の痩せた男であった。
「申し訳ありません。全て私の責任です。どうかお許し下さい」
客側とはいえ、学生のヤレンシャに大の男二人が何度も頭を下げている。
エルスがまだアレイセリオンで“八つ鳥の翼”にいた頃、頭領のヤンドもミスを犯した時は地面に頭が付きそうなほどに誤っていた。
こんな光景を見ると、どこでも仕事は大変なのだなとエルスは思う。
「あ、いえ、その、教科書さえ手に入れば問題ないと教授もおっしゃってましたので、もう、あの、結構です…よ」
元々そういう性格でもなさそうだが、ヤレンシャは文句の一つも挟めなかった。
積まれた新品の教科書の山は、長身のゼオンの頭を超え、ゼオン六人分横に、奥にはゼオン十人分はありそうだった。
「これって…」
「ね、凄い量ですよね」
そもそも馬車一台では一回で運び切れる量ではない。
特にトズラーダでは不可能。
「ご心配には及びません、ええ! うちの馬車もお貸しいたしますから、それはもう! おい、フガン! 見てないでお前も手伝うんだよ!」
ハモリオ印刷所から差し出された人員は、ミスの張本人であるフガンという痩せた中年男であった。
「お任せください。お役に立ってみせます」
声に覇気は感じられないが、やってもらわないと困る。
「まあいいじゃねえか。とにかく馬車に積み込もうぜ」
ゼオンが指揮を執る。
エルスも運ぼうとするが、本というのはやはり重い。
アミネやヤレンシャも苦労している。
しかしゼオンだけは、エルスの何倍もの量を、軽々と運んでいくのだ。
筋肉が唸っているようだ。
残念ながらフガンも見た目のままに、大した腕力はないようで、ふらふらと危なっかしい。
幸いな事に、ハモリオ印刷所の馬車は、馬二頭なので、トズラーダとは段違いの馬力がある。
それでも一回ではやはり運び切れないので、満杯の馬車二台で急ぎ大学まで戻る。
トズラーダが悲鳴というか不満というか、ずっと嘶いている。
「トズラーダは限界よ、肉体的にも精神的にもね」
一回目を運び終えた時点で、もう絶対動かないという強い意志を彼から感じた。