第1章「私は翻訳家じゃない」【10】
グランサイドには六柱の神々を信奉していたのだが、ニチリヤートは“心を司る”神である。
かつて通った学校の教科書に僅かだがグランサイドの記述があり、そこにニチリヤートの肖像画が載っていたのをアミネは思い出していた。
この彫像を作製したのは、この大学の学生だった三人だと説明書に記されていた。
きっとアミネが見た肖像画と同じものを、彼らは参考にしたのではないかと思われた。
それ程までに見事な出来栄えだったのだ。
すっかりニチリヤートに見惚れてしまっていた彼女だったが、どこからか人の話し声がしている事に気が付いた。
辺りを見渡しても姿はないが、彫像の背後に階段があった。
声は上の方から聞こえてくるようだし、一人の声は聞き覚えのあるものだった。
「ヤレンシャ⁈」
階段を上ってみると、男女が二人で話していて、その一人は思った通りヤレンシャであった。
「あ………アミネさん!」
両手に本を数冊抱えた彼女が、アミネの元へ駆け寄ってくる。
一緒に話していた男は、ぷいと顔を背けて逆の方へ消えて行く。
「お友達?」
「ああ、いえ、全然。何か急に声をかけられて、名前とか学年とか色々尋ねられて、そしたら食事に行かないかとか美術館に行かないかとか言われて、どうやって断ればいいのか分からずに困っていた所だったんです。だからアミネさんが来てくれて助かりました」
ヤレンシャは一気に捲し立てた。
「そ、そう…大変だったみたいね。あの人に捕まってたから、教授の書斎へ戻ってこれなかったのね」
あ、とヤレンシャは口を大きく開けた。
「そ、そんなに時間が経ってたんですか⁈」
「実際どうだか分からないけど、テキュンド教授はずいぶん待ってるみたいな口ぶりだったわよ」
「いけない、急いで戻らなくちゃ。あ、アミネさんの為の資料は借りてきたので大丈夫ですから」
足早に階段を降りていくヤレンシャとは対照的に、アミネは重い足取りでゆっくりと歩いていた。
「あら…?」
彫像を階段から見下ろした時、ニチリヤートの足元に、一人の少年を見た。
「アミネさんも急いで下さい!」
一瞬、視線をヤレンシャに向けた。
そしてもう一度、少年がいた方へ目を向けたが、もう誰もいなかった。
「どうしたんですか?」
「そこに、エルスくらいの男の子がいなかった?」
「えっと…気が付きませんでしたけど」
「そう…まあいいわ」
ヤレンシャに言い寄っていた学生とか、ここの学生には見えない少年とか、よくよく考えればアミネにとってはどうでもいい話であった。
彼女が抱えた本の量を見るにつけ、これからどれくらい勉強をしなくてはならないのか、気が遠くなる思いのアミネである。
小学生のニルマが家へ帰ってくると、父のフガンが台所で野菜を切っていた。
「やあ、おかえり、ニルマ」
先日とは打って変わって明るい表情の父を見て、ニルマはこう言った。
「今日はご機嫌だね。会社で叱られなかったの?」
「いつも叱られてる訳じゃないよ。しかも今日に限っては、褒められたんだ」
「えっ! 本当⁈」
「本当さ。配達先で新しい注文を貰ったんだよ。この前の教科書ほどじゃないけど、それなりに大きな仕事だぞ」
「すごーい! お父さん、そんな風に仕事を取ってくる事まで出来るんだ!」
「いやあ、それほどじゃないよ。だけど社長も、凄いぞって褒めてくれたなあ」
「そんなの、お得意様なんだから、何も凄くないわよ」
奥から、洗濯物を取り込んでいたフガンの妻マニーサが憎まれ口を叩きながらやって来た。
「そこは他の印刷所にも発注する事があるんだ。僕は今日は道を間違えずに早く納品出来たから、その仕事をもらえたのさ」
「当たり前の事をしただけでしょう? どうせ最初からハモリオに頼むつもりだったのよ」
「そうかな…」
またがっくりと肩を落とした父を尻目に、ニルマは自分の部屋へ入って行った。
アミネとは別行動のエルスとゼオンは、大通りから狭い路地へ曲がり、ゼオンが前を、エルスが後ろを歩いていた。
「アミネさんは大丈夫かな?」
「仕方ねえ。さすがに勉強には付き合えねえからな。俺には無理だ」




